科学の不思議

STORY-BOOK OF SCIENCE

アンリイ・ファブル Jean-Henri Fabre

大杉栄、伊藤野枝訳




訳者から


 ポオル叔父さんは、本当に驚く程物識りです。どんな不思議な事の説明でも、分りやすく面白くしてくれます。ポオル叔父さんの解いてくれる世の中の不思議な謎は、何と云ふ巧妙さで、そして無雑作に出来てゐるのでせう。どんな事だつて、どんなつまらない事だつて、よく調べ、よく考へて見ると、驚く程意味を持つて生きて来ます。
 ポオル叔父さんの姪や甥達は、アムブロアジヌおあさんのお伽話にはきてしまひましたが、ポオル叔父さんの本当の事についての話には倦く事を知りませんでした。おもちや遊びに夢中だつた一等小さいエミルでさへ叔父さんのお話がはじまつてからはおもちやを忘れてしまつた位です。何でも知りたくてたまらない、不思議な事ばかり目につく、兄さんのジユウルや、一番姉さんのクレエルは叔父さんのお蔭でどれだけ悧巧になり、注意深く物を観、またよく考へるようになつたかしれません。
 人間の眼につくもの、耳にするもの、何一つとして不思議でないものがありませう。不思議に思はないのは、無知に馴れてゐるからです。一度此の不思議な世界の本当の姿を知りはじめたら、此の世の姿は全くちがつたものになつて来るでせう。見るもの聞くもの一々生きて話しかけ、意味をもつて動き出すでせう。それはどれ程面白く、そして為めになるものを人間に示し、与へるでせう? そして又、人間の頭脳の働きと云ふものは、何んと云ふすばらしい発見をする事でせう? その発見はまた、多くの人間をどれ程幸福にするでせう?

 此の本の中には、子供達の眼にうつつたいろんな事、出遇つた様々な事件について、臨機応変に、ポオル叔父さんが子供達の為めにしたお話をすつかり書いたのです。叔父さんのお話は、もつと/\続きます。
『お前達の好きなだけいくらでもしてあげる。』
 と叔父さんは此の本の最後でお約束をしてゐます。叔父さんはその約束どほりにまだ、いろんな話をしてゐます。それはやはりみんな本になつて出てゐます。が此の本の中に納められただけの一とくぎりの中に、どれ程多くの自然界の謎がとかれてあるでせう? それは大ぜいのジユウルや、クレエルや、エミルのやうな子供達の為めになるばかりでなく、無知に馴らされて来た大人達をも、どんなにか驚かせる事だらうと私は思ひます。

 学問といふものは、学者といふいかめしい人達の研究室といふ処にばかり閉ぢこめておかれる筈のものではありません。誰れもかれも知らなければならないのです。今までの世間の習慣は、学問といふものをあんまりあがめすぎて、一般の人達から遠ざけてしまひすぎました。何の研究でも、その道の学者だけが知つてゐれば、他の者は知らなくてもいゝやうな風に極められてゐました。いや、知らなくてもいゝ、ではなくて、知る資格がないやうにきめられてゐました。けれども此の習慣は間ちがつてゐます。非常にこみ入つた六ヶむずかしい研究は別として、誰れでも一と通りの学問は知つてゐなければなりません、子供でも大人でも。
 子供の為めのお伽話とぎばなしの本は、沢山すぎる程あります。けれども、お伽話よりは『本当の話が聞きたい』と云ふ、ジユウルのやうな子供の為めのおもしろい本を書いてくれる学者は日本にはあまりないのか、一向に見あたりません。
 ポオル叔父さんはフランス人です。子供達もフランス人です。それで日本の子供達の為めに書いたものゝやうにすつかり何から何までうまい工合にはゆきませんが、それでも、無駄な事は一つもない筈です。日本の子供達のよむのに不都合な事はないと思ひます。私は此のフランスの親切な叔父さんのお蔭で、お伽話ばかりおもしろがつてゐる日本の子供達に『本当の話』がどんなにおもしろいものかと云ふ事が分れば本当にうれしく思ひます。そして又、沢山のお父さんや、お母さんや、叔父さんや、叔母さんや、姉さんや、兄さん達が、此の本で、小さい人達の目にうつるいろんな謎を、どういふ風に片づけてやるべきものか、と云ふ事、またその事柄をも併せて学んで下されば大変しあはせです。
 なを、此の本は、少し前に、他の人の手で訳されて出てゐますが、それは、抄訳で、しかもポオル叔父さんの一番お得意な、全巻の三分の一をしめてゐる、虫の話が全部ぬいてありますので、別にまた此の書を出すのも決して無意味ではあるまいとおもひます。
伊藤野枝
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一 六人


 或る夕方、まだ外がやう/\暗くなりかけた時分から、六人の人達は、みんな一とかたまりになつて集まりました。
 ポオル叔父さんは大きな本を読んでゐました。叔父さんは、本を読むのは一番ためにもなり、また疲れをやすめるのに、これ程いゝものはないときめてゐますので、働いたあとでやすむ時には、いつも本を読みます。叔父さんの室の、松材でつくつた棚の上には、いろんな種類の本が綺麗に整頓して並べてあります。其の中には大きい本や小さい本や、絵入りのや絵なしのや、ちやんと製本したのや仮綴のまゝのや、また立派な金縁のまであるといふ風です。叔父さんが其の自分の室に閉ぢ籠ると、大抵の事では其の読書を止めさす事が出来ません。ですから、ポオル叔父さんはどんな話でも知つてゐるとみんなが云つてゐます。叔父さんはたゞ読むばかりではありません。自分で調べて見たり又物事を注意して見たりもするのです。自分の庭を歩く時にも、よく蜜蜂がブン/\羽の音をさせてとり囲んでゐる巣箱の前や、小さい花が雪のやうに散つて来る接骨木にわとこの茂つた下で立ち止まつて見たり、又或る時には、ひまはる小さな虫や、芽を出したばかりの草の葉をよく見る為めに地面に屈み込んだりしてゐます。一体何を観てゐるのでせう? 何を調べてゐるのでせう? それは誰れにも分りません。しかし叔父さんのさういふ時の顔は、丁度神様の不思議な秘密を見出して、それと面と向き合つたやうに、気高い歓びに輝いて来るとみんなは云つてゐます。私達が本当に感心して聞くあの叔父さんの話は、さういふ時に出来るのです。私達はその話には本当に感心します。そして其の上に、何時かはきつと私達の役に立つ沢山の物事を覚えます。
 ポオル叔父さんは勝れて立派な、信心深い人です。そして又『いゝパンのやうに』誰れにでも親切な人です。村では、叔父さんの学問が大変皆んなの助けになるので、ポオル先生と云つて非常に尊敬してゐます。
 ポオル叔父さんの百姓仕事を手伝ふのに――私はあなたに、叔父さんは本をよむのと同じやうに、すきくわをどう握るかと云ふ事もよく知つてゐて、自分の小さな持地を上手に耕やしてゐるのだと云ふ事も話さねばならなかつたのです――ジヤツクといふおじいさんがゐます。お爺さんは、アムブロアジヌお婆あさんの年老としとつたつれあひです。アムブロアジヌお婆あさんは家の中の事によく気をつけてゐますし、ジヤツク爺さんはまた畑や家畜の面倒を見ます。二人とも大変にいゝ召使ひです。そして、ポオル叔父さんにとつてはすつかり信用の出来る、二人の友達でもあるのです。二人はポオル叔父さんが生れた時も知つてゐますし、ずつと長い間此の家にゐるのです。まだ小さかつたポオル叔父さんの機嫌が悪い時に、どれ程始終ジヤツクは柳の皮で笛をつくつては慰めてやつたか知れません。そして又アムブロアジヌお婆あさんは、どんなに度々、小さいポオルが泣かずに学校に行く様に勢づける為に生みたての卵をゆでてはお弁当の籠の中に入れてやつたでせう? さういふ風に、ポオル叔父さんは、お父さんの召使ひの年老つた二人から大事にされました。叔父さんの家は又此のお爺さんお婆あさんの家でもあるのです。あなたにもジヤツクお爺さんとアムブロアジヌお婆あさんがどんなにその御主人を大事にしてゐるか、お分りでせう! ポオル叔父さんの為なら、二人は四ん這ひにでもなる位なのです。
 ポオル叔父さんには、家族がありません。一人ぽつちなのです。が、叔父さんは子供達と一緒にゐる時程楽しい事はないのです。子供達は誰でも話ずきです。又誰でもあれこれといろんな事をたづねます。心を引かれる事は何んでも貴い正直さでたづねます。ポオル叔父さんは、自分の兄弟にいろいろ頼んでようやしばらくの間其の子供達を叔父さんの家に暮らさせるようにしました。それは、エミルとジユウルとクレエルと云ふ三人の子供でした。
 クレエルは一番年上です。初物のさくらんぼが出る時分には丁度十二になるのです。ほんの少し内気ですが、よく働く、すなほな優しいいゝ女の子です。それにちつとも高慢なところなどは持つてゐません。何時でも靴足袋を編んだり、ハンケチの縁をとつたり、学課を勉強したりしてゐて、日曜日に着る着物はどれにしようかといふやうな事は考へません。そして叔父さんやアンブロアジヌお婆あさんに頼まれた事は、直ぐに間違へずにしてしまひます、どんな事でも、自分が役に立つ事を嬉しさうにして手伝ひます。それは、本当にいゝ性質を持つた子です。
 ジユウルはクレエルよりは二つ下です。いくらか痩せてはゐますが、生き/\した、何でも焼きつくす燃えるやうな性質たちの男の子です。で、何かに気を取られると、夜も眠る事が出来ません。何かを知りたいといふ慾のためには決して飽きる事を知りません。そして見るもの聞くものが、ジユウルには知りたくてたまらないものばかりです。藁きれをひつぱつてゆく蟻でも、屋根の上でチウ/\鳴いてゐる雀でも、ジユウルの注意を引きつけてすつかり夢中にさせてしまふのです。そんな時には、ジユウルは叔父さんにきりのない質問を繰り返します。それは何故ですか? それはどう云ふんです?と云ふ風に。叔父さんは、ジユウルの此の好奇心を正しく導いて行きさへすれば、きつといゝ結果をあげる事が出来るだらうといふので、大変に信用してゐます。けれども叔父さんは、ジユウルに一つだけ嫌ひなところがあります。正直に云ひますと、ジユウルは一寸ちょっとした欠点を持つてゐます。それは用心して防がなかつたら、大変な事になるものなのです。ジユウルは癇癪かんしゃく持ちです。しジユウルに逆ふものがあれば、怒つて、眼をむいたり、泣いたりわめいたり、又自分の帽子を腹立たしさうに放り出したりします。けれども、それは※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)立つてゐるミルクスウプのやうなもので、少しすれば直ぐに静まります。ポオル叔父さんは、ジユウルがいゝ心を持つてゐる事を知つてゐますから、此の悪い癖も軽い小言位で直すことが出来るだらうと思つてゐます。
 エミルは三人のうちで一番年下です。そして暴れ坊主です。けれどもそれは年から云へば無理はありません。若し、誰れかの顔にベリイがなすりつけてあるとか、又額にコブが出来たとか、指にとげがさゝつたとかいふ事があれば、それはエミルのせいだと大抵察しがつきます。ジユウルとクレエルが書物をどんなにか喜ぶやうに、エミルは自分のおもちや箱をのぞくのが何よりも楽しみです。エミルは一体どんなおもちやを持つてゐるのでせう? 其処には、ブン/\唸る独楽こまや、赤や青の鉛でつくつた兵隊さんや、いろ/\な動物で一杯になつたノアの箱船や、ラツパ――これはあんまり騒々しい音を出しますから叔父さんから吹くのをめられてゐます――や、そして此の名高い箱船の中には、エミル一人だけが知つてゐるいろんなものがはいつてゐます。それから忘れないうちに云つておきますが、エミルはもうよく叔父さんにいろ/\な質問をします。それだけ物事に注意をするやうになつて来たのです。此の世の中では、いゝ独楽より他にもつと面白い事が沢山ある事がわかり出して来たのです。ですから、何時かエミルが、お話を聞くためにおもちや箱の事は忘れてしまつたといふやうな事があつても、誰れも不思議がりはしないでせう。

二 お伽話と本当のお話


 其の六人が一緒に集まつたのです。ポオル叔父さんは大きな書物を読んでゐました。ジヤツクお爺さんは柳の枝で籠を編んでゐました。アンブロアジヌお婆あさんは糸捲竿いとまきさおをまはしてゐますし、クレエルは赤い糸でリンネルの縁をとつてゐました。ジユウルとエミルは、ノアの箱船で遊んでゐます。二人は駱駝らくだのうしろに馬、馬のあとには犬、それから羊、驢馬ろば、牛、獅子、象、熊、羚羊かもしかその他いろんなものをみんな長い行列に仕あげて、それを箱船までとどかしてしまふと、ジユウルもエミルも遊び倦きてしまひました。そしてアンブロアジヌお婆あさんに云ひました。
『お婆あさん、お話をして頂戴な、面白さうなのをね。』
 年をとつたお婆あさんは、紡錘いとくりをまはしながら無雑作に、こんな話をしました。
『むかしむかし、一匹のばつたが、蟻と一緒に市に出かけました。処が川がすつかり凍つてゐました。で、ばつたは氷の向ふ側の方に跳んでしまひました。けれども蟻は跳べないのです。其処で蟻はばつたに『ばつたさん、私をおんぶして下さいよ。私はこんなに軽いんですからさ』と頼みました。けれどもばつたは、『私のやうにしてお跳びよ』と云ひますので、蟻は跳びました。けれどもすべつて足をくじきました。
『氷さん、氷さん、強い者は親切でなくてはいけないよ。それだのにお前は悪い奴だよ。蟻の足なんかくじかせてさ――あの可哀想な小さな足をさ――』
 とばつたが云ひますと、氷が答へました。
『私よりお太陽てんとうさんの方が強いよ、あいつは私を融かしてしまふからね。』
『お太陽さんお太陽さん強い者は親切でなくつちやならないのにお前はいけないよ。お前は氷をとかすなんて。そして、お前と氷とでのあの可哀想な蟻の小さな足をくじいたんぢやないか。』
 すると太陽が云ひました。『雲は私よりももつと強いよ、私をかくしてしまふんだもの。』
『雲さん、雲さん、お前は悪い奴だ。強いものは親切でなくてはならないのに、お太陽さんをかくしたりなんかして。お前とお太陽さんが氷をとかして、お前と氷とで蟻の足をくじいたのだよ。あの小さい可哀想な蟻の足をさ。』
 すると雲が答へました。『風は私達よりずつと強いよ。私達を吹き飛ばしてしまふんだもの。』
『風さん、風さん、強い者は親切にするものだよ。けれどもお前は悪いね。雲を吹き飛ばしてさ。お前と雲とはお太陽さんをかくしてしまふし、お前とお太陽さんとで氷をとかして、そして氷はまたお前達と一しよになつて蟻の足をくじくなんて。――あの可哀想な蟻の足をさ――』
 すると、こんどは風が云ひました。
『私より壁の方が強いよ。壁は私を通さないんだもの。』
『壁さん、壁さん、お前は本当に悪いね。強い者は親切でなくつちやいけないのに、風を通さないなんて。お前と風は雲を吹き飛ばしてしまふし、雲とお前はお太陽さんをかくすし、お太陽さんは氷をとかすんだもの。あの可哀さうな小さな蟻の足をくぢいたのはお前と氷だよ。』
 すると壁が、『私よりも鼠の方がずつと強いんだよ。鼠は私達に穴をあけるんだもの。』
『鼠さん、鼠さん、強いものは――――』
『それぢや、いつまでたつたつておんなじ事ばかりぢやないの、お婆あさん。』
 エミルがこらへきれないで叫びました。
『さうぢやありませんよ、エミルさん、鼠の次ぎには鼠を食べる猫が来ます。それから猫を打つ掃木ほうき、それから掃木を焼く火、火を消す水、水を飲んで咽喉の渇くのを止める牝牛、牝牛をさす蠅、蠅をかつさらふ燕、その燕を捕へるわな、それから――』
『そんなにして何時までも同じ事が続くんぢやないの?』
 エミルが聞きました。
『あなたのお好きなだけ、いくらでも長く続きますよ。どんなに強いものがあつても、何時も、いくらでも、もつと強い外の者が出て来ますからね。』
 アンブロアジヌお婆あさんは答へました。
『でもお婆あさん』とエミルが云ひました。『僕、其のお話は倦きちやつたよ。』
『では別のお話を致しませう。昔、一人の樵夫きこりがお神さんと一緒に住んでゐました。二人は大変貧乏でした。此の樵夫夫婦には七人の子供がありました。その一等下の子はそれはそれは小さくて、其の寝床は木靴で間に合ふ位でした。』
『僕其の話は知つてるよ。』と又エミルが口出しをしました。『其の七人の子供達が森の中で、迷子になるのさ。初めの時には一寸法師が白い小石で道にしるしをおいたけれど、其の時にはパン屑をまいておいたものだから、鳥がみんな其のパン屑をたべてしまつて、道がわからなくなつたのさ。それで一寸法師が木のてつぺんにのぼると、遠くの方に灯が見えるので、みんなでタツタツと馳け出して行つて見ると、それは人喰鬼の住居だつた、と云ふんだよ!』
『其の話の中には本当の事がないな』とジユウルが云ひました。『背虫の猫の話にだつて、シンデレラの話にだつて、青鬚の話にだつて、やつぱり本当の事がないんだ。あれはみんなお伽話で、本当の話ぢやないんだ。僕はもう聞くならすつかり本当の話が聞きたいな。』
 本当の話、と云ふ言葉で、ポオル叔父さんは大きい書物を閉ぢて、頭を上げました。アンブロアジヌお婆あさんの古いお話よりはずつと面白くて為めになるやうな話を持ち出すのに、みんなの話の向をかへるいゝ折が来たのです。
『私は本当のお話を聞きたがつてゐるお前に賛成します。』と叔父さんが云ひました。『お前は其の本当の話の中にでも不思議な事を見つけ出すだらう。そして其の話は、お前位の年頃の者をよろこばせもするだらうし、又お前の年になれば自分でよく考へねばならない、後々の生活の準備にも十分に役に立つだらう。本当の話は人喰鬼が新しい血を嗅ぎ出す話や、妖精おばけとうなすを馬車にしたり蜥蜴とかげ従者おともに化けさせたりする話よりは、もつと本当に面白い筈だ。それとも外にもつといゝ話があるかい? 本当の話と、取るにも足りない作り話とをくらべて御覧。本当の話はみんな神様の仕事で、作り話は人間の夢なのだよ。アンブロアジヌお婆あさんは氷を渡つて見ようとして足をくぢいた蟻の話でお前を面白がらせる事が出来なかつたね。私はもつとうまく話せるかも知れない。誰れか本物の蟻についての本当の話を聞きたい人があるかね!』
『私! 私!』エミルもジユウルもクレエルもみんな一緒に叫びました。

三 蟻の都会


『蟻は立派な働き手だ。』とポオル叔父さんは話はじめました。『私は幾度も朝の太陽が暖く照りはじめる時分に、蟻達が小な蟻塚のまはりをとりまいて働いてゐるのを見て楽しんだ。蟻塚にはどれにもめいめいに其のてつぺんに、出入口になる穴が穿いてゐるのだ。
『其の塚の穴の口に、或る一匹が底の方から出て来ると、いくらでもあとからあとからと続いて出て来る。そして其の蟻達はみんな体の割には重すぎる位の、小さな土の粒をくわへて運んでゐる。塚の頂上に着くと、蟻は其の重荷をおろして、塚の勾配を転がし下すのだ。そして、直ぐに又中に下りてゆく。蟻達は、途中で遊んだり、一寸の間でも仲間と立ち止まつて一緒に休むなどと云ふ事はないのだ。それどころか! 蟻達の仕事は大急ぎなのだ。そしてうんと働かなければならないのだ。どれもどれも大真面目で、着くと直ぐ土の粒を置いては、又他のを捜しに降りて行く。蟻達は一体うしてそんなに忙しがつてゐるのだらう?
『其の蟻達は、地の下に、街や広場や、合宿所や、蔵などで、一つの町をつくつてゐるのだ。自分や家族達の住居を掘つてゐるのだ。蟻達は其の町や坑道を雨が滲み透さない様な深い処で掘つてゐる。そして、其の坑道といふのは、長い大通りの街になつたり、小さな分れ道になつたり、他の道と彼方あっち此方こっちで交叉したり、上りになつたり下りになつたり、大きな会堂の中に通じたりしてゐるのだ。そしてさうした大層な仕事は、みんな、蟻達のあごの力でき出された一と粒一と粒で成就されるのだ。若し誰でも地面の下で働いてゐる真黒な坑夫共の軍隊を見る事が出来たら、其の人は感心しないではゐられないだらう。
『その地面の下の真暗な深い穴の中では、土をひつかく者や、喞へる者や、曵きずる者や、数千の蟻が働いてゐる。その辛抱強い事! そのひどい骨折り! そして、たうとう砂粒が道をあけると、蟻達が自慢らしく頭を高くあげて、さも得意さうにそれを運び上げて来はじめる事と云つたら! その蟻達の頭は、塚の頂上まで着くと、すつかり自分達の体が疲れてしまふ位の、大変な重荷の下でグラ/\してゐるのを私は見た。蟻達は仲間とぶつかりながらも『私の働きを見てくれ』と云つてゐるやうに見える。そして誰も自分の働きに対するその立派な誇りをとがめはしない。少しづつ、町の門と云ふやうな穴の縁に、土の小さい塚がみ上げられる。其の塚の土は、つくつてゐる町の材料をけづつたものなのだ。で、大きい塚なら地面の下の住居はやはり大きいのだと云ふ事はすぐ分る。
『地面の下で坑道を掘りさへすれば、それで蟻の仕事はおしまひかと云ふと、決してさうではない。弱い処を固めて地辷りを防がなければならないし、柱で円天井を支へたり、仕切りもつくらねばならない。大勢の坑夫達は其の時には大工達の手伝ひになるのだ。最初には蟻塚から土を運び出す。その次ぎには建築材料を持ち込むのだ。其の材料と云ふのは、建物に似合ひな、梁だとか、小さな枕木とかいふ風な材木の切れだ。ほんの小ちやな藁屑でも、天井のしつかりした梁になるし、よごれた葉つぱの茎でも強い円柱まるばしらになるのだ。大工達は、近所の森とも云ふやうな草叢の中を探険して其等の木切れを選ぶのだ。
『いゝものが見つかつた! 麦粒の殻だ。それは大変うすくつて汚れてゐる。が、しつかりしてゐる。それは下の方で蟻達がつくつてゐる建物の仕切りには上等の板がつくれるだらう。けれども重いのだ。途方もなく重いのだ。蟻がそれを見つけ出す。そして六本の自分の足で剛情に後の方にひつぱらうとする。駄目だ。重い塊は動かない。けれども蟻はその小さい体にありつたけの力でもう一度ひつぱつて見る。麦殻はほんの一寸働くだけだ。で、蟻は自分の力に及ばないとあきらめる。そして行つてしまふ。ではその麦の殻を棄てたのだらうか? どうして、どうして! 其の時は一匹でも、其の一匹は必ずその事を仕遂しとげねばおかぬ辛抱強さを持つてゐるのだ。だから、その行つてしまつた蟻は其処に二匹の手伝ひを連れて引きかへして来る。そして其の一匹はすぐに麦の殻の前の方を捉へる。他の者達は大急ぎでその両側にまはる。そしてその麦殻を転がす。前へ進んで行く。うまくゆきさうだ。其処は歩きにくい。けれども蟻達は此の荷物を担いだ蟻に逢ふと、みんな道を譲るのだ。
『けれども、まだ、すつかり仕事をやり遂げるのに困難がなくなつたと云ふ訳にはゆかない。麦殻は地下の町の入口まで行つた。が、其の麦殻は今は簡単には穴の中にはいらないやうになつた。その麦殻はゆがんでゐる。穴の縁とは反対の方に傾いてゐるのだ。手伝ひ共は押し上げる。十ぺんも二十ぺんも一つ骨折りをやる。が、駄目だ。で、其の二匹か、或は三匹とも、機械師達のやうに、隊を解散して、此のどうしても勝てない不可抗力の原因をさぐりに出かける。故障はすぐに解つた。蟻共は其の麦殻をすつかり持ち上げなければならないのだ。麦殻はその一端が穴の口から突き出す位までほんの少しの間をひつぱられる。それから、其の突き出した方の端を一匹の蟻が捉へると同時に他の蟻共は地面についてゐる方の端を持ち上げる。すると、其の麦殻はでんぐり返つて穴の中に落ちる。しかし、大工達がそれを側面にくつつけるまでは、用心深くつかんでゐるのだ。お前達はたぶん土を運んでゐるほかの坑夫達がその不思議な機械的な働きを面白がつてその前に立ち止つたらうと考へるだらうね。だが蟻はちつともそんな暇は持たないんだよ。みんな其の坑夫達は、大工仕事とは別に、掘り出した材料の土の荷物と一しよにずん/\通つて行くのだ。蟻共の熱心さは、梁を動かす下にでもびつこになるのもかまはずに大胆にすべり込んで行く位だ。
『誰れでも、そんなに働いてはたべなければゐられない。激しい運動程食慾を起さすものはない。其処で乳しぼりの蟻は列をぬけて行つて、乳を持つた牝牛から乳を搾つて労働者の蟻達にくばるのだ。』
 すると、エミルがふき出しました。
『それは、きつと本当ぢやないんでせう?』と叔父さんに云ひました。『乳搾りの蟻だの、牝牛だの、乳だなんて! やつぱりアンブロアジヌお婆あさんが話すやうなお伽話です。』
 ポオル叔父さんの使つた妙な云ひまはしに驚いたのはエミル一人ではありませんでした。アンブロアジヌお婆あさんはしばらく糸車をまはしませんでした。又、ジヤツクお爺さんも柳を編むのをやめました。ジユウルもクレエルも眼を円くしました。みんなそれを冗談だと思つたのです。
『いゝえ、坊や、私は冗談なんか云いやしないよ。私は本当のお話をお伽話なんかに変へやしないよ。乳搾りも牝牛も、みんな本当にあるのだよ。けれども、其の問ひを説明する、此の話のつゞきは、明日の晩までお預りにしよう。』
 エミルはジユウルを隅つこの方に引つぱつて行つて云ひました。
『叔父さんの本当の話は大変面白いのね。アンブロアジヌお婆さんのお伽話よりもよつぽど面白いや。あの不思議な牝牛の話がすつかり聞ければ、僕はもうノアの箱船なんかどうなつてもいゝな。』

四 牝牛


 次の日にエミルは、眼をさますかさまさないうちから、蟻の牝牛の事を考へはじめました。
『叔父さんに、あの話の続きを今朝してくれるやうに頼まなくつちや。』
 エミルはジユウルに云ひました。そして大急ぎで叔父さんを見に行きました。
『アハ!』叔父さんは二人の頼みを聞くと大きな声を出しました。『蟻の牝牛の話がそんなにお前達の気に入つたかい。では、お前達にその話をして聞かすよりもつといゝ事をしよう。お前達にそれを見せてあげよう。まづ、クレエルをお呼び。』
 クレエルは大急ぎで来ました。叔父さんはみんなを庭の接骨木の茂つた下に連れて行きました。そしてみんなは次のやうな事を見たのです。
 其の茂みは花で真白でした。蜂や、蠅や、甲虫かぶとむしや、蝶が、ねむくなるやうな微かな音をたてゝ彼方此方の花から花へ飛びまはつてゐました。接骨木の幹では、その木の皮の筋の間を沢山の蟻が、上つたり降つたりして這つてゐました。そして上る蟻の方がずつと一生懸命でした。その蟻共は時々道で立ち止つて他の蟻とどう上つて行くかについて相談してゐるやうに見えます。そして又すぐに一層熱心に這ひ上つて行きます。降りて来る蟻達はゆつくりとした様子で小さな足どりで来ます。そして自分から足をめて休んだり、上つて来る蟻に忠告をしてやつたりします。誰れでも上つて行く者と降りる者の熱心さのちがふ原因は容易に察する事が出来ます。降りて来る蟻達の胃袋はふくれて、重くて、不格好な程一杯になつてゐます。上つて行く蟻達の胃袋はうすくてぺちやんこにたゝまつて、ひもじさにいてゐます。それを間違ひつこはありません。降りる蟻達は、沢山な御馳走をたべて、のろのろと家に帰つて行くのです。上る方の蟻は、からつぽの胃袋を一ぱいにしようとする熱心さで、茂みの中を襲ふて、おなじ御馳走の処に走つて行くのです。
『蟻達は接骨木の上で、胃袋を一杯にする何を見つけたのです?』とジユウルが尋ねました。『其処にゐるのなんか、やつと体と一しよに胃袋を引きずつてゐるぢやありませんか。大食ひだなあ。』
『大食ひ? さうぢやない。』とポオル叔父さんはジユウルの云つた事を直しました。『あの蟻達は、もつとえらい目的でたらふく食ふのだ。此の接骨木の上の方に沢山の牝牛がゐるのだ。降りて来る蟻達は丁度今其の牝牛から乳をしぼつて来た処なのだよ。ふくれたお腹をひきづつて行くのは、蟻塚殖民地に共同の食物のミルクを運んでゐるのだ。では、其の牝牛から乳を搾る処を見ようかね。けれども断つておくがね、其の牝牛の群を人間のと同じやうに思つてはいけないよ。其の牧場は一枚の葉つぱで用に足りるのだからね。』
 ポオル叔父さんは接骨木の枝の先きを、子供達に見える位まで引き下ろしました。そしてみんなで、よく気をつけて見ました。木のやはらかい処や葉の裏には数へる事も出来ない位にびつしりくつつき合つて、真黒なびろうどのやうなしらみがしつかりくつついてゐました。その虱は、毛よりも細い吸盤を皮の中に突込んで、少しも其の位置を変へずに接骨木の樹汁で無事に腹を一杯にしてゐるのです。其のお尻の先に小さくて穴のある二本の毛を持つてゐます。その二つの管からは、よく気をつけて見ると砂糖水のやうな小さな滴りが時々漏れ出してゐるのが見えます。此の黒い虱は木虱と云つて、これが蟻の牝牛なのです。其の二つの管は牝牛の乳房で、その端から滴る液体が乳なのです。牝牛が重なり合ふやうにくつついてゐるその真中やその上までも這ひまはつて飢ゑた蟻達は彼方此方の虱の間を行つたり来たりして、其のうまい滴りの出るのを見守つてゐます。そして、それが見つかればすぐに走つて行てそれを飲んで楽しんでゐます。そして小さい頭をあげておゝ何てうまいんだらう、おおこれは何んてうまいんだらう! と云つてゐるやうに見えます。そして、又、他の一口のミルクをさがしに行くのです。けれども、木虱は乳をしみます。何時もその管から流し出しはしないのです。其の時には蟻は、乳搾りが其の牝牛の乳にするやうに、やさしく木虱の背中を幾度も撫でさすつてやります。同時に触角といふ其の細いしなやかな小さな角でそつと胃を叩いたり、乳管をさすつたりします。此の蟻の仕事は大抵うまくゆくのです。此のおとなしいやり方で、どうして成就しない事がありませう! 木虱は負けてしまひます。そして一とたらしの滴を見せます。それはすぐにめつくされて仕舞ふのです。けれども、蟻はその小さな腹がまだ一杯にはならないと云ふやうに、他の木虱を撫でに行つてしまひます。
 ポオル叔父さんは枝を離しました。枝は跳ね返つてもとの位置に返りました。乳搾りも、牛も、牧場も忽ち接骨木の茂みの頂上に行つてしまひました。
『まあ、不思議ですのねえ、叔父さん。』とクレエルが叫びました。
『不思議だねえ。だが、接骨木ばかりが蟻の牝牛共のゐる藪ではないんだよ。木虱は他のいろんな木にも見つける事が出来るのだ。キヤベツや薔薇の藪にたかつてゐる木虱は緑色をしてゐるし、接骨木や、豆や、けしや、蕁麻いらくさや、柳、ポプラのは黒、樫とあざみのは青銅色、夾竹桃や胡桃くるみとかはんのきとかにつくのは黄色だ。みんな二つの管を持つてゐて、其れから甘い汁を滲み出させて、お互ひに蟻の御馳走の為めに競争してゐるのだ。』
 クレエルと叔父さんは、家にはいりました。エミルとジユウルとは今見た事に夢中になつて、木虱を他の木でさがしはじめました。そして二人は一時間とたゝないうちに、四種類の木虱を見つけました。そしてどの種類もみんな不公平なく見舞ふ蟻達をもてなしてゐました。

五 牛小舎


 夕方、ポオル叔父さんはまた、蟻の話の続きをはじめました。丁度その時に、ジヤツクは、何時もするとほりに、牡牛がまぐさをたべてゐるかどうか、そして御馳走をたべた仔牛共が無事に母親のそばで眠つてゐるかどうか、と家畜小屋を見まはつて来た処でした。そして、もう柳の籠を編む仕事がお仕舞ひになつたと云ふので其処に腰を据ゑてゐました。ジヤツクも蟻の牝牛の本当の訳を知りたいのです。ポオル叔父さんは、今朝みんなが接骨木の木で何を見たか、又、木虱がどうして甘い滴をその管から滲み出させるか、蟻がどうして、その結構な汁を飲むか、そしてどうしてそれを知つたか、もし必要な時には木虱を撫でさすつてもそれを手に入れる、と云ふ事までくわしく話して聞かせました。
『あなたが私共に話して下さいました事は』とジヤツクが云ひました。『私のやうに年老つた者でも動かされます。そして神様が御自分でお創りになつたものにどんなに気をおつけになつてゐるかゞよくわかります。神様は丁度人間に牝牛をあてがつて下すつたやうに、蟻には木虱をおあてがひになつたのですね。』
『さうだ、ジヤツクや、』とポオル叔父さんは答へました。『それはみんな神様に対する私達の信仰を増させるのだ。神様の眼からは何物ものがれるものはないのだ。考へ深い人には、花の底から蜜を吸ふ甲虫も焼けるやうな瓦から雨垂れを取る苔の房も、神様の慈しみを証拠立てゝゐるのだ。
『其処で、私の話に戻らう。もし私達の牝牛が村をぶらつきまはつたら、私達は乳をとるのに、遠い牧場まで厄介な旅をしなければならない事になる。それもきまりのない何処かで見つけ出さなければならないし、見つからない事もあるだらう。それは私達には大層骨の折れる仕事となり、そして又しよつちう乳を搾る事が出来ない事もあるだらう。その時に、私達はそれをどう云ふ風に扱つたらいいだらう? 私達は其の牝牛共を囲ゐや小舎こやの中に入れて、手の届く処におく、蟻も時としては木虱にさうする。蟻共も此の厄介な日課を時々避ける為めに、其の畜牛共を自分達の草場の中に置く。だが、そればかりではない。今仮りに、蟻が其の無数の牛や牧場の為めに、十分大きな草場をつくる事とする。どうして、例へば今朝私共が見た黒い虱程の数を蟻が囲へるだらうか? そんな途方もない事は出来ない。ほんのちよつと虱のついた草があるとする。囲ゐの出来るのはそんな草なのだ。
『蟻はそのわずかばかりの木虱を見つけると、小舎を建てゝ、其処に木虱を囲つて、強い太陽の光線を遮ぎる。そして蟻自身も折々其処へはいつて、牝牛を手の届く処に置いて、ゆつくりと乳を搾る。その目的で、蟻共は、草の根の上の方がむき出しになる位に、草叢くさむらの下の土を移しはじめる。そのむき出しになつたところが、自然の骨組となつて、其の上へ建物を造るのだ。それには、此の骨組みの上へ湿つた土の粒を一つ一つ堆み上げて行つて、木虱のゐるところまで円天井のやうなもので、茎を囲む。そして此の小舎に出はいりする為めの出入口をつくる。それで小舎は出来あがつたのだ。涼しく静かで、そして同時に食料も十分あるのだ。此の上もない幸福な事だ。牝牛は無事に其処の秣架まぐさだなに居る。即ち木の皮にひつつけてある。蟻共は家の中にゐて、其の木虱の管から甘味おいしい乳を腹一ぱいに飲む事が出来るのだ。
『が、此の粘土でつくつた小舎は、大急ぎで、少しばかりの労力でつくつたものなので、大した建物ではない。一寸強く打てば直ぐに毀れてしまふ。何故こんな一時的の建物をつくるのに、あんな骨折りをするのだらう? が、高山の羊飼ひは、一ヶ月か二ヶ月しか使はない其の松の枝の小舎をつくるのに、もつと骨折りはしないか。
『蟻共は、木虱を草叢の底の方に少しばかり囲つておく事では満足しない。彼等は又、其の囲ゐのそとの遠くで見つけた木虱を其処へ持ち運んで来る。かうして彼等は、其の不十分な牛の群れを補ふ、と云ふ人がある。私は蟻にさうした先見のある事には別に驚きもしない。しかし私はそれを自分で見た事はないから、確かにさうだとは云へない。私が自分の眼で見たのは、たゞ木虱の小舎がある事だ。もしジユウルが此の夏の暑い日に種々いろいろな盆栽の根の方に気をつけてゐたら、きつとそれを見つける事が出来るだらう。』
『きつとですか、叔父さん』とジユウルが云ひました。『僕それを見よう、その珍らしい蟻の小舎を見たいな。それから叔父さんはまだ、あの蟻がうまく木虱の群を見つけた時にどうしてあんなにたらふくたべるのかつて事を僕達に話してくれなかつたぢやありませんか。叔父さんは、あの接骨木を大きなおなかをして降りて来る蟻共は蟻塚の中でそのたべものを分けるのだと云ひましたね。』
『蟻は自分だけで御馳走をたべる事もある。それは決して悪い事ぢやない。誰でも他人の為めに働く前にづ自分の元気をつけなくちやならない。しかし自分がたべるとすぐに、ほかのひもじい者の事を考へるのだ。人間の間では、何時もさうは行かない。人間は自分が御馳走をたべれば、他の者もみんなやはりちやんと御馳走をたべてゐるものと思ふものがある。そんな人間の事を利己主義者と云ふのだ。お前達も此のつまらない名前のつくやうな事をしないやうにしなければならない。蟻は極くつまらない小さな生き者だが、此の小さな生き者の手前だけでも、そんな名前は恥ぢなければならない。其処で蟻共は満足すると直ぐ飢ゑてゐる他の蟻の事を思ひ出す。だから、其の液体の食べ物を家に持つて帰るために、そのたつた一つの器の中にそれを一ぱいにつめ込むのだ。それが即ちはちきれさうなあのお腹なのだ。
『さて蟻共はその脹れたお腹をかゝへて帰つてゆく。そのお腹は他の者がたべてもいゝ沢山の食物がつまつてゐるのだ。坑夫や大工やその他の労働者達は町の建築に体を働かせながら、それを待ちこがれて熱心に働き続けてゐる。その蟻共はさし迫つた作業の為めに自分達で出かけて行て木虱をさがすといふ事は出来ないのだ。一匹の大工がそのお腹のふくれた蟻に出遇ふ。するとすぐにその大工は自分の持つてゐる藁を降す。そして二匹の蟻は丁度キツスでもするやうに口と口とをくつつける。そしてその乳を持つて来た方の蟻は、そのはちきれさうな腹の中につまつてゐるものをほんの少しはき出すのだ。そしてもう一匹の蟻は夢中になつてそれを飲むのだ。うまい! そしてこんどはまあなんと云ふ元気のいゝ働き方だらう? 大工はまた藁をかついで行つてしまふし、乳くばりは、自分のくばる道を歩きつゞける。そして他の飢ゑた蟻に遇ふ。またそれとキツスをする。口から口に汁をはき出して入れてやる。さうして此の蟻共は、そのはちきれさうなお腹が空になるまでわけてやるのだ。乳搾りの蟻はそれから又お腹を一杯にしに戻つて行く。
『で、お前達は、自分で食べ物の処までゆけない労働者の蟻共が口一ぱいに食べ物をつめ込むのには、一匹の乳搾りからのでは十分でない事が想像出来るね。それは沢山の乳搾りが要る。そしてまだ、地面の下の暖い寝所にも腹のへつてゐる蟻がうんとゐるのだ。それは若い蟻で、家族や町の大事なものなのだ。私はお前達に、その蟻も他の昆虫と同じやうに、鳥の卵のやうな卵からかえるのだと云ふ事をお話ししなければならないね。』
『いつだか』とエミルが口を入れました。
『僕ね、石をおこして見たら、小さい白い粒がどつさりあつて、それを蟻がいそいで地の下に運んでゆきましたよ。』
『その白い粒が卵だ。』とポオル叔父さんが云ひました。『その卵を蟻共は地面の下の方の其の住居から持つて上つて来て、石の下で太陽の熱にその卵をあてゝ孵させるのだ。だから、その石が持ちあげられた時には卵にあやまちのないやうに、安全な場所に持つてゆかうとしてあはてゝ降りてゆくのだ。
『卵から出て来るのは、お前達の知つてゐる蟻の形をしてはゐない。それは白い小さな蛆虫うじむしで、足もないし、全くよはよはしい動く事も出来ない位だ。蟻塚の中には此の小さな蛆虫が何十とゐるのだ。蟻はちつとも休みなしに、そのどれにもこれにも一と口づつ食べ物をわけてやるのだ。そして、それが育つて行つて、何日いつか蟻になるのだ。其処で一つ、その寝所に一ぱいになつてゐる小さい虫を一匹育てるのに、一体どれだけの木虱をしぼり、どれだけの蟻が働かなければならないか考へて御覧。』

六 悧巧な坊さん


『大きいんだの小さいんだの蟻塚が方々にありますよ。』とジユウルが云ひました。『庭の中でだつて僕は一ダアス位数へる事が出来たんだもの。一つのからなんか蟻が出て来ると道が真黒な位どつさりゐましたよ。あんなのは小さい虫をみんな育てるのに、よつぽど沢山の木虱がいりますね。』
『それは大変なもんだよ。』と叔父さんはジユウルに話しました。『が蟻は決して牝牛に不足する事はないだらうよ。そして木虱は不足しないどころかそれよりもつと沢山ゐるんだよ。それは時々私達のキヤベツの収穫とりいれがうまくゆくかどうかを真面目に心配さす程沢山ゐるんだ。此の小さな虱が、人間に戦争をしようと云ふんだ。こんな話がある。それは此の事がよく分るからお聞き。
『昔、印度に一人の王様があつた。その王様は人困らせのくせがあつた。その王様を慰める為めに、或る坊さんが将棋遊びを工夫した。お前達はその遊びをしるまいね。よろしい。それはね、あの碁盤のやうな盤の上で、両方に分れて一方は白、一方は黒で、卒、騎士、僧正、城、女王、王、と云ふやうにいろ/\ちがつた棋子きしをならべて陣だてをする。そして戦ひをはじめる。卒はたゞの歩兵で、いつも、戦場での最初の名誉の戦死をする事にきまつてゐる。王様は堂々と守護されて遠くの方から卒共が敵を逐つ払ふ闘ひの様子を見てゐる。騎士は剣で手当りしだいに左右の敵を切りまくる役目だ。僧正達でさへもやつきになつて戦ふ。そして城は軍隊で其の側面を護られながら、彼方あちらへ行つたり此方こちらへ行つたりして、移りまはる。勝利は決した。黒の方の女王が捕虜になつた。王は城をなくした。或る騎士と僧正とが王の逃げ道をつくる為めに非常な働きをする。けれどもそれもたうとう屈服する。王はたうとう王手詰になつて敗ける。勝負はおしまひになる。
『此の巧妙な勝負事は戦争をかたどつたもので、其の人困らせの王様を非常に満足させたのだ。で、王様は坊さんに、其の発明をした御褒美に何かのぞみがあるかどうかたづねた。
『ほんの一寸した事で結構でございます』と此の発明者は答へた。『貧乏な坊主を満足させるのはたやすい事でございます。何卒私に、小麦の粒を、将棋盤の最初の目には一つ、其の次の目には二つ、三番目の目には四つ、四番目のには八つ、といふやうに小麦の粒の数を倍にして最後の目までふやして勘定して頂きます。盤の目は六十四あります。それだけ頂ければ私は満足いたします。又、私の青い鳩も其の小麦で幾日かを十分にさゝへる事が出来ませう。』
『此奴は馬鹿だな。』と王様は心の中で云つた。『大金持にだつてなれるのに此の坊主はわしにたつた一と握りの小麦をねだつたりして。』そして自分の家来の方をふり向いて云つた。『金貨を千枚づつ十の財布に入れて此の男にやれ。それから小麦を一俵ほどやれ。一俵あれば此の男が俺にねだつた小麦の百倍にも当るだらう。』
『信仰深い王様!』と坊さんが答へました。『金貨の財布は、私の青い鳩には入り用がないのでございます。私には何卒私がおねがひいたしました小麦を頂かして下さいませ。』
『よしよし、では一俵の小麦の代りに百俵も要るか。』
『正直に申しますと、それでも不十分でございます。』
『では千俵か。』
『どういたしまして。私の将棋盤の目はちやんときまつた数しか持つては居りません。』
 此の間に家来達は、千俵の中味の中には、六十四を六十四度倍加した麦粒がないといふ、坊さんの不思議な云ひ草におどろいて、ひそ/\話しあつてゐた。王様はたうとう辛抱しきれずに、学者達を集めて坊さんの要求した小麦の粒の計算をさせた。坊さんはその鬚面の中に一くせありさうな笑ひを浮べて、遠慮してわきの方に退いて、計算の終るのを待つてゐた。
 見る/\計算者のペンの下では数字がずん/\ふえて行つた。そして計算がすんだ。そして一人が頭をあげた。
『王様』と其の学者は云つた。『計算は済みました。其の坊さんの要求を満足さしてやりますには、あなたの穀倉の中にある小麦だけでは足りません。町中にあるだけでも、国中にあるだけでも足りません。世界中のでも足りません。要求された量の小麦粒で、海と陸とをよせた大地球全体を、指の深さにちつともれ間のないやうに覆ふてしまふ事が出来る程なのです。』
 王様は自分で其の小麦の粒の勘定ができなかつたのを怒つて自分の髭をかんだ。そして此の有名な将棋の発明者は一番位置の高い大臣になつた。怜悧りこうな坊さんは最初からそれをのぞんでゐたのだ。
『その王様のやうに、僕だつてその坊さんの罠におちたでせう』とジユウルが云ひました。
『僕も一と粒を六十四へん倍加すると云つてもたつた一と握りの小麦をやつたらうと思ひますよ。』
『これでお前達は』とポオル叔父さんは返事しました。『数といふものはどんなに小さくても、おなじ数字を何辺も倍加してゆくと、丁度雪の球をころがして大きくしてゐると、私達の精一杯の力でも動かすことの出来ないやうな大変大きな球になるのとおなじに、莫大なものになると云ふ事がわかるやうになつたらう。』
『其の坊さんは大変ずるかつたんですね。』とエミルが云ひました。『自分の青い鳩にやる少しの小麦で自分が満足するやうな事を云つて、ほんの少々ねだるやうに見せかけて置いて、実は王様の持つてゐるのよりももつと沢山のものをねだつたりして。其の坊さんつて云ふのは何んですか? 叔父さん。』
『東洋の方のある宗教の坊さんなんだ。』
『叔父さんは、王様がその坊さんを地位の高い大臣にしたと云ひましたね。』
『地位のある大臣達の中でも一番地位の高い大臣だ。坊さんは、その時から国中で王様に次ぐ一番えらい役人になつたのだ。』
『僕、坊さんが其の金貨が千枚づつはいつた十の財布をことわつたと云ふのには一寸おどろきましたよ。だけども坊さんはそれよりはもつといゝものを待つてゐたんですね。十の財布はいつまでもそのまゝになつてはゐませんからね?』
『其の金貨一枚は十二フランの値うちがあるのだ。だから王様が坊さんにやらうとして持ち出した総計は十二万フランと、其の外に小麦の袋だ。』
『そして坊さんは、小麦の粒を六十四度倍加したものを戴きたいと申し出たんですね。』
『その事にくらべれば、王様から坊さんに持ち出したものなんか、何んでもなかつたのだ。』
『が、叔父さん、木虱の話は?』とジユウルがたづねました。
『此の坊さんの話は、直ぐにその木虱の話と結びつく』と叔父さんはジユウルに云つてやりました。

七 無数の家族


『一匹の木虱について考へると、』ポオル叔父さんは続けました。『薔薇の藪の柔かい嫩枝わかえだに木虱がついたばかりの時には、一匹づつはなれてゐる。みんな一匹づつだ。けれども暫くすると若い木虱がそのまはりをとりまいてゐる。その若い奴はみんな子供なのだ。その沢山な事といつたら! 十、二十、百たとへば十とする。それで木虱はその種族を維持して行くのに十分だらうか? もっとも、薔薇の藪から木虱がゐなくなつたところで、そんな事はどうでもいゝ事のやうだがね。』
『でも、蟻達が一等可哀想ですものね。』とエミルが云ひました。
『うん、それもある。が、十匹の木虱で其の種族を十分に維持してゆけるかどうかといふ事は、学問の上から云つて決してつまらない質問ではないのだ。』
『一匹の木虱が十匹の木虱になるとする。尤も、本当は、此の虫がいろんな事で殺されるのを勘定に入れると、それでは多すぎるのだがね。一匹が一匹に代つて行けばいつまでたつても其の数はおんなじだ。が、一匹が十匹になつて行けば、ほんの一寸の間で、其の数は勘定の出来ない位に殖える。坊さんの考へた小麦の粒を六十四度二倍したものは、地球全体を指の深さの小麦の床で覆ふようになるのだ。が、もしそれを二倍する代りに十倍にしたらどうだらう! 一匹の木虱の子孫を十倍する事を続けて行つたら、数年の後には世界中が木虱で一ぱいになつてしまふだらう。けれども其処には、死といふ大きな刈り取り手がある。此の死は、あまりにひろがりすぎる生物を減らして、生物の間の調和をよくし、そして又、すべての生物を、絶えず若くしてゆく。薔薇の木の一番安全に見えるような処にでも絶えず、此の死が襲ふて来るのだ。先づ小さいのや、弱いのは、此の牧場のいろんな大食家共の毎日のパンになる。さういふ風に、小さい弱い木虱は、さういくつもの危険に曝されないでも、自分を保護する何の方法もないのだ。小鳥が其の鋭い眼で木虱で出来たしみを見つけ出すが早いか、ひつさらつて、まるでアペタイザでもたべるやうに、一ぺんに幾百もそれをのんでしまふ。そして若しそれが虫だつたら、もつとずつと慾張るのだ。可哀想な木虱よ! あの恐ろしい虫は、お前をたべて生きてゐるやうに、特別につくられて生れて来てゐるのだ。けれども、神様はきつと可哀想な生き物のお前を本当にあぶないお前の種族のために保護してくれるだらう。
『此の食ひ荒しやは、きれいな緑色で、背中に白い筋をもつてゐて、そして前の方が細くなつて後へふくれてゐる。その虫の事を、木虱の獅子と云ふのだ。何故なら、蟻達ののろまな牝牛を荒らすところから、自然にさういふ名になつてしまつたのだ。そのとがつた口で、よく肥つた大きい一つをひつ捉へると、すぐにそれを呑む。そしてその皮は投げすてる。それはむごすぎる位だ。その尖つた頭は、また低くなる。次ぎの木虱を捉へる。葉から起して呑む。さうして廿番目の百番目のと、次から次へと呑んでゆく。のろまな牝牛共は、その群がだん/\まばらになつて来て、恐ろしい事が近づいて来ると云ふ事も知らないのだ。捕まつた木虱は獅子の牙の間でもがいてゐる。他の者は何の出来事もないやうに呑気のんきにたべつづけてゐる。
『此の木虱の獅子は、腹の中のものが消化するまで、牝牛共の中に気楽にうづくまつてゐる。けれどもその消化は非常に早い。そしてその間にもう此のガツ/\した虫は、直ぐに噛み砕くであらう次の木虱をねらつてゐるのだ。すべての木虱共が嫩芽をたべてゆく後から、丁度そのやうにして二週間の間その牝牛共をたべつゞけたあとで、此の虫は金のやうによく光る眼の、きれいな、草蜻蛉くさかげろうと云ふ小さい蜻蛉とんぼになるのだ。
『それでおしまひか?と云ふに、どうしてどうして! まだ瓢虫てんとうむしといふのがある。それは円くて赤い虫で、黒い幾つもの斑点ほしがある。大変気持のいゝ虫で、無邪気な様子をしてゐる。此の虫が又ガツガツの大食ひだとは誰れも気がつくまい。その胃袋は木虱で一ぱいにされてゐるのだ。薔薇藪でそつと調べたら、お前達はその兇猛な御馳走のたべぶりを見る事が出来るだらう。瓢虫は大変きれいだ。そして無邪気らしく見える。けれども大食家だ。木虱が大好きなのだ。
『それでおしまひか? まだ/\! 可哀想な木虱共はマンナなのだ。マンナと云ふのは古代イスラエル人が荒野を旅行する時に用ゐた食物の名だ。それはあらゆる種類の大食家共の常食だ。雛鳥がたべる。草蜻蛉がたべる。てんとうむしがたべる。すべての大食家共が木虱をたべるのだ。そして、なほそれでも、何時でも木虱はゐる。何処にでもゐる。こゝに、いくら殺されても猶どし/\生んで行くといふ多産と、それを又どし/\殺して行くといふの戦ひがあるのだ。そして弱いものは其の絶滅の機会を免れようとして、殺されても猶いくらでも生んで行つて、遂にそれに打ち勝つのだ。ガツガツの大食家共がいくら八方から攻めて来たつて駄目だ。食はれる方はたつた一匹を保護するために、幾百万もを犠牲にする。食はれゝば食はれる程沢山産む。
にしんたら、それからいわしは、海や、陸や、空の貪食家の為めに、牧場に一ぱいになつてゐる。これ等の魚が適当な場所に行かうとして、長い航海を試みる時には、其の死滅するのは恐ろしいものだ。海の中の飢ゑた奴等が此の魚の群れを囲む。空の飢ゑた奴等は其の泳いで行く路の上を飛びまはる。陸でもやはりさうした飢ゑた奴等が岸で彼等を待つてゐる。人間も其の有力な仲間になつて、海の食物の分前を取るのにいそがしい。人間は大船隊でもつて魚に向つて行つて、それを干物にしたり、塩漬にしたり、いぶしたりして、荷作りする。しかしその供給が目に見えて少くなるといふ事はない。人間の為めには、此の弱い魚は無限の数なのだ。一匹の鱈が九百万の卵を産むのだ。何処で貪食家共はさういふ家族の最後を見る事が出来るだらう?』
『九百万の卵!』とエミルが叫びました。
『大変な数ぢやありませんか?』
『それを一つ/\ちやんと勘定するには、毎日十時間も勘定して一年近くもかゝらなければならないだらう。』
『誰か余程辛抱したものがそれを数へられた訳ですね。』
 と云ふのはエミルの批評でした。
『数へるのではない。』とポオル叔父さんは答へました。『目方をはかるんだよ。その方が早いからね。其の目方から数を推定するのだ。』
『其の海での鱈のやうに、木虱も、薔薇や接骨木の藪で無数の滅亡の機会に自分の体をおいてゐる。その木虱共は私が話したやうに多勢の食ひしん坊共の毎日のパンなのだ。そんな風に、木虱共の群がふえるのには、他の昆虫にはない、非常に早い或る方法があるのだ。木虱は、卵を産むといふ非常にのろいやり方をしないで、生きた木虱其者を産むのだ。どの木虱も皆んな、絶対的に皆んな、二週間程育つと、もう其の子を産み初めるのだ。それは木虱のゐる季節の間ずつと、云ひ換へれば、一年のうちの少くとも半分の間は、繰り返す。そして此の一と季節の世代の数は、十二以上にもなる。先づ一匹の木虱が十匹を産むとする。これでは実際の数よりも少ないのだが。其の最初の一匹から生れた十匹の木虱がそれ/″\十匹づつ産むと、それで一匹がみんなで百匹つくる事になる。其の百匹がめいめいに十匹産むと、みんなで千匹になり、その千匹がそれ/″\十匹づつ産むとみんなで一万匹になる。さういふ風に十を十一度掛けて行く。さあ、丁度坊さんの小麦の粒とおなじ計算だ。坊さんの計算の時には二を掛けて行つておどろく程の速さで大きな数字になつて行つた。が、木虱の家族の増えるのは、十を掛けて行くのだから、其の増えるのはもつと/\早い。尤も坊さんの時には六十四度もかけて行つたのだが、こんどは十二度に過ぎない。しかしそんな事はどうでもいゝ。とにかく其の結果はお前達をぼんやりさせてしまふ程になるだらう。それは千億万にもなるのだ。一疋の鱈の卵を一つ一つ計算するのには一年近くもかゝる。が、一匹の木虱から六ヶ月の間にふえる木虱を計算するには一万年もかゝるだらう! いくら大食共だつて、此の木虱をどうして食ひ尽せるだらう? 今此の接骨木の枝にびつしりとくつついてゐる木虱がそんなに殖えたら、どんな広さの処をも覆ふてしまふだらうか考へられるかね。』
『きつと、うちのお庭くらゐの広い処に一ぱいになるでせう。』とクレエルが云ひ出しました。
『もつと広い。此の庭は長さが百メエトル幅も同じ位だ。此の木虱の家族は、此の庭の十倍もの広さのところに一ぱいになるのだ。どうだい? 放つておけば、一寸の間に世界中にひろがるかもしれない此の木虱を、あの金色の眼の蜻蛉や、小さい瓢虫や、いろんな雛鳥が食ひ尽してしまへようか。
『かうしていろんなガツ/\者共が食べ荒らすにも拘はらず、木虱は猶人間を真面目に驚かせる程ゐる。翼のある木虱が、日光を隠してしまふ程のあつい群れになつて飛ぶのを見る事がある。其の真黒な群れは、或る県から他の県までも行く。そして果物の樹に降りてはそれを荒らす。神様が人間を試みようとする時には、何んでゝも試みるものがあるのだ。神様は此の高慢な人間に対して、生物の中の一番卑しいみすぼらしいものを送る。目で見えない畑荒らしの此のかよわい木虱が来ると、人間はあはてふためいて了ふ。人間は、いくら威張つてゐても、此の小さな虫をどうともする事も出来ないのだ。
『人間は強い、けれども、此の小さな活きものにはかなはない。その沢山の群に打ち勝つ事は出来ないのだ。』
 ポオル叔父さんの、蟻と其の牝牛の話は、これでおしまひになりました。其後幾度もエミルとジユウルとクレエルは、木虱や鱈の莫大な家族について話しました。けれども、その話はいつも百万とか、一億とか云ふ数で三人を途方にくれさせるのでした。ポオル叔父さんは、自分の話がアムブロアジヌお婆あさんのお伽話よりも余程子供達の興味をひいたので、気持よささうにしてゐました。

八 古い梨の木


 ポオル叔父さんは今し方庭にある一本の梨の木を切り倒しました。其の木は古くて、その幹は虫に荒されてゐました。そしてもう幾年も実をもつた事がないのでした。で、もう他の梨の木が其の木の代りをつとめてゐました。子供達はポオル叔父さんが其の梨の木の幹に腰を掛けてゐるのを見つけました。叔父さんは何かを注意深く見てゐました。そして『一、二、三、四、五』と云ひながら指で伐り倒した木のり口の上をコツ/\叩いてゐます。叔父さんは一体何を数へてゐるのでせう?
『早くおいで』と叔父さんが呼びました。『お出、梨の木がお前達に自分の話をしようと云つて待つてゐるよ。此の梨の木はほんとうにお前達に話す何か珍らしいものを持つてゐるやうだよ。』
 子供達はワツと笑ひ出しました。
『其の古い梨の木に私達に話をしてくれるやうに頼むにはどうすればいゝんです?』
とジユウルが訊ねました。
『此処を御覧、此の切り口を。これは叔父さんが注意して斧で大変きれいに截つておいたのだ。お前達には木の中にいくつかの輪のあるのが見えはしないかい?』
『見えますよ。』ジユウルが答へました。
『一つの内側に他のがまたくつついて輪になつてゐますね。』
『丁度水の中に石を投げるとその所に出来る輪のやうに一寸見えますね。』とクレエルも云ひました。
『私にも細かい処まで見えますよ。』とエミルも調子を合はせました。
『では話さう。』とポオル叔父さんは続けました。『其の環を年輪といふのだ。何故年輪と云ふのか、聞きたいかい? たつた一つだ。分るかい。一つより多くもなく、又少くもないのだ。そう云ふ事にくわしい人達は、その一生を植物の研究に費してゐる。その人達を植物学者といつて、植物の事については、出来るだけ間違ひのない事を私達に話してくれる。若木が種から芽をふいた瞬間から、古い木が死ぬ時迄毎年一つの輪一つの木理もくめを形づくるのだ。さあ、これで分つたらう。では、此の梨の木の層を数へて見よう。』
 ポオル叔父さんはピンをとつて、先きだちになつて数へ出しました。エミルもジユウルもクレエルも、注意深く見てゐました。一、二、三、四、五、――彼等は木の髄から皮まで四十五を数へ上げました。
『此の幹は四十五の木理を持つてゐる』とポオル叔父さんが知らせました。『誰か私にその木理が何を表はしてゐるか話せるかね? 此の梨の木はいくつだらうね。』
『それはちつとも六かしい事ぢやありませんね。』ジユウルが答へました。『叔父さんがたつた今其事を話して下すつた後だもの。毎年一つの輪が出来るとすれば、今私達は四十五数へたから、此の梨の木の年は四十五でなくちやならない筈です。』
『えつ! えつ! 私が何をお前に話したつて?』ポオル叔父さんは大よろこびで叫びました。『梨の木は話さなかつたかい? 話し初めたのだよ。自分の年を私達に話すのは其の歴史を話す事なのだ。此の木は本当に四十五なのだ。』
『何んて不思議なんでせう』と、エミルが叫びました。『叔父さんは丁度その木が生れた時から知つてゐるやうに木の年が知れるんですねえ。さうして木理を沢山数へたこと。そんなに沢山の木理で、そしてそんなに沢山年をとつてゐるんですねえ。さういふ事は誰でも叔父さんと同じやうに知らなければいけませんねえ。叔父さん。さうして其の木理のは他の木、樫でも、山毛欅ぶなでも、栗でもみんな同じですか?』
『さうだ。皆な同じだよ。私達の国ではどの木もみんな一つ一つの層を一年と数へるのだ。今度その層を数へて御覧、さうすれば其の年が分るよ。』
『あゝ! つまらないなあ僕、何日いつかそれを知らなかつたもんだから』とエミルが云ひ出しました。『何日か街道の道ばたの大きな山毛欅の木を伐り倒したの。あゝ! あの木は何んていゝ木だつたらう。あの枝ですつかり田圃を覆つてゐたのに。あれはずゐぶん古い木に違ひないんだ。』
『そんなでもないよ。』ポオル叔父さんは云ひました。『私はその層を数へたが百七十だつた。』
『百七十ですつて、ポオル叔父さん! 本当ですか、間違ひなくさうですか?』
『正直に本当にさうだよ坊や、百七十だつたよ。』
『ぢやその木は百七十年経つてゐたんですね』とジユウルが云ひました。『本当にそんなかしら? 木はそんなに古くなるまで生えてゐるものですかねえ! そして、もし路をなをす人があの道をひろげるのにでも伐り倒さずにゐたら、間違ひなくもつと何年も活きてゐたでせうか。』
『我々には百七十年はたしかに大変な年数だ』と叔父さんは同意しました。『人間はそんなに長くは活きない。けれども木にはそれはほんの少しだ。もつと蔭の涼しい処に腰掛けよう。そしてお前達にもつと木の齢について話をしよう。』

九 樹木の齢


『よく話に使はれるサンサアルの栗の木といふのは、その幹のまはりが一丈三尺よりもつと多い。ごく控目に見積つて、そのとしは参百年か四百年でなくちやならない。此の栗の木の齢に驚いちやいけない。私の話はまだはじめたばかりだからね。お前達だつてきつとさうだらうが、話し手は誰でも聴き手の好奇心に勢づけられる。で、私も一等古いのの事はおしまひまで預かつて置くのだ。
『非常に大きな栗の木で知られてゐるのには、例へばジエネヴアの湖水の辺りのヌウブ・セルや、モンテリヌルの近所のエザイの栗の木がある。ヌウブ・セルの栗の木の幹の一番下の方のまはりが、四丈だ。一四〇八年から一人の隠者のかくれ家になつてゐたといふ事だ。今ではもう其の時から四百五十年もたつてゐる。それにその前の齢を加へたものが其の木の齢だ。そして幾度か分らない程落雷に打たれてゐる。が、そんな事には関係なしに、生々として一ぱいに葉をつけて今もまだ活きてゐるのだ。エザイの方の栗の木は、その高い枝はもぎとられて、幹のまはりは三丈五尺ある。それには、深いさけめで溝が穿れている。それは年よりの皺なのだ。此の二本の木の年ははつきり云ふことは出来にくい。だが、多分千年もたつてゐるかもしれない。そして、此の二本の古い木は今もまだ、実をもつのだ。二つともまだなかなか死なないだらう。』
『千年! もし叔父さんがさう云つたのでなければ、僕はそれを信じなかつたでせうよ。』その後からジユウルが云ひました。
『シツ! お前達はおしまひになるまで何にも云はずに聞いてなきやならない。』と叔父さんが戒しめました。
『世界中での大きい木は、シシリイのエトナの斜面にある栗の木だ。地図を見ると、イタリイの一番端の下の方に其処が見える。長靴の形をした綺麗な国の爪先と向ひ合つて大きな三角の島がある。それがシシリイなのだ。其の島の有名な山、それは焼けたゞれたものを噴き出してゐる山――手短かに云へば火山といふのだ。その山がエトナと云ふのだ。其処で栗の木の話に戻らう。そして私は先づ『百頭の馬の栗の木』と云はれてゐる話を、お前達にしなければならない。何故さう云はれてゐるかと云へば、ジエンと云ふアラゴンの女王が或る日此の火山に登つた。そして嵐に追ひつかれて、其の護衛の騎兵百人と一しよにその栗の木の下に避難した。其の栗の木の葉の森の下が、百人の乗り手と馬との逃げ込み場になつたのだ。此の大きな木を取り巻くには三十人の人が腕をひろげて手をつないでも足りない位だ。幹のまはりの大きさは十五丈よりはもつと多いだらう。其の大きい事は、木の幹と云ふよりもむしろ城の塔と云つた方がいゝ位だ。その栗の木の根元に二つの馬車が並んで楽に通りぬけられる程の大きな穴があつて、そこから其の洞穴ほらあなの中へはいつて行ける。それは栗の実を集めに来る人達が住めるやうに造つたものだ。こんな古木でもまだ若い樹液を持つてゐて、実を結ばないといふやうな事はめつたにない。此の大きな木の大きさで其の齢を見積ることは出来ない。
『ドイツのウユルテンベルヒのノオシヤテルに一本のリンデン(橄欖樹かんらんじゅ)がある。其の枝は幾年もの間に重くなりすぎて、百本の石柱で支へてある。その枝は四百一尺の周囲まわり明地あきちをグルリと覆ふてゐる。一二二九年に此の木はもう余程年とつてゐた。其の時代の著述家に『大きなリンデン』と云はれてゐた。今日では、その確からしい年は、七百年か八百年かだ。
『こんどはフランスの国のを話しよう。十九世紀の始めにフランスはノオシヤテルの老木よりももつと古い木があつた。それは一八〇四年までドウ・セブルのシヤイエと云ふ、城にあつた四丈五尺の円さのリンデンだ。それは六本の主な枝を持つてゐて、沢山の柱でつつぱつてあつた。もしその木が今もまだ生きてゐれば千百年よりも若いと云ふ事はないだらう。
『ノルマンデイのアルウ※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)ルの墓地は、フランスで一番古い一本の樫の木で蔭をつくつてゐる。其の根元には死骸が押し込まれる。で、そのせいかその木はひどく太つて、其の幹の根元の周囲が三丈もある。そして、小さな鐘楼のある隠者の堂が其の木の生え茂つた枝の中程に聳えてゐる。其の幹の根元の空洞になつた一部分を、礼拝堂のやうな風にして平和の女神に捧げてある。そして、此の偉大な姿をした木は神聖なものとして尊敬されてゐる。其の質素な田舎びた神殿で祈り、その古い木の覆ひの下で一寸の間黙想するのだ。その古い木は沢山な墓穴が開いたり閉じたりするのを見てゐるのだ。其の大きさに依つて、此の樫の木は殆んど九百年位生きてゐるものと看做みなされてゐる。樫の実もきつとつてゐるにちがひない。そして芽を出した時からは殆んど千年にもなるだらう。今日では其の古い樫の木は大きな其の枝をのばす努力をしない。無事に辿つて来た長い年月の間に、人間には讃美され、電光に荒されて来た。そして多分これからも、今迄とおなじ事が続いてゆくだらう。
『まだ一番古い樫の木として知られてゐるのがある。それは一八二四年にアルダンの一人の木樵きこりがすばらしく大きな一本の樫の木を伐り倒した。その幹の中に、生贄いけにえの瓶と、古い貨幣が見出された。此の古い樫は千五百年か千六百年の間生きてゐたのだ。
『アルウ※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)ルの樫の木の後に、私はお前達にもつと死人の仲間の木の事を話さう。墓場は神聖な場所で、人間もそれに害を加へないので、そこの木が自然に庇護されて、高齢にまで達する事が出来るのだ。ヘエ・ド・ルウトの墓地の二本の水松いちいは特にウウル県の格別の保護を受けてゐる。一八三二年に、此の二本の水松はその簇葉ぞくようで、墓地全体と会堂の一部を覆つてゐた。が、非常に猛烈な嵐で其の枝の一部分は地面に投げ飛ばされて、つて経験のない程の重大な損害を受けた。が、其の害にも拘はらず、二本の水松は今も、けだかい老木なのだ。それ等の幹はすつかり空洞になつてゐて、そのまはりはそれぞれ二丈七尺もある。其の年は千四百年位と見積られてゐる。
『だが、其の水松は、おなじ種類の他のものゝ年の半分より多くなつてはゐないのだ。スコツトランドのある墓地にある一本の水松はその幹のまはりが八丈七尺ある。その確からしい年齢は、二千五百年だ。もう一つ他の水松もまたやはりおなじスコツトランドの或る墓地にあつた。一六六〇年に、その木は、スコツトランド中で噂した程大きいものだつた。其の時に勘定された齢が二千八百年になつてゐた。もしも今まで其の木が立つてゐたら、此のヨオロツパの木の大長老は三千年以上生きて来た事になる。
『まあ、今の処こんなもので十分だらう。さあ、こんどはお前達が話す番だ。』
『僕は、もう何にも云はない方がいゝやうですよ。ポオル叔父さん』とジユウルが云ひました。
『叔父さんはなか/\死なない木の話で僕の心をひつくり返してしまひましたよ。』
『私は其のスコツトランドの墓地の古い水松の事を考へてゐますの。叔父さんは三千年とおつしやつたわねえ?』とクレエルが尋ねました。
『三千年だよ。そしてもし私が外国の或る木の事をお前達に話さうものならまだもつと古い昔まで溯つて行かなくてはならないんだよ。』

一〇 動物の寿命


 ジユウルとクレエルは幾百年と云ふ事が、木にとつては、我々人間にとつての幾年と云ふよりもずつと短かいといふ叔父さんの話でびつくりさせられた、其の驚きがぬけませんでした。エミルは、いつもの落ちつかないくせで、話を他の事に持つて行きました。
『それで動物は、叔父さん』と尋ねました。『どの位の間生きてゐるものなんです?』
『家畜は』と叔父さんは答へました。『たまには、自然に死ぬ年が来るまで生きる事もある。が、人間は、彼等に食物をやる事をしむだり、彼等を働かせすぎたり、適当な保護をしてやらない。そして、彼等から乳を取り、被毛ひもうを取り、皮をとり、肉をとるなど、実にいろんなものをとる。お前が大きくなつた時に、いつでも屠殺者が家の扉の前でナイフを持つてお前を待つてゐるとしたらお前はどうする。我々の必要の犠牲にされる其等の者の可哀想な事は云ふまでもない。彼等は我々にその生涯を与へてゐる。彼等には、自分等の一生といふものはないのだ。其等の動物をよく世話してやるとすれば、それは飢を我慢する事でも、寒さを我慢する事でもない。たゞ過度に疲れさせないで、屠殺者共に対する恐怖を失くさせて平和に暮らさせる事だ。そんないゝ条件の下に彼等をおいたら、彼等はどんなに永く生きるだらう?
『先づ牡牛から初めよう。私は此処に一匹の丈夫な牛がゐる事にしよう。どうだい、まあ、あの胸と肩は! それからその大きな四角い額、その角とそのまはりのくびきの革紐、其の眼は穏やかな力強い威厳で光つてゐる。もしも強いと云ふ事が長く生きる事になるのならば、其の牡牛は百年も生きる筈なのだ。』
『僕もやつぱりさう思ひますよ』とジユウルが同意しました。
『ところが全く反対なんだよ。牡牛はそんなに大きくて、強くて、どつしりしてゐるけれど、二十年か三十年もすれば、それはもう大変な年よりなんだよ。二十とか三十とか云へば、我々人間にとつては、まだ若い青年だが、牛にとつてはもう老いぼれの高齢なのだ。
『其処で此度は馬に移らう。お前達は私が動物の中の弱いものから例をとるんぢやないといふ事は分るだらうね。私は一番元気に満ちたのを選ぶのだ。さて、其の馬はおなじやうに内気な仲間の驢馬も、やつとの事で三十年か三十五年位まで生きる。』
『何んといふ間違ひを僕はしてゐたのだらう?』ジユウルが叫びました。『僕は馬や牛はあんなに強いから少くとも百年は十分生きると思つてゐました。馬や牛はあんなに大きくて、あんなに沢山の場所をとつてゐるんですもの。』
『私は私の云ふ事がお前に分るかどうか知らないが、たゞ私はお前に、此の世の中では、沢山の場所を取るといふ事が、一生を楽しく過す事でもなければ、平和に住む道でもないのだといふ事を説明したいのだ。沢山の場所をとつてゐる人間がよくある。それもその体でゝはない――其の人達は私達よりも大きいのではない――たゞ其のえらがりと野心とでなのだ。が、其の人達は平和に生活して其の老年を準備してゐるかと云へば、それは覚束ない事だ。私達は小さくていゝのだ。云ひ換へれば、神様が与へてくれた小さな我々自身で満足するのだ。私達は羨ましがりの誘惑に気をつける事だ。それは馬鹿気た高慢がつゝくのだから。そして私達は仕事に一生懸命になるのだ。それは決して功名心からではない。それはたゞ一つの私達に許された道なのだ。日々の希望なのだ。
『さて、又動物の話に戻らう。家畜の中で、他にももつと短命なのがある。犬は二十年か二十五年になれば、もうそれ以上に生きて行く事は出来ない。豚は廿年もすればおいぼれてひよろつく。猫は一番長く生きて十五年までだ。それ以上は鼠を追ひまはすことも出来ない。で、屋根裏の楽しみは棄てゝ穀倉の何処かの隅に引つこんで、平和に死ぬのだ。山羊や羊は十年か十五年になると極度の老年に達するのだ。兎は八年か十年すれば其の群れはおしまひだ。そして可愛想な鼠は、もしも四年も生きてゐれば、その仲間ではまるで奇蹟のやうな長生きなのだ。
『お前達は鳥の事も聞きたいかい? よろしい、鳩は六年から十年までは生きるかもしれない。ほろ/\鳥や牝鶏や七面鳥は十二年だ。鵞鳥がちょうは長く生きる。苦労のない其の性質ではあたりまへの事だが、廿五年位まで生きる。そして時にはもつとずつと多くなる事さへあるのだ。
『だが、もつと長命するものもある。それは金翅雀カナリヤや雀だ。一粒の大麻実おおあさのみ葉簇はむらの中で、日光のるのと一緒に出来るだけ楽しくいつもふざけたり歌つたりしてゐて、人の注意から免れてゐるこれらの鳥は、大食の鵞鳥と同じ程、そして鈍間の七面鳥よりはずつと長く生きる。それ等の楽しさうな小鳥共は、廿年から廿五年、即ち牡牛と同じ年だけ生きる。私が話したやうに、世の中で広い場所を使ふことは、長い一生の用意をする本当の道ではないのだ。
『人間に就いて云へば、もし、規則正しい生活をしてゆけば、よく八十や九十まで生きる。時としては百とかそれ以上にでさへもなる。しかし、普通の年、平均の年は、誰でも云ふやうに、やつと五十位までしか届かないのだ。それからは、人間の生命の長さに関する特典だと考へた方がいゝ。そして、更に人間については、生命の長さは年の数を数へる事で完全に計る事は出来ない。人間一番の生命はその人の一等立派な仕事だ。いつ神様から召されても、我々の義務のためにつくしたといふ自覚を持つ事だ。いくつで死んでも、それだけの事さへしてゐれば、それで十分生きたのだ。』

一一 湯沸


 其の日、アムブロアジヌお婆あさんは、大変に疲れてゐました。お婆あさんは、湯沸ゆわかしだの、ソオス鍋だの、ラムプだの、燭台だの、シチユウ鍋だののいろんな鍋と蓋とを棚から取り下ろしました。そして、其をきれいな砂や灰で磨いて、其からよく洗つて、それをすつかり乾かすのに、其の台所道具を日向に持ち出しました。それはみんな鏡のやうにぴか/\光つてゐました。湯沸しは薔薇色の反影で、特別に立派に思はれました。それは火の舌がその内側を輝かしてゐると云つてもいゝ位でした。燭台は、まぶしい黄色でした。エミルとジユウルは感心してほめるのに夢中になりました。
『僕、此の湯沸しをどうして作るのか知りたいな、あんなに光つてる』とエミルは注目しました。『外側は煤で汚れてゐて、真黒で見つともないけれど、内側の方はまあ何んて綺麗なんだらう!』
『叔父さんに尋ねなければならないね』兄さんが答へました。
『さうね』とエミルは賛成しました。
 云ふよりはやく、二人は叔父さんをさがしにゆきました。叔父さんは、頼まれなくても、何時でも臨機応変に何かを子供達に教へてやる事が出来るのを楽しみにしてゐました。
『湯沸しは銅で造つたものだ』叔父さんは初めました。
『銅つて?』ジユウルが尋ねました。
『銅は造つたものではない。或る地方で、もう出来たものが石に混つて見出されるのだ。其の本質は人間の力で出来るものではないのだ。それは神様が地の底に堆んでおいたのを、人間が其の産業のために使ふのだ。が、それは吾々のすべての知識と熟練とを以てしてもつくり出すことは出来ないのだ。
『山の懐の中の何処かに銅を見出すと、地の底深く下の方へとトンネルを掘る。其処で働く人達を坑夫と云つて、ランプで照されながら鶴嘴つるはしで、岩を打叩いてこはして行く。同時に他の者は、岩の毀れた塊を外に持ち出す、その石の塊の中に銅があるのだ。その石の塊を鉱石といふのだ。そして熔鉱炉といつて鉱石を高い温度で熱するやうにつくつた炉の中で熱するのだ。その熱は、うちのストオヴが熱して真赤になつた時の熱とでもくらべものにはならない。其の熱で、銅は熔けて流れる。そしてそれがさめないうちに引き上げられる。それから、水車で運転させるすばらしく重いハンマアで、その銅の塊を打つ。するとその塊は少しづつ凹んで薄くなつて、大きな盤になる。
『銅鍛冶は、其の仕事を続ける。形のない盤をとつて、ハンマアで少し叩いて、其の鉄床かなとこの上に、適当の形をつくりあげる。』
『それで、銅鍛冶はハンマアで、一日中叩いてゐるのですね』とジユウルが註釈をつけました。『僕ねえ、よく驚いてゐたんですよ、いつも銅鍛冶の店先を通ると、どうしてか大変なやかましい音をさせて、いつも/\叩いてゐるんですものね、そしてちつとも休みなしなんです。あの人達は銅を薄くしたり、それでソース鍋や湯沸なんかをつくつてゐるんですねえ。』
 エミルが其処で質問をしました。『湯沸しが古くなつて、穴があいて使へなくなつた時にはどうすればいゝんです? 僕、アムブロアジヌお婆あさんが、湯沸しの使へなくなつたのを売らうと云つてゐたのを聞きましたよ。』
『それを熔かすのだ、そして又新しい銅の湯沸しをつくるのだ。』とポオル叔父さんが答へました。
『銅は減る事があるでせうか?』
『減るよ、大変に減るよ。砂で磨いて光らす時にも減るし、不断に火にかけておく火の作用ででもやはり減るんだよ。だが、残つた方がずつといゝのだ。』
『それから、アムブロアジヌお婆あさんは、足のなくなつたランプを作り直さすと云つてゐましたよ。ランプは何んでつくつたんですか?』
『それはすずだ。それも、銅とはまた質のちがふもので、それを吾々は地の底に、人の力でつくり出すことの出来ない出来合のものを見つけ出すのだ。』

一二 金属


『銅や錫を金属と云ふのだ』ポオル叔父さんは続けました。『金属は重い、そして光る本性を持つてゐる。それは、ハンマアで打たれてもよく耐えて壊れる事はない。平らには延びるけれど破れはしない。此の本質をもつとほかに持つてゐるものがある。それは銅や錫とおなじやうにねうちのある重さも、輝かしい光沢も、打撃に対する抵抗力も持つてゐる。すべてそれ等のものを金属と云ふのだ。』
『あの鉛ねえ、あれずいぶん重いんですけれど、あれもやつぱし金属ですか?』とエミルが尋ねました。
『鉄もさう? 銀も金も?』と兄さんのジユウルも質問しました。
『さうだ、それも、その他のものもその本質は金属だ。みんな独特の光りを持つてゐる。その光りを金属光と云ふのだ。しかし、その色はそれ/″\ちがつてゐる。銅は赤い。金は黄色、銀、鉄、鉛、錫、は、みんな非常にわづかなちがひでそれ/″\に区別された白だ。』
『アムブロアジヌお婆あさんが日に干してゐる燭台は、』エミルが云ひました。『黄色であんなにまぶしい程光つてすばらしく立派ですね。あれは金ですか?』
『違ふよ、坊や、お前の叔父さんはとても金の燭台を持つお金持ではないよ。あれは真鍮しんちゅうさ。金属の色や性質たちやを変へるには、其の金属だけを使はずに、二種類か、三種類、或はもつと沢山のものをまぜ合はせる。それは熔かしておいて一緒にするのだ。そして、その混合物の一部分となつてゐるものとは違つた全く新らしい性質の金属をこしらへ上げるのだ。さういふ風にして、銅と或る白い種類の金属とを熔かして一緒にしたものが亜鉛だ。庭の如露じょろのやうなものはそれでつくつたのだ。真鍮は、銅の赤さも持たないし、又亜鉛の白でもなく、金の黄色い色に出来上つてゐる。燭台の実質は、銅と亜鉛とを一緒にしてつくつたもので、簡単に云へば、それが真鍮なのだ。其の光りや黄色い色は金のやうだが、実は金ではないのだ。此の間の村の市に、大変きれいな指輪を売つてゐた。その光りがお前達を瞞したのだ。金ならば大変高い値段だつたのだらう。其の商人は一銭でそれを売つてゐた。それは真鍮なのだ。』
『光りも色も殆んど同じなのに、どうして真鍮と金とを見分けるのです?』とジユウルが尋ねました。
『先づ第一に重さでだね。金は真鍮よりはずつと重い。それは沢山の役に立つ金属の中で一番重いのだ。その次には鉛、それから銀、銅、鉄、錫、最後に亜鉛やすべての軽いものだ。』
『叔父さんは、僕達に銅を熔かすことを話してくれましたね』とエミルが云ひ出しました。『それには赤く焼けたストオヴの熱ともくらべものにならない程強い火が要るのだと云ひましたね。金属はみんなその熱にかなはないんですね。僕は残念だつたのでよく覚えてゐますが、あの、叔父さんが一等はじめに僕に下すつた鉛の兵隊がなくなつたんです。去年の冬、僕は丁度よく暖まつてゐるストオヴの上でそれをならべたんです。丁度その時に、僕は気をつけてなかつたので、その兵隊さん達の群が、ひよろつき出して、ぐにや/\になつたんです。そして溶けた鉛が少し流れ出したんです。僕はたつた半ダアスの兵隊を助ける時間しかなかつたんです。そしてその兵隊はみんな足をなくしたんです。』
『それから、何時だかアムブロアジヌお婆あさんが、考へなしにランプをストオヴの上に置いたんですよ』とジユウルも附け加へました。
『そりやすぐにとけて、指の幅位の錫が見る間に見えなくなつてしまつたんですよ。』
『錫や鉛はごく熔やすい。』ポオル叔父さんは説明しました。『それをとかすのには、うちの炉の熱で沢山だ。亜鉛を熔かすのもやはり大して六かしいことではない。だが、銀、それから銅、それから金最後に鉄は、普通の家では知らない強い火が要るのだ。とりわけ鉄は、吾々には非常なねうちのある強い抵抗力を持つてゐる。
『シヨベル、火箸、炉格ろかく、ストオヴは鉄だ。そんないろんなものは、いつも火と接触してゐる。が、それでも熔ける事はない。柔かくさへもならない。鍛冶屋が鉄床の上でハンマアで叩いてたやすく形を造る事が出来るやうに、鉄を柔かにするには、熔鉄炉のありつたけの熱が要るのだ。が、鍛冶屋がたゞ石炭を加へて煽いだ処でそれは無駄だ。決してそれを熔かすことは出来ない。しかし鉄だつて熔けるのだ。たゞそれには人間の熟錬が産み出す一番強い熱を使はなければならない。』

一三 被金


 朝、或る鋳掛屋いかけやが通つてゐました。アムブロアジヌお婆あさんは古い湯沸しを売りました。其の上にストオヴの上で足が熔けたランプと、不用のソース鍋を二つ売つて、それを渡しました。すると其の鍛冶屋は、外で火をつけて、地面の上でふいごを動かし始めました。そして、大きな鉄のさじの中で其のランプを熔かして、それに少しばかり錫を加へました。それもすぐ熔けてなくなりました。その熔けた金属は、鋳型の中に流れ込みました。そしてその鋳型からは一つのランプが出来上がつて出て来ました。そのランプはごくお粗末なものでしたが、一人の小僧が廻はしてゐる旋盤の上に乗せられて、それがまはると同時に親方が鋼鉄の道具の縁でそれに触はりました。錫はさういふ風にして、けづり取られて、うすい鉋屑かんなくずになつて落ちました。それは縮んだ紙のやうに巻いてゐるものです。するとランプは、目に見えて完全に出来て行つて、ぴか/\と光つたいゝ恰好のものになりました。
 其の後で鋳掛屋は、せわしく銅のソース鍋にせ掛けをしました。その鍋の内側をすつかり砂で洗つて、それを火の上に置きました。そして、それがずつと熱くなつた時に、少しばかりの熔かした錫を麻屑の束でその鍋の表面にすつかり引きました。錫は銅にくつつきました。そして、ほんの一寸の間に、前には赤かつたソース鍋の内側が今は白く光りました。
 エミルとジユウルとは、おやつのりんごとパンとをたべながら、此の珍らしい仕事を黙つて見てゐました。彼等は、銅のソース鍋の内側を、錫で白く塗つた訳を叔父さんに聞くことにきめました。そして夕方、錫を塗つて被金きせがねをしたことを、その通りに話しました。
『磨いて、非常にきれいにした鉄は大変によく光る。』叔父さんは説明しました。『よく気をつけてケースの中にしまつてある新しいナイフや、クレエルの鋏が其の見本だ。だが、もし湿つた空気に曝しておくと、鉄は直ぐに曇つて、土のやうな赤いものがくつついて、それで覆はれる。それを――』
『錆』とクレエルが挿みました。
『さうだ。それを錆と云ふのだ。』
『あの大きな釘ね、あすこの風鈴草が這ひ上つてゐる、庭の垣の鉄の針金をとめた、あれも赤い皮がかぶつてゐますよ』とジユウルが注意しました。そしてエミルが附加へました。
『僕が地面で見つけた古いナイフもやつぱりその赤い皮がかぶつてゐたよ。』
『その大きい釘や古いナイフはもう長い間湿つた空気に曝されたために、錆ですつかり皮が出来たんだよ。湿つた空気に曝しておくと、鉄は腐る。それは、金属と其の金属に出来る目に見えない或物とが組み合つて、さうなるのだ。錆が出ると、鉄はもう吾々に非常に便利に出来てゐる其の性質を無くして了ふのだ。ちよつと見ると赤土か黄土のやうだが、別だん注意して見ないでもその中に金属がある事は分る。』
『僕にはそれはよく分りますよ』ジユウルが云ひました。『僕は僕の大事な仕事にして、必ず空気や湿気で出来て来る鉄の錆を取る事にしよう。』
『他の沢山の金属も鉄のやうに、錆びる。云ひ換へれば、金属は、湿つた空気に接すると、土のやうなもので覆はれてしまふのだ。錆の色は、其の金属によつていろ/\と違ふ。鉄の錆は黄色か赤、銅のは緑、鉛と亜鉛は白だ。』
『では、古い銅貨の緑の錆は、あれは銅の錆なんですね』とジユウルが云ひました。
『ポンプの口が白いもので覆はれてゐるのは鉛の錆ですね?』とクレエルが質問を出しました。
『確かにさうだ。其の金属を醜くする錆が出来て第一に困るのは、金属がみんな光りや光沢を失ふ事だ。しかもそれはもつと非常に有害な働きをする。此処に害のない錆がある。それは取つて食物の中に混ぜても危険はない。鉄の錆がさうだ。これに反して、銅と鉛の錆は、命に拘はる毒だ。もしもひよつとした間違ひから、その錆が我々の食物の中にはいれば、我々は死なゝければならない。が、我々は今銅の話だけにしよう。鉛は、早く熔けるので、火の上におく事は出来ないから、台所道具には使はない。銅の錆は命に拘はる毒なのだ。そして、また人々は其の銅の鍋で食物をつくるのだ。アムブロアジヌお婆あさんに尋ねて御覧。』
『まあ本当ですねえ』とクレエルが云ひました。『でも私、いつもちやんとソース鍋を見てゐますよ。そして私はいつだつてよく洗つて、時々それを鍍金めっきさせますよ。』
『僕には分らない。』ジユウルが云ひ出しました。『どうして鋳掛屋が今朝したあの仕事が銅の錆を防ぐ事が出来るのかしら。』
『それは錆をつくるのを防ぐのだ。』ポオル叔父さんが答へました。『普通の金属としては、錫が一番錆が少いのだ。空気に長く曝しておけば、それは少し光沢をなくする。そしてその錆は極く少量で、鉄の錆とおなじに無害だ。銅が、毒を持つた緑の斑点で覆はれるのを防ぐのには、湿つた空気や、それから錆の滋養分になる或る性質のもの、たとへば酢とか油とか脂肪とか云ふやうな錆の出来るものと接触ふれさせずに、しまつておかなければならない。かういふ理由で、其の銅のソース鍋は錫で内側をすつかり塗つたのだ。そのすつかり塗つたうすい錫の床の下では銅は錆びる事はないのだ。何故なら、もう空気にふれる事がないのだから。そして錫の方は容易に錆びないし、錆びてもそれは害にはならない。さういふ風にして、人々は被金をするのだ。云ひ換へれば、彼等は錫の薄い床でそれを覆ふてその錆の出るのを防ぎ、そして、そのいつか我々の食物の中にまじるだらう危険な毒の力を防ぐのだ。
『又鉄にも錫を被せる。錫の錆は毒ではないから、毒の出来るのを防ぐのではない。が、簡単に、其の鉄の赤い斑点で覆はれるのをふせぐ事が出来るからだ。此の錫を引いた鉄の事を錫被せといふのだ。蓋、コオフイポツト、ドウリツピングパン、おろしもの、提燈、その他のいろんなものが錫被せだ。云ひ換へれば、鉄の両面を、うすい錫のシイツで被せてしまつたものが錫被せだ。』

一四 金と鉄


『或る金属は決して錆ない。金はさうだ。数百年も経つてから、地中に発見される昔の金は、その金が貨幣になつた時と同じ位光つてゐる。金屑や、錆が金貨の文字に少しも附いてゐない。時間も、火も、湿気も、空気も、此の勝れた金属に害を加へる事は出来ないのだ。だから金は、変化のない光りと、其の沢山ない事から、装飾や貨幣に使はれるいゝ材料なのだ。
『そればかりではない。金は人間が、鉄や、鉛や、錫や、其の外の金属などよりも遙かに早く、第一番に知つた金属だ。鉄よりも数百年も早く、金が人間の注意を惹くやうになつた理由は、分りにくい事ではない。金は決して錆ないからなのだ。鉄は、若し人間が注意しなかつたら、暫くの間に錆て了つて、赤土のやうに変つて了ふ。私は今、お前達に金の用途をお話ししたね。どんなに古くなつても、湿つぽい地面においてあつても、きずも附かずに我々の手に渡つて来るのだ。然るに鉄で出来たものは一つとして、其儘には残らない。皆んな何だか分らないものになつて、錆びて腐つて、形の崩れた土塊になつて了ふのだ。そこでジユウルに尋ねるが、土の中から取り出した鉄の鉱石は、我々が使ふやうな、本当の、純鉄だらうか。』
『さうぢやないと思ひますよ、叔父さん。と云ふのは若し其の時鉄が純なものだつたとしても土の中に埋つてゐたナイフの刃がなるやうに、時と共に錆びて行つて、やはり土のやうなものに変つて行つて了ひます。』
『ジユウルの云ふ通りだと思ひますわ、私しもやはりさうだと思ひます。』とクレエルが申しました。
『それでは金は?』とポオル叔父さんが彼女に尋ねました。
『金は違ひますわ。』と彼女は答へました。『金は決して錆びないものですから、時間や、空気や、湿気では変りません。純金のまゝであるんですわ。』
『全くその通りだ。金が少しづつ散らばつてゐる岩では、まるで宝石屋の箱のやうに、金は美事なものだ。クレエルの耳輪は、自然に岩にはまつた金粒よりも余計に光りがあるのではない。それとは反対に鉄は最初実に見窶みすぼらしい様子をしてゐる。鉄は最初は土塊同様の赤石で、それを人間が長い間探して、そこに金属があると見込みをつけるのだ。他のいろんなものと一緒に混つてゐる錆なのだ。だが、それだけでは、此の錆びた石に金属が含まつてゐると云ふ事が分らない。其の鉱石を分解して、鉄を金属の状態に引き戻す方法が考へ出されなければならない。これは中々難しい事で、それには非常な骨折りをしたものだ。非常に沢山の無駄な骨折や、苦痛の多いいろんな方法でやつて見た。かくして鉄は、金や銅や銀のやうな、時折り純なまゝで見つけられる金属よりは遙かに後で、最後に我々の役に立つやうになつたのだ。一番有益な金属が一番後に発見されて、それで人間の事業は非常に進んだのだ。人間が鉄を手に入れた時から、人間は地球の主人となつたのだ。
つかつても破れない物質の頭は鉄だ。そして此の金属が人間に尊ばれるのは何にぶつかつても、破れない此の強い力なのだ。金や、銅や、大理石は、鉄のやうには鍛冶屋の槌の打撃に堪える事は出来ない。そしてその槌其物は、鉄以外の何んな金属で作る事が出来るか? 若し槌が、銅や銀や金で出来てゐたならば、それは直ぐに伸びて、潰されて了ふに違ひないのだ。若し又それが石で出来てゐるものなら、最初の強い一と打ちで砕けて了ふ。かうしたものを造るには鉄に及ぶ何物もないのだ。又斧でも、鋸でも、ナイフでも、石工ののみでも、工夫の鶴嘴でも、鋤でも、其他物を切つたり、刻んだり、裂いたり、板にしたり、綴ぢたり、強い打撃を加へたり、受けたりする種々の道具は、皆鉄なのだ。たゞ鉄だけが、他の殆ど総てのものを切る事の出来る堅さや、打撃を加へる抵抗力を持つてゐるのだ。此の点で鉄は、有らゆる金属の中で、神様が人間に与へた一番美しい物だ。鉄はどんな技術にも工業にも、なくてはならない勝れた道具を造る材料だ。』
『いつだか、クレエルと僕とは、スペイン人がアメリカを発見した時、その新しい国に住んでゐた野蛮人は金の斧を持つてゐて、喜んで鉄の斧と交換したと云ふ事を読みましたよ。僕は、極く有りふれた少しの金属を、非常に高いものと代へる野蛮人の愚かさを笑ひましたが、今になつて僕は、その交換が野蛮人共には利益だつたと云ふ事が始めて分りましたよ。』とジユウルが申しました。
『さうだ、其の方が余程利益なのだ。その鉄の斧があれば、木を倒して独木舟まるきぶねや小屋を作る事が出来るし、野獣をよく防ぐ事も出来るし、又狩りをして其の獲物を殺す事も出来るからね。即ち此の僅か許りの鉄は、其の野蛮人に食物と、有益なボートと、暖かな家と、恐ろしい武器とを立派に授けてくれるのだ。それと比較すると、金の斧なんて、役にも立たないほんの玩具おもちゃさ。』
『鉄が最後に出来たものとすると、それが出来る前には、人間は何うしてゐたんでせう。』とジユウルが訊きました。
『其の前には銅で武器や、道具を造つたのだ。銅は金のやうに純なまゝである事があるから、自然のまゝ利用する事が出来るのだ。だが、銅で造つた道具は堅くないし、鉄の道具に較べると遙かに劣るので、銅の斧を使つてゐた昔は、人間はまだごくみじめなものだつたのだ。
『そして此の銅を知る前には、人間はもつともつとみじめなもので、火燧石ひうちいしを尖らせたり割つたりして、それを棒の先きに結びつけて、それを唯一の武器にしてゐた。
『此の石でもつて、人間は食物や着物や小屋などを造り、又野獣を防いだのだ。其の着物と云ふのは毛皮を背中へ投げかけたもので、其の住む小屋は曲つた木の枝や泥で造り、其の食物は狩で手に入れた何かの肉片だつたのだ。家畜はまだゐないで、地は耕されず、工業は何にもなかつたのだ。』
『それは何処だつたのですか。』とクレエルが訊きました。
『何処もかも皆なさうだつたのだ。今この賑やかな町になつてゐる此処でさへ、やはり昔しはさうだつたんだ。人間が鉄の助けをかりて、今日のやうな安楽を得るまでには、人間は実に頼りないみじめなものだつたのだ。』
 丁度ポオル叔父さんが話し終つた所へ、ジヤツクが丁寧に戸を叩きました。ジユウルは駈けて行つて開けました。二人は低い声で何か二言三言囁き合ひました。それは翌日の大事な事を話したのでした。

一五 毛皮


 前の日に話しておいた通りに、ジヤツクは用意を致しました。先づ羊を動かさないやうに、其の足を縛つて台の上に寝せました。鋼鉄のナイフが地面に光つてゐました。人間の必要の犠牲いけにえになる何の罪もない羊は、ちやんと縛りつけられて横になつてゐました。音なしくあきらめて、其の悲しい運命を待つてゐるのです。羊はこれから殺されるんでせうか。いゝえ、これから毛を刈られるのです。ジヤツクは羊の足を持つて、台の上に乗せると、大きな鋏で、パサ、パサ、パサと羊の毛を刈り始めました。少しづつ、毛は一とかたまりになつて落ちて来ました。毛を刈られて了つた羊は脇へやられて、恥づかしさうにして、寒さに慄えてゐます。これはその着物を人間の着物にするために呉れたのです。ジヤツクは又別な羊を台に乗せて、鋏は又動き始めました。
『ジヤツクお爺さん、羊は毛を刈られて了ふと寒くはないか知ら。今お前が刈つたばかりの奴は、ほら、あんなに慄へてゐるよ。』とジユウルが云ひました。
『心配はいりませんよ。刈るに都合の好い日を選んだんですから。けふは暖かいでせう。明日はもう羊は毛のない事なんか感じなくなりますよ。それに、私達が暖かくなるためには、少し位羊が寒くなつたつて、構ふものですか。』
『私達が暖かくなるためにはつて、そりやどうしてだい。』
『こりや驚きましたね。あなたのやうに沢山本を読む人が、そんな事を知らないんですか。この羊の毛で靴下を作つたり、シヤツを編んだり又着物を作つたりするんですよ。』
『驚いた! こんな汚れたきたない毛で、靴下を作つたり、シヤツを編んだり、着物を織つたりするんかい。』とエミルが叫びました。
『今は汚れてゐますが、これを河で洗ふのです。そして白くなると、アムブロアジヌ婆あさんが紡ぎに掛けて、毛糸を作るんです。そして其の毛糸を、針で編んだものが、雪の中を駈ける時足にはくと、人が喜ぶ靴下になるんでさア。』
『僕は赤や、緑や、青い羊を見た事はないよ。そして、赤や、緑や、青や、其他の色の附いた羊の毛を見た事もないよ。』とエミルが云ひました。
『それは羊から採つた白い羊毛を染めるんですよ。毛を薬と染め粉を入れた※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)にえゆの中に入れると、色がついて来るのですよ。』
『ではラシアは?』
『ラシアは靴下と同じやうな糸で出来るんです。ですが、そんな糸を織るには、糸をキチンと縦横に組んで織り目を作るやうに、此の家にはない込みいつた織機械はたを使はなければなりません。こんな機械は、羊毛を織る大工場にでも行かなければありませんね。』
『では、僕が着てゐるこのヅボンは羊の毛で出来たんだね。そして此の胴着も、ネクタイも、靴下もさうだね。僕は羊の着物を着てゐるんだね。』とこんどはジユウルが云ひました。
『さうですよ。寒さを防ぐのに、私達は羊の毛を使ふんです。可哀さうに、獣は、私達の着物にするために、自分の毛を育て、又私達のたべ物になるために、其の乳や肉を太らせ、そして又私達の手袋にするために、其の皮を丈夫にしてゐるのです。一ことで云ふと私達は家畜の生命で生きてゐるんです。牡牛は力と皮と肉とを人間に与へ、その上牝牛は乳を与へます。驢馬や騾馬らばや馬は人間の為に働きます。そしてこれらの動物は死ぬと直ぐ私達の靴の皮になる皮を残します。鶏は卵を与へ、犬は忠実に人間の仕事をします。それだのに、何もしないでゐる人間は、動物が居なかつたら困つて了ふ癖に、其の動物を虐待したり、腹を空かせたり、小酷こっぴどく打つたりします。決してこんな無慈悲な人間の真似をするもんぢやありませんよ。そんな事をしては、驢馬や牛や羊や其他の動物を恵んで下すつた神様に済みません。何もかも人間に与へて、その生命さへも与へてくれるこの大事な動物の事を思ふ時、私は最後のパン屑も此の動物に分けてやらうと思ひますよ。』
 さう話す間も剪刀はさみはパサ/\切りつゞけて、毛は下に落ちてゐました。

一六 亜麻と麻


 ジヤツクが羊毛の事に就いて話してるのを聞きながら、エミルは自分のハンケチを念入りに調べてみました。これを何遍も引つくり返して、触つてみて、よく/\目を通しました。ジヤツクは、これからエミルが聞かうとする質問を見越して、かう云ひました。
『ハンケチやリンネルは羊毛ぢやありません。綿だの麻だの亜麻だのと云ふ草がそんな品物になるのです。尤も、私だつて、そんな草の事はよく知りませんがね。私は棉の木の事は聞いた事がありますが、まだ見た事はありません。それだけならいゝが、あなた方にこんな話をしてゐると、私は羊の皮を切つて了ふかも知れませんよ。』
 夕方になると、ジユウルの頼みで、皆なの着てゐる着物の材料の話しを叔父さんにして貰ふ事になりました。
『麻の木や亜麻の木の皮は、織物になる大変立派な、柔かい、丈夫な長い糸で出来てゐる。我々は羊から採つた毛を着たり、木の皮で身体を飾つたりする。白麻地や絽や手編みレースやモスリンレースなどのやうな贅沢な織物から、もつと丈夫なわるい袋布のやうなものまで、皆な此の麻で造るのだ。棉の木からは木綿で出来た織物が取れる。
『亜麻は小さな青い花が咲く細い植物で、毎年蒔いたり、刈つたりする。これは北フランスや、ベルギイや、オランダに沢山栽培されてゐる。そしてこれは人間が一番初めに織物を造るのに使つた植物だ。四千年以上もたつた大昔のエジプトの木乃伊みいらは、リンネルの帯で巻いてある。』
『木乃伊とおっしゃひましたね。それは何んだか僕には分りませんが。』とジユウルが叔父さんの言葉を遮りました。
『それぢや其の話しをしよう。死んだ人間を尊ぶのは、何時の時代何処の人間でも同じだ。人間のからだは神様の形に造られた魂の住んでゐるお宮だと云ふところから、それを尊ぶのだが、時と処と習慣とによつて、其の尊び方が違ふ。我々は死んだ人間を埋葬して、その埋めた場所に、文字を書いた墓石を立てたり、十字架を立てたりする。大昔しの人は死人を火葬にして、火に焼き崩された骨を丁寧に拾ひ集めて、それを壼の中に詰めた。エジプトでは、いつまでも其の死人を家族の中に保存するやうに、死人を木乃伊にした。即ち、エジプト人は、香料を死骸に含ませて、形が崩れないやうにリンネルで巻いたのである。此の信神深い仕事は、随分念入りに行はれたので、其の後何百年も経つて我々は好い匂ひのする木箱の中に、年と共に黒ずんではゐるが、古代エジプトの王様や其の同時代の人間を、生きてゐた其のままの形で見出すのだ。これが木乃伊と云ふものなんだ。
『麻は何百年もヨオロツパ中で栽培された。麻は一年生の、丈夫な、嫌なにおひのする、緑色の陰気な小さな花を開く。そして茎は溝が深くて六尺位に伸びる。麻は、亜麻と同じやうに、その皮と、麻の実と云ふ種子を取るために栽培せられるんだ。』
『その種子たねは、私たちがそれを金翅かなひわにやると、金翅は中の核を取り出さうとして、殻をくちばしで突き破るあの粒の事でせう。』とエミルが云ひました。
『さうだ。麻の実は小鳥のたべものだ。
『麻の皮は亜麻のやうに美しくない。麻の繊維は非常に立派なもので、麻屑二十五グラム(六もんめ三分)で、約三マイル(一里八町)の長さの糸が出来る。リンネルの織物の細かさに比べる事の出来るのは、たゞ蜘蛛の巣があるだけだ。
『麻や亜麻が成熟すると、刈られて種子はき分けられて了ふ。それから、それを湿して、皮の繊維すじを取る仕事が始まる。即ち、其の繊維がわけもなく木から離れるやうにする仕事だ。実際此の繊維は、茎にくつゝいてゐて、非常に抵抗力の強い、弾力の強い物で、腐つて了ふまで離れないやうになつてゐる。時によると、此の麻の皮を一二週間も野原に拡げて、何遍も/\引つくり返して、皮が自然と木質の部分、即ち、茎から離れるまでつゞける。
『だが、一番早い方法は、亜麻や麻を束にして縛つて、池の中に沈めて置く事だ。すると、間もなく腐つて嫌な臭ひを出し、皮は朽ちて、強い弾力を持つた繊維が柔くなる。
『それから麻束を乾かして、ブレーキと云ふ道具の歯の間でそれを押し潰して、皮と繊維とを離して了ふ。終に、其の繊維の屑を取つて、それを美しい糸にするために、刷梳こきくしと云ふ大きな櫛のやうな鋼鉄の歯の間を通す。そして此の繊維は手なり機械なりで紡がれて、さうして出来た糸をはたにかけるのだ。
『機の上には、経糸たていとと云ふものになる沢山の糸を次ぎ次ぎに順番に並べる。そして織り手の足で踏む足台に推されて、交る/″\此の糸の半分が下りると残りの半分が上る。それと同時に、織り手はおさの横糸を、左から右、右から左と、半分づつの経糸二つの間を通す。それで織物が出来上るのだ。そして之れが済むと、植物だつた麻の皮は着物になり、亜麻の皮は数十円も数百円もする立派なレースになるのだ。』

一七 綿


『織物に使はれる物の中で一番大切な綿は、亜熱帯の棉の木と云ふ植物から採るのだ。これは三尺から六尺位の高さの灌木同様の草で、其の黄色い大きな花は、やがて、綿の種類によつて純白な、或は薄黄色い色のかゝつた絹毛きぬいとの一杯詰つた、卵程の大きさの円莢まるざやになるのだ。この毛房けぶさの中央に種子がある。』
『そんな風な毛房を、春、白楊ポプラや柳の木の頂にバラ/\になつて落ちてゐるのを見た事があるやうに思ひますわ。』とクレエルが云ひました。
『そのたとへは仲々面白い。柳や白楊の実は、針の尖の三四倍もある色のついた細長い尖つた円莢だ。五月になると此の円莢が熟する。その実は開いて、美しい白毛を放り出す。その中にあるのが種子たねなのだ。天気の穏やかな日は、此の白毛が木の根の下に落ち積つて、雪のやうに白い綿毛の床になる。が、遂に風に吹かれて円莢のかけが、種子ごと一緒に遠くの方へ吹き飛ばされて了ふ。その種子はうして新しい地面を見つけて、芽を出して木になるのだ。其他にも色んな種子が柔かな帽子や、絹のやうな羽毛を備へて居てそれでもつて、長い間遠くまで空中を旅行する。例へばお前たちが空に吹き上げて喜ぶたんぽぽあざみの、あの美しい、絹のやうな羽毛のついた種子は、やはりそれだ。』
『白楊の円莢にある毛房は、綿と同じものになりますか。』とジユウルが尋ねました。
『それは駄目だ。それは余り少なすぎて集めるのに随分骨が折れる。その上、余り短かすぎるものだから、紡ぐ事が出来ない。だが、我々はそれを使ふ事は出来ないが、他の者には非常に有益なものとなる。この毛房は小鳥の綿で、鳥は巣に敷くのにそれを集めるのだ。鳥の中でも金翅は、賢い中の又一番賢い鳥だ。此の鳥の綿で出来た巣は美しい立派なものである。四五本の小枝のまたに、柳や白楊の綿毛や、通りがかりの羊から抜き取つた羊毛やあざみの種の毛帽子で、此の鳥は其の雛に、どんな卵も今までに住んだ事もないやうな、柔かで温いコツプ形の蒲団を造つてやるのだ。
『其の巣を造るには、金翅は其の材料がごく手近な処にあるので、直ぐ其の仕事にとりかゝれる。春になると、金翅は其の巣の材料の事などは考へもしない。柳や、あざみは近所にいくらでもある。鳥は長い間前もつて注意して、いろんな巧妙な方法で其の必要な物を準備する智恵を持つてゐないのだから、斯うするほかに仕方がないのだ。人間は其の労働と智恵と云ふ貴い特権で、遠い国から綿を手に入れるが、鳥は自分の綿を、林の白楊の木に見附け出すのだ。
『成熟すると綿の円莢は広く開く。そして毛房は柔かな雪の塊のやうになつて溢れ出る。それを一と莢一と莢、手で掻き集めるのだ。布に載せて太陽によく乾かした毛房は、打木か或は其他の機械の力で打たれる。かうして綿は種子と莢とを悉く取り除かれる。もうそれ以上の手を掛けないで、綿は、我々の工場で織物にされるやうに、大きな包みに入つて来る。綿を一番沢山産する国は、インド、エジプト、ブラジル及び、北アメリカ合衆国とである。
『一年の中に、ヨオロツパの工場では、綿が約八億キログラム(一キログラムは約二百六十七貫)程出来る。此の大変な目方も決して多すぎはしないのだ。と云ふのは世界の人々は、高価な毛を着ると共に、又綿を更紗やパーケールや、キヤラコにして着てゐる。斯くして人間の工業の中では、綿の工業が一番大きい。一片の更紗に要する無数の労働者、無数の細かな仕事、長い船路等が悉く集まつて、漸く数銭にしかならないのだ。一と握りの綿が、此処から二三千リーグ(一リーグは三哩)も離れた所から来たものだと云ふ事を考へて御覧。此の綿は、フランスやイギリスの工場に来るのに、大洋を渡り地球の四分の一を通つて来るのだ。そしてこれらの国で紡いで織つて色のついた意匠で飾つて、それから更紗に変つて了ひ、又もや海を渡つて、今度は多分別な世界の端へ行つて縮毛の黒ん坊の帽子にでもなるのだらう。で、いろんな人が此の綿から利益を得る。先づ此の植物の種を蒔いて、半年あまりの間それを栽培しなければならない。されば一と握りの綿の中にも此の種をまき、それを栽培した人の報酬がなければならない。その次には、それを買ふ商人と、それを運ぶ船乗りとが来る。此の人々にも一と握りの毛房の割り前をやらなければならない。次ぎにはそれを紡ぐ人、織る人、色を染める人などにその仕事の償ひをしなければならない。そしてこれは果てしのない事なのだ。新しい商人が来てその織物を買ひ、別な船乗りが来て世界中の港々へそれを運んで行き、最後に商人がそれを小売りする。かうして一と掴みの綿は、其の有らゆる関係者に報酬を払つて、どうして法外な高い値段にならないのだらう。
『此の奇蹟を生むために、こゝに大規模の労働と機械の助けと云ふ二つの大きな力がはいつて来る。お前たちはアムブロアジヌお婆あさんが車で糸を紡いでゐるのを見たらう。けずつた羊毛は先づ長い小房に分けられる。そして此の房の一つをぐる/\廻つてゐるかぎのそばへ持つて行く。鈎は其の羊毛を掴んで廻りながら其の繊維を一本の糸にる。そして其の房の毛が少くなるに従つて、だん/\糸が長くなつて行くので、指でそれを加減する。糸が一定の長さに達すると、アムブロアジヌ婆あさんはそれを紡錘つむに巻きつけて、又羊毛を捩りはじめる。
『本当を云へば、綿もやはりこれと同じやうにして紡ぐ事が出来るのだが、如何にアムブロアジヌお婆あさんが賢いとは云へ、あの車で糸を紡いで織物を造るのでは非常に時間がかゝるから、随分高価なものになる。それでは何うすればいゝのか? 機械に糸を紡がせるのだ。一番大きな教会よりも広い部屋に、鈎も、紡錘も、糸巻も附いた、紡ぐ機械が何万台も置いてある。そしてそれが皆んな一緒に、目にも止らぬ位早く正確に廻転する。お前たちを聾にする位の強い音を立てゝ廻転するのだ。綿の毛房は数百万の鈎に止められて、果てしもない長い糸が紡錘から紡錘へ動いて行つて、そして自然と糸巻に巻きつく。二三時間の中には綿の山が地球全部を六七回も廻るやうな長い糸になつて了ふ。アムブロアジヌお婆あさんのやうな上手な糸紡ぎを何十万人も要る様な此の仕事は、何んで出来るのだらう? それは此の機械を動かす蒸気になる水をわかす石炭が二三ばいあればいゝのだ。そしてそれを織つて色をつけるのも、即ち一口に云へば毛房が布地になるまでに受けるいろんな加工も、やはりこれと同じやうにすこぶる迅速に且つ頗る経済的に行はれるのだ。かうして、一片たつた二三銭のキヤラコの中に、製造者も、仲買人も、航海者も、紡ぎ手も、織り手も、染め手も、小売商人も、皆んな其の仕事の報酬を得られる事になるのだ。』

一八 紙


 アムブロアジヌお婆あさんはクレエルを呼びました。お友達が六ヶしい刺繍の刺し方を聞きに来たのです。ジユウルやエミルの頼みで、それには構はずに、ポオル叔父さんは話しつゞけました。叔父さんはジユウルがきつとあとで姉さんに其の話しをして聞かすだらうと思つたのです。
『亜麻や麻や綿は、殊に此の最後の綿は、もつと大事なほかの役にも立つのだ。第一には我々の着物になる。が、それがボロ/\になつて役に立たなくなると、こんどは紙を造るのに使はれる。』
『紙!』とエミルが叫びました。
『紙だ。我々が字を書いたり本に造つたりする本当の紙だ。お前たちの手帳の白い紙や、本の紙や、値段の高い縁飾りのある沢山の絵の入つた紙でさへも、あのみすぼらしいボロから出来るのだ。
『ボロはいろんな所から集められる。町の汚物の中からも、又何んとも云はれない汚い所からも集められる。そのボロはこれは良い紙に、これは悪い紙にと、いろ/\に分けられる。そしてそれを綺麗に洗ふ。それから機械の方に廻されるのだ。鋏で切り、鉄の爪で裂き、車でバラ/\に切れ屑にし、そしてそれを臼に入れてく。それから水の中で粉のやうにされて石鹸のやうなものにされて了ふ。此の石鹸の泡のやうなものは灰色だが、それをこんどは白くしなければならない。そこで激しい薬を使つて、それをたちまちのうちに雪のやうに白くする。それで泡はすつかり清められたのだ。すると別な機械がふるいの上でそれを薄い板に引き伸ばして、水を搾りとつて了ふと、泡のやうな液体がフエルトになる。このフエルトを機械が圧して、別な機械がそれを乾かし、又別なのが艶を出させる。それでもう紙が出来るのだ。
『紙になる前には、此の最初の材料はボロだつた。即ちボロ/\になつて使へなくなつたきれだつたのだ。そして此の布は、ボロ屑になつて捨てられる迄には、どんなにいろんな用に使はれて、どんなにひどい目に合つたか分らないのだ。腐蝕性の灰で洗はれ、有酸石鹸に漬けられ、木の槌で叩かれ、太陽や空気や雨に曝されて来たのだ。かうして烈しい洗濯や石鹸や太陽や空気などに抵抗し、腐蝕されても疵がつかず、製紙機械や薬にも負けずに、以前よりももつとしなやかに且つ白くなつて、此の試練の中から出て来て、我々の思想を載せる美しい艶々した紙になる。此の材料は一体何にだらうか。これでお前たちは、智恵の進歩の源である此の紙が、棉の木の毛房や麻や亜麻の皮から取れるのだと云ふ事が分つただらう。』
『クレエルはきつと其の美しい銀鈿ぎんでんの附いた祈祷書がぼろハンカチや、道ばたの泥の中から拾ひ上げたぼろきれなどで出来てゐるんだと云つて聞かしたら、びつくりしませうね。』とジユウルが云ひました。
『クレエルは紙の本質を知つたらよろこぶだらう。が、あの子はその祈祷書が、初めそんな卑しいものだと分つたところで、決してそれを卑しめるやうな事はしないと思ふよ。工業は賤しいボロを貴い思想を収めた本に変える奇蹟を見せる。が、神様はまだ、それとは較べものにならない程の植物の奇蹟を見せて下される。汚い糞の堆山やまも、地中に埋もれば薔薇や百合や其他いろんな花を咲かせる、世にも類ひのない貴い物となるのだ。我々人間も、此のクレエルの本や神様の花のやうにならなければならない。自分で自分の値打をつけるようにして、吾々の賤しい出所を恥ぢないようにならなければならない。人間にはたつた一つの本当のえらさと、たつた一つの本当の貴さがある。それは霊魂の偉大と貴さだ。若し吾々がそれを持つて居れば、吾々の素性の卑しいだけそれだけに、我々の値打は大きくなるのだ。』

一九 本


『それで、紙は何で出来るか分りましたが、今度は、どうして本を造るのか、それを知りたいものですね。』とジユウルが云ひました。
『僕は一日中でもお話を聞きます。お話ときたら僕、独楽も兵隊も皆んな忘れて了ふんです。』とエミルが合槌を打ちました。
『本を造るには二重の仕事が要る。先づ考へて物を書く仕事、それからそれを印刷する仕事だ。何か考へてそれをそのまゝ書き取ると云ふ事は、実に骨の折れる仕事だ。脳を動かす仕事は、肉体の労働よりも余計早く体力を消耗する。と云ふのは、我々は自分の出来るだけの力を吾々の魂である、此の仕事に捧げるからだ。これでお前たちは、お前たちの将来を心配して、お前たちが自分で考へる事の出来るやうに、そしてお前たちを情けない無智から救うために、いろいろと考へたり書いたりしてくれる人々に、十分感謝しなければならないと云ふ事が分るだらう。』
『心に思ふまゝの事を書き取つて本を作るには、いろんな困難に打ち克たなければならないと云ふ事は、よく分りました。』とジユウルが答へました。『と云ふのは、半ペーヂばかりの年賀状を書かうとしても、僕は其の第一句でもう行き詰つて了ふんですもの。書き出しの文句は何て難しいものでせうね。僕の頭は重くなつて、眼は眩んで、真直に物を視る事も出来なくなります。僕文法をよく覚えたら、もつとよく書けるやうになりませうか。』
『さう云つちや可哀さうだが、しかし本当の事を云はう。文法は書く事を教へるものでない。文法は動詞を主格に合せたり、形容詞を名詞に合せたりする方法を教へる。此の文法の法則を破る事程人を不快にさせるものは無いのだから、確かに文法は必要なものだ。しかし、文法は書く事を教へるものではない。世間には文法の法則だけをうんと覚え込んでゐて、それでお前のやうに、書き出しに行き詰る人がある。
『言葉と云ふものは、頭の中の考へに着せる着物のやうなものだ。我々が無いものを着る事は出来ないやうに、我々の心の中に無いものは、話す事も書く事も出来ない。頭が命令してペンが書くのだ。だから、考へる事を勉強するのが、書く事を勉強する事になる。頭に考へが出来上つてゐて、そして書き馴れと云ふものが文法以上に言葉の法則を教へてくれた時には、立派な事がちやんとよく書けるやうになるのだ。頭が空つぽで、考へがない時に、何が書けるのだ! では、どうして其の考へを手に入れるかと云ふに、それは勉強と読書と、吾々よりももつと教育のある人との話によつて得られるのだ。』
『では、叔父さんがかうして話して下さるいろんな事を聞いてゐると、僕は書く稽古をしてゐる事になるのですね。』とジユウルが云ひました。
『さうだとも、例へば、二三日前に紙のもとに就いて二行程書いてくれと頼まれても、お前たちには何にも書けなかつたらう。それはどうしてか。文法と云つても、お前たちはまだほんの少ししか知つちやゐないが、それを知らないからではなくつて、紙がどうして出来るかと云ふ考へがなかつたからだ。』
『その通りです。僕は紙が何から出来るのか少しも知りませんでした。今は、僕は綿は棉の木といふ草の円莢に入つてゐる毛房だと云ふ事を知りました。そして此の毛房から糸を造り、それから糸から布を造ると云ふ事を知り、布が使ひ古されると、機械でパルプにされて、このパルプが薄い板に引き延されて、それが圧搾されて遂に紙になると云ふ事も知りました。僕はさう云ふ事は好く分つたのですけれど、それでもまだそれを書くのは随分骨が折れますね。』
『いや、そんな事はない。お前はたゞ、今お前が私に云つた通りを其の儘書けばいゝのだ。』
『では、皆んな其の話す通りに書くんですか。』とジユウルが云ひました。
『さうだ。たゞ書く時にはね、話した通りを少し直すだけだ。話すのには、ひまがとれないけれど、書くのには少し時間がかゝるからね。』
『それぢや、僕直ぐ五行程かいてみよう。』とジユウルは云つて、次ぎのやうに読みあげました。『綿は棉の木といふ草の円莢に入つてゐる毛房であります。人は此の毛房で糸を造り、其の糸で布を造ります。布が着られなくなりますと、機械がそれを小さく裂いて、挽臼でそれを挽いてパルプにして了ひます。このパルプは薄い層に引き伸ばされて、圧搾してから乾かします。それが紙になるのです。さあ、叔父さんこれでようございますか。』
『お前の年頃としては大出来だよ。』と叔父さんはほめてくれました。
『ですが、これでは本に組めませんね。』
『どうして出来ない? いつかはそれが本の中にはいるやうになるのだ。私達の話はお前のやうにやはり物を知りたがる沢山の余所よその子供にも有益なのだから。出来るだけそれを簡単なものにして集めて叔父さんはそれを本にしようと思つてゐるんだ。』
『叔父さんが僕たちに話してくれるお話を暇な時に読める御本にするんですか。あゝ僕嬉しいなあ――叔父さん、僕叔父さんが大好きですよ。だけど、其の本には、僕の何にも知らない質問は書かないで下さるでせうね。』
『それもすつかり書き込むんだ。お前はホンの少ししか知つてゐないが、随分熱心に聞きたがる。それは好い性質で、ちつとも恥ぢるには及ばない事だ。』
『でも、その本を読む子供達は屹度きっと僕の事を笑はないでせうか。』
『大丈夫さ。』
『それだと、僕は其の人達を皆な大好きだつて、書いて下さいね。』
『僕は、皆なが叔父さんから頂いた綺麗な独楽や、立派な鉛の兵隊さんを貰へるやうにと書いて下さいね。』とエミルが云ひました。
『気をおつけよエミル、叔父さんはお前の兵隊さんの事を本にかき込むかも知れないよ。』と兄さんがおどしました。
『書くとも、もうちやんと書いてあるよ。』と叔父さんは笑ひました。

二〇 印刷


『本が書かれると、著者は其の作物、即ち原稿を印刷屋に送る。印刷屋はそれを活字にして、本を作りたいと思ふ数だけ複製する。
『端の方にアルフアベツトの文字を浮き彫りに刻んだ、短かい綺麗な金属の棒を想像してごらん、或る棒の端にはaといふ文字があり、別なのにはb、或はcといふ文字がある。又中には、何にも彫つてないのや、点や、コンマや、其他吾々の言葉をしるした種々の文字や符号のすべてと同じだけのいろいろの活字がある。その上どの文字もどの符号も、幾通でも/\使ふ事が出来るやうになつてゐる。かう云ふ活字は皆以前は逆さに字が刻んであつたものだ。その理由は今に分る。
『植字工と云ふ労働者は、自分の前にケースの台を持つてゐる。そのケースの中にはアルフアベツトの文字や符号が、一と区切り/\入つてゐる。aはaの区切りの中に、bはその次の区切りに、cはその又次ぎの区切りにと云ふ工合になつてゐる。しかしそれらの文字はアルフアベツト順に箱が並んでゐるのではない。仕事を手ツ取り早くするために、一番沢山使はれる文字、例へばeだとかrだとかiだとかと云つた風の文字を、手近の区切りに入れておく。そしてxだとかyだとか云ふやうなあまり使はない文字の区切りはもつと離れたところに置く。
『植字工は自分の前に原稿を置いて、左手には植字台ステッキと云ふ、縁のある鉄の定規を持つてゐる。そして原稿を読みながら、長い習慣になれた右手は、指定された文字を探して、それを他の字と列を並べてステツキの上に置く。植字工は文字のあるのに似た、しかし端の方の低い、そして何も彫つてない活字で一字一字の間を隔てる。第一行が済むと、植字工は既に出来上つた行の次ぎに、小さな活字を並べて新しい行を作り始める。そして最後にステツキが一杯になると、職工はその中味を丁寧に鉄の枠の中に入れる。そして枠が一杯になつて、印刷床と云ふものが出来上るまで、此の仕事をつゞける。此の床はたゞ次ぎから次ぎに並べた無数の小さい活字から出来てゐる。此の無数の小さい金属を列べるのは忍耐と熟練との大仕事で、ちよいと間違つても駄目になつて了ふ。そして其の鉄の枠の隅々をしつかりと固めて、全体をまるで一枚の金属板のやうにする。これで、其の床は印刷される準備が出来たのだ。
『油と油煙とで出来たインキを含ませたルラアが、此の床の上を転がる。すると、文字や符号などの浮彫りの活字はインキを塗りかぶせられて了ふが、残りの活字は表面が低いからインキを被らない。一枚の紙が此のインキのついた床の上に載せられる。そして其の紙を保護するに重しを被せて置いて、それを強くす。活字のインキは紙に附いて、紙は一方の方が印刷されて出る。又別なものを印刷するには、此の方法を其の次ぎの床で繰り返すのだ。活字の文字は前に私が以前に話した通り、逆さに字が彫つてあつた。それが紙に印刷されると、ちやんとした字になるのだ。
『最初の紙が済むと、直ぐに第二の紙がつゞく、ルラアで再び板はインキを塗られ、其の上へ一枚が載つて圧されると、それでもう仕上がつたのだ。そこで第三番目の紙が来る。百遍目、千遍目と続いて来る。その度毎に必要なのは、板にインキを塗つて、紙で被つて、それから圧すと云ふ事だ。かうして其の一枚でも手でかけばまる一月もかゝるやうなのを幾千幾万枚も、忽ちの間に印刷して了ふ。
『人間の心の働きを非常に早く、そして欲しいだけ沢山写し出す此の優れた技術が発明されるまでは手製の写本に限られてゐた。此の手写し本はその仕事に長い年月がかゝつたので、数も極めて少く、値段も高かつた。五六冊の本を手に入れるには非常に運が好くなくては駄目だつた。今日では、本は何処にでもあつて、極く低級な人間の間にも知識の貴い糧は沢山拡つてゐる。此の印刷術は四百年以前にギユテンベルグが発明したものだ。』
『その名前を僕は決して忘れませんよ。』とジユウルが云ひました。
『それは覚えてゐていゝ名だ。本を印刷すると云ふ事で、ギユテンベルグは、人間が無知でゐると云ふ事の出来ないやうにした。将来の力になる我々の知識の宝は、石や金属に刻みつけられるだけでは足りない。其の数の多いところから無くなると云ふ心配のない紙に書かれなければならない。』

二一 蝶


 まあ何て綺麗だらう。まあ本当に、何と云ふ綺麗な事だらう。中には暗紅色の地に赤筋の通つたはねや、黒い輪のついた真青な翅や、オレンヂ色のまだらのある真黄色な翅や、さては又、金色に白い縁をとつた翅がある。蝶は額に立派な角、即ち二本の触角を持つてゐる。それは鳥毛のやうに縁がとられて居たり、羽毛の先のやうに裂けてゐたりする事がある。頭の下には、髪の毛のやうに美しいそして渦巻いた吸口の、嘴を持つてゐる。蝶が花に近づくと、蝶は其の嘴を伸して、蜜を吸ふために花冠の底へそれを差し込む。まあ何て綺麗だらう、まあ本当に、何と云ふ綺麗な事だらう。若し人が蝶に触らうとしやうものなら、其の翅は萎れて、指と指との間に、貴金属のやうな美しい粉を塗りつける。
 叔父さんは子供達に、庭の花の上を飛んでゐる蝶の名を教へました。叔父さんは云ひました。『此の白地に黒い筋が入つて、黒いほしが三つある蝶はもんしろてふと云ふのだ。長い尾までも黒い筋の入つた、黄色の大きな翅を持つてゐてその底の方に大きな錆色の眼と青い斑とを持つてゐるのはあげはのてふと云ふのだ。翅の上部は空色をして、下部は銀灰色で、白い輪に黒い眼を入れて、翅に赤がかつた斑の入つてゐる、此の美しい蝶はじやのめてふと云ふのだ。』
 そしてポオル叔父さんは、晴れた太陽が、花の許へ導いて来た蝶の名を云ひながら、其の話しをつづけて行きました。
じやのめてふは捕へ難いんですねえ。此の蝶には何でも彼でも見えるのです。あの翼は眼だらけですよ。』とエミルが云ひました。
『沢山の蝶が、其の翅に持つてゐる美しい丸い斑は、あれは本当の眼ぢやないんだ。眼と云はれてはゐるけれども、実は飾りなのだ。それだけの事だよ。本当の眼、即ち物を見る眼は頭にあるのだ。じやのめてふには、他の蝶と同じやうに眼が二つある。』
『クレエルが、蝶は毛虫から生れてくるんだつて云ひましたよ。叔父さん本当ですか。』とジユウルが云ひました。
『さうだよ。美しい翅で、花から花へ飛び廻る美しい虫になる前は、何の蝶も何の蝶も[#「蝶も」は底本では「喋も」]、苦しさうにして這つてゐる、あの醜い毛虫だつたのだ。さうして、今お前たちに見せたもんしろてふは、初めはキヤベツの葉を噛つてゐた青虫だつたんだ。青虫は非常に食慾が烈しいので、ジヤツク爺さんは、此の大食ひの虫をキヤベツ畑から取り除くのに、随分骨が折れると云ふだらう。その理由は直ぐに分るよ。
『昆虫の大半は此の蝶と同じやうにして生れて来る。即ち卵から出る時には、一時仮の姿をしてゐて、あとで又直ぐ外の姿に変る。つまり二度生れて来るやうなもので、最初は不完全で、ノロ/\して、大食ひで、醜いが、後には完全で、敏捷で、大食でなく、綺麗なものになる。此の最初の形態をしてゐる時の昆虫は、幼虫と云ふ総称で呼ばれてゐる。
『お前たちは、木虱の獅子の事を覚えてゐるだらう。此の虫は薔薇の木虱を食べるのだが、幾週間も幾週間も、いくら食つても食ひたらずに夜も昼も盛んに食ひ荒しつゞける。此の虫は幼虫で、の翅と金色の眼を持つたくさかげろふと云ふ小さなレース翅をした蠅に変はるのだ。黒い斑点ほしのある、美しい赤色のてんとうむしは、さうなる前には、瓦色をして、小さな棘の一杯生えた、そして木虱を非常に好きな、醜い虫だ。かなぶんもやはり、初めは色の白い裸の、肥つた虫であつて、地の中に住んで、植物の根を食ひ、穀物を枯らす。鹿の角のやうな恐ろしい形をした上顎で固められた頭をした、大きなくわがたむしも、初めは古い木の幹に住んでゐる大きな白虫だ。其の長い触角で有名な、あのかみきりむしもやはりもとは白虫だ。それから熟したさくらんぼうの中に入つてゐる、あの小さな白虫は、何んになるかと云ふに、之れは黒いビロウドの帯が四つ入つた翼をつけた、美しい蠅になるのだ。
『さて、昆虫の初期、即ち其の若い時の最初の形を、幼虫と云ふ。幼虫を完全な昆虫に変へて了ふ大変化を変態と云ふ。毛虫や青虫は幼虫である。此の変態でもつて、幼虫は我々を驚かせるやうな豊富な色彩で飾られた翼を持つてゐる蝶になるのだ。青空色の翅を持つた美しいじやのめてふは、初めは見すぼらしい、毛深い、毛虫であつたし、美しいあげはのてふは黒い横縞の通つた、わきに赤い斑のある青虫であつたのだ。其の他の穢い虫も変態をすると、あの花と優美を競ふ事の出来るきれいな活きものになるのだ。
『お前達はみんなあのシンデレラのお話を知つてゐるね。あの姉妹達は大威張りで、おしやれをして舞踏会へ行つてしまふ。シンデレラは湯沸しの番だ。彼女はもう胸が一杯になつてゐる。其処に教母が来る、『お出』と彼女は云ふ、『庭へ行つてとうなすを取るのだよ。』そして見てゐるとえぐり出されたとうなすは教母の魔法杖で最上等の馬車に変つた。『シンデレラ』と教母はまた云ひました『その捕鼠機ねずみとりをおあけ。』その中から六匹の鼠が飛び出した。そしてそれが魔法の杖にふれるが早いか、連銭葦毛のきれいな六匹の馬になつた。髭のある鼠は、その威儀のある髭で、大きな御者に丁度よかつた。如露の蔭に眠つてゐた六匹のとかげは、青く着かざつた従僕おともになつた。その従僕はすぐに馬車の後に飛び乗つた。最後に其の可愛想な娘のボロ/\の着物は、金銀宝石をちりばめたものにかはつた。シンデレラは舞踏会に出かけて行つた。お前達は其の後は私よりもよつぽどよく知つてゐるね。
『それ等の教母達にとつては、鼠を馬にしたり、とかげを従僕にしたり、みすぼらしい着物を贅沢なものにしたりするのは、ほんのたはむれだ。とても信じられないやうな不思議な事でお前達を驚かす。それ等の親切な妖精おばけ達は、一体何んだらうね。それを実際の事に引きあはせて考へて御覧。立派な神様の妖精は、きたない虫から、そのきらはれる処を取り除いて、どうしてあのうつとりするやうなきれいな活きものを造つたのだらう! 彼が其の魔法の杖ではれば、みぢめな毛虫も、腐つた木の中の蠕虫うじむしも不思議に立派に仕上げられるのだ。嫌はれる幼虫も金色に輝く甲虫に代つて了ふし、蝶の浅藍色せんらんしょくの翅はシンデレラのすぐれたおめかしにもひけはとらないだらう。』

二二 大食家


『昆虫は卵で其の蕃殖をする。彼等は驚くべき先見で、若い虫が其処で確かに直ぐ営養物を見出すだらう処に其の卵を生む。卵から出た幼虫といふ其の小さな活きものゝかよはい虫は、食物と庇護物の危険から屡々しばしば其の位置を移す――それは此の虫の世界では非常に困難な事なのだ。それ等のつらい初めの仕事も其の母親からは何んの助けも当にする事は出来ない。母親はそれより前に死んでしまつてゐる。昆虫の生活では、其の両親は一般に、卵がかへつて若い虫が生れる前に死ぬのだ。幼虫は直ぐに仕事にかゝる。仕事と云ふのは食べる事だ。それは其の虫の将来に懸つてゐる真面目な、唯一の仕事なのだ。それは殆んど毎日々々力一杯に食べつゞけるのだ。何よりもムク/\と肥る事が、将来の変態に必要なのだ。私はお前達に話さなくちやならない――それはきつとお前達を驚かすだらう――昆虫は最後の完全なかたちになつたあとではもう大きくなる事を止めるのだ。昆虫の其の点はなか/\よく知られてゐる――とりわけ蚕の蝶はね――蚕は或る営養物以外のものはとらないのだ。
『猫の生れたては、小さな薄紅色の鼻をした手の窪みで寝られる程小さいものだ。一と月か二た月たつと自分で遊ぶのに夢中なだけのそれはきれいな小猫で、そのすばしつこい足で人がその前に投げてやつた紙の束にじやれつく。それから年がたつとそれは一匹の牡猫で、辛抱強く鼠の番をしてゐるか、或は其の競争者と屋根の上で戦を交へてゐる。しかし、それが小さな蒼い眼をやつとあいてゐる小さな活きものにしても、或は綺麗なふざけやの小猫にしても、或は又喧嘩好きの牡猫にしても、どれもいつも猫の態を備へてゐる。
『昆虫の場合にはそれとは反対なのだ。あげはの蝶は、其の蝶の態で、最初は小さく、それから中位になり、それから更に大きくなるといふやうな事はない。最初から翅をひろげて飛ぶし、其の翅はいつもおなじに大きいのだ。それが地面の下から出て来る時までは、其処に虫の姿で住んでゐる。そしてやがてまづ最初に日光の中に出て来る。かなぶんもやつぱりさうだ。それはお前達も知つてるね。小さい猫はある、けれども小さいあげはの蝶や小さいかなぶんはない。昆虫は変態を済ませば、もうそれきりで変らないのだ。』
『でも僕ね、夕方柳のまはりを小ちやなかなぶんが飛んでゐるのを見ましたよ。』ジユウルが反対しました。
『その小さなかなぶんは、ちがふ種類のものなのだ。それはいつでもおなじ大きさだ。それが大きくなつて、普通のかなぶんになり、猫よりも成長したものが虎になるといふ事は決してない。大変よく似てはゐるが、違ふものだ。
『その小さな虫はひとりで育つのだ。卵から出て来たばかりの最初の時は非常に小さい。が、だんだんに大きくなつて行つて、将来の昆虫に適するやうになる。それは、その変態に必要な材料を集めるのだ――その材料といふのは、翅、触角、あし、になるので、それはみんな幼虫にはないが、昆虫は持つてゐなければならないのだ。あの死んだ木の中に住んでゐる大きな青虫が、いつか鍬形虫にならねばならないのだが、あの異常な枝のついた顎や、頑丈な硬い完全な昆虫の外被を何からつくるのだらう? 長いかみきりの触角を幼虫は何でつくるのだらう? あげはの蝶の大きな翅を毛虫は何でつくるのだらう? 毛虫や、青虫や、幼虫や、蠕虫は、その時代に、生命を支へる大事な材料をさかんに集めて蓄めるのだ。
『もし、小さい、薄紅色の鼻をした猫が、耳も、足も、尻尾も、毛も、鬚もなしで生れて来て、もしそれが簡単な小さい肉の球で、何日か眠つてゐる間に、耳も、足も、尻尾も、毛も、鬚も、その他のいろんなものも、みんな一度に出来るとして、此の必要に迫まられて材料を集める生の仕事が、脂肪の多い組織の動物に、前もつて集めたものを掴んで別に取り除けておくといふ事が果して間違ひのない事だらうか? 無からは何んにもつくる事は出来ない。勢よく前の方にはねてゐる猫の鬚のあの少しの毛でも、食べる事によつてつくられた動物の本質に損をさせる事になるのだ。
『幼虫はそつくりそのまゝ此の例の通りなのだ。完全な昆虫が持たねばならないものを何んにも持たない。幼虫の次の時代になつても何んにも持たない。だから、将来の変化の事を考へて、其の変化の為めの材料を貯へて置かなければならないのだ。それには二つの目的の為めに食べねばならない。第一には幼虫自身の為めと、それから昆虫の本質から来る、型を変へる事や、感覚やの変化をするために食ふのだ。幼虫はさういふ風にして、無類の食慾を授けられてゐるのだ。私が云つたやうに、食べる事は、彼等のたつた一つの仕事なのだ。彼等は夜も昼も食べる。そして屡々止め度なしに息もつかずに食べる。そして一口の食物に迷つてゐる。何といふ不謹慎な事だらう? かうして彼等は意地汚く食べる。其の胃袋は大きく脹れてブク/\になる。それが幼虫のつとめなのだ。
『或ものは、草木を襲ふ。彼等は葉の上で新芽を食べる。花を噛む。果物の肉に喰ひ込む。それから別に、木を十分に消化させる程強い胃袋を持つた奴がゐる。彼等は、木の幹に隧道トンネル穿うがち、列を分けて擦り減らして行つて、硬い樫の木も粉になるし、柔かい柳も同様だ。更に又そんなものよりは動物の体を腐らしたものを好きな奴がゐる。彼等は病毒に染つた屍体の中に巣喰つてゐる。彼等の胃袋は腐つたもので一杯になつてゐる。なお、他に、糞をさがして、その不潔なものを御馳走にするものがある。彼等はみんな、地面の汚物をきれいにする立派な役目の発達した掃除夫だ。お前達はさういふ蛆虫が、膿汁の中に群がつてゐるのを考へたら胸が悪くなるだらう。だが、それは最も大事な役に立つ事の一つであり、用意深い一つの仕事なのだ。その伝染力を逐ひ、構成要素を忠実にもとに戻す役目は此の胸を悪くさせる食ひしんぼうの虫によつて果されるのだ。そして、まるで此の不潔な必要を償ふように、それ等の幼虫の一つは、あとでは磨いた青銅と其の光輝を競ふ綺麗な蠅になるし、他のものは、見事な宝石や金の光彩と其の立派な上衣とを競はせて麝香じゃこうの匂をさせてゐるかみきりになるのだ。
『しかし、それ等の一般の衛生の仕事に貢献してゐる幼虫は、吾々を被害者にする他の食ひしんぼうの事を吾々に忘れさすことは出来ない。かなぶんの幼虫は、たつた一つから繁殖して、幼い間に広大な地域の植物を剥ぎとつてしまふ程速く殖える。それは草や木の根を咬むのだ。林業家の灌木や、百姓の収穫物や、園芸家の植物などが、丁度これから元気よく育つて行かうと云ふ時分の或る上天気の朝に、萎れて死んでしまふ。虫が其処を通つたのだ。それでみんな死んだのだ。火はこんな恐ろしい荒らし方はしなかつた。地の下に住んで、やつとの事で見られる位のつまらない黄色な虱が葡萄の木の根を襲ふ。その虫は葡萄虫といふのだ。此の災難な虫の繁殖は、吾々の葡萄園が台なしになる前ぶれだ。或る虫は、小麦の粒を十分其の宿り場所にする程小さい。その虫は吾々の穀倉を荒らしてふすまだけを残す。他の虫はまたむらさきうまごやしの若草を草刈り手が何んにも刈るものを見当らない程すつかり食べてしまふ。別の虫は何年もかゝつて樫やポプラや松やその他いろ/\の大木のしんを咬みらす。それからまたこれは、蛾と云つて夕方ランプのまはりを飛びまはる白い蝶になるのだが、その虫は吾々の毛織物の着物をだんだんに食つて行つてしまひにはボロにしてしまふ。もつと他のものは羽目板や古い家具を襲ふてこれを粉にしてしまふ。それからまた――だが、私がもしお前達にそれをみんな話すとしたら、何時までたつてもおしまひにする事が出来ないだらう。此の小さな者達を吾々は軽蔑して上つ面だけの注意しかしない。が、此の小さな昆虫の仲間は、その幼虫の丈夫な食慾の為めに非常に力あるものなのだ。人間はそれを真面目に考へなくてはならない。もしも本当にその虫がとめ度なく繁殖する事が出来たら、何処の国でもみんな飢餓の悲惨な運命に脅かされるのだ。そして吾々はそれらの大食家共の目的を全く知らずにゐたのだ。若しもお前達が悪魔を知らないときにお前達はどうして自分達でその悪魔を防ぐ事が出来る? 私はたゞ一つそれ等のものを支配する事を知つてゐる。お前達は、それ等の荒し手に就いてのもつと委しい私達の話をまだ続けるのを待つ間に、斯ういふことを思ひ出して御覧。昆虫の幼虫は此の世界の大食家で、此の荒しやは、前に話したやうにしてその生命の為めに用意をして、他のものを滅亡させる仕事をお仕舞ひにする。その間すべてのもの、或はすべてに近いものが、彼等の胃袋を通るのだ。』

二三 絹


『幼虫は、其の種属によつて、何時かは、自分が変態の危険に面しても十分に強くなつたことを感ずる日が来る。それには先づ幼虫の務めである腹をふくらしつめ込んだ後に、勇敢にその義務を果す。幼虫は自分自身の為めと成熟した昆虫との二つのものゝ為めに食つたのだ。今が食べる事を思い切つて外界から退き、その死のやうな眠りの間の静かな隠れ場所で同時に再生の場所を自分で用意する適当な時なのだ。此の住居を用意するのに、千もの方法を使つてゐる。
『或る幼虫は簡単にその体を地中にくすし、他のものは壁の磨いた面を穿る。それから又或るものは乾いた葉で袋をつくるし、他のものはまた土や腐つた木や、砂の粒で、うつろの球をつくつてその外側をにかわづけにして固める事を知つてゐる。木の幹に住んでゐるものは、自分で穿つた隧道の両端をその木屑のつめで塞いでゐるし、小麦の中に住むのは小麦粒の粉になるすべての部分を咬んで、用心深く、外側にはふれないか、或はふすまにする。それが、此の虫達に揺床ゆれどこのやうな役目をするのだ。また他にもつと僅かな用心で隠れ場所をつくるのがある。それは木の皮や壁の裂目に隠れるので、自分の体を巻いた糸で其処に自分の体をしばりつけるのだ。もんしろてふあげはのてふの幼虫は此の種類に属する。しかし繭といふ小さな絹の室をつくる幼虫の熟練は特別に優れて見える。
『灰白色の小指位の大さの虫がある。その繭をとるのに沢山にそれを飼う。その繭で絹がとれるのだ。其の虫を蚕といふのだ。清潔にした室に藁のふるいを置き、その上に桑の葉を置く。そして幼虫は家の中で卵からかえる。桑は大きな木で、其の幼虫を養ふ目的で栽培するのだ。此の桑は、たゞ蚕の食物になるその葉を除いては何の値うちもない。広い地域が、此の桑の栽培に当てられてゐる。それほど此の虫の手細工はたっといものなのだ。幼虫は度々篩の上をすつかり新しくする桑の葉の定食じょうしょくを食べる。そして、折々、彼等が育つ割り合ひに従つて其の皮を脱ぐ。その食慾は、穏やかな木の葉簇はむら俄雨にわかあめが降りそゝぐやうな音が彼等の顎から起る位に荒い。その室には実に無数の虫を容れてあるのだ。幼虫は四週間から五週間の間育つて行く。それから篩はヒーザアの小枝で用意される。虫はその繭を紡ぐ時が来ると其の上に這ひ上るのだ。彼等は一つ一つ小枝の中に落ちついて、非常にきれいな沢山の糸を彼方此方に一種の網細工をつくるやうに、結びつける。それは、繭をつくる大仕事の為めに足として役に立ち、またそれを吊しておく支へになるのだ。
『その絹糸は、唇の下から出て来る。その孔を糸嚢しのうといふ。虫の体の中には絹の材料がうんとはいつてゐるのだ。それは護謨ごむに似たねばねばする液体だ。唇が開いて出て来る其の液体を引き延ばしたものが糸になるが、それは糸になるまでは膠のやうな粘着物だが、すぐに固まつてしまふ。絹の材料は虫の食べる桑の葉の中には、全く含まれてはゐない。それは牝牛が食べる草の中のミルクよりはもつと含まれてゐない。それは虫が、自分の食べたものからつくるのだ。丁度牝牛がその飼葉からミルクをつくるのとおなじやうに、虫の助けがなかつたならば、人間は決して桑の葉から高価な織物の材料を引き出すことは出来なかつたのだ。吾々の一番きれいな絹織物は実に、虫が生んだものを取つたのだ。それは虫のよだれが糸になつたのだ。
『話を戻さう。虫が自分の網の真中に体を吊した処までだつたね。それから繭をつくるのだ。其の虫の頭はつづけさまに動く。それは前に進んだり、後戻つたり、上つたり、下つたり、右へ行き、左へゆく。その間、唇から極く僅かづつの糸を出してゐる。その糸はゆるくその体のまはりに巻かつてゆく。そしてその体は既にもう其処で糸にひつついてしまふ。そしておしまひには鳩の卵位の大きさにすつかり包まれたものが出来上る。その絹のつくり方は、最初には透きとほつてゐて、誰でも十分に虫の働きを見る事が出来る。しかし、内側を通る糸が厚くなつて行つて直ぐに其の観察から隠れてしまふが、容易に推察に従ふ事が出来る。三日か或は四日の間その貯へた絹の液を使ひつくしてしまふまで、繭の壁をあつくする事を続けてゐる。それが済むと最後に此の世界から退いて独りになり、静かにもう直ぐに行はれる変態の為めの準備をする。その全生活は、その長い生活は一ヶ月だ。桑の葉をうんとその体に詰め込んだのも、繭の絹をつくるのに自分の体を軽くしたのも、その仕事はみんな変態の前置きなのだ。斯うしてその虫は蝶になりつつあるのだ。それは幼虫にとつては何んといふ厳粛な瞬間だらう!
『おゝ! さうだ、私はそれについての人間に関した部分の事を大方忘れてゐた。やつと其の繭をつくる事が済むと人間は直ぐにヒーザアの小枝に馳けつける。そして乱暴な手を繭にかけてそれを製造人の手に渡す。製造人は早速にそれを窯に入れて未来の蝶を殺すのに蒸気で蒸すのだ。その柔かい肉はもとの形のまゝだ。もしも製造人が猶予すれば蝶は繭をつき破るだらう。そしてその繭は切れ/″\になつた糸の為めにもうぐす資格がなく、その値うちが下つてしまふのだ。此の予防をしてしまへば、そのあとはゆつくりと出来るのだ。其の繭は、工場の紡績機といふものでほぐされる。繭は湯の※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)立つた鍋の中に突込まれてゴムを弛められる。そのゴムは長々と続いてうねりくねつた糸を集めてしつかりともたしておくのだ。女工は其の握つた小さなヒーザアの掃木で湯の中の繭を攪きまはして順に糸の端を見出して取り上げる。そしてそれを廻つてゐる紡車つむぎぐるまの上に置く。すると機械の活動の下に絹糸はほぐれて行く。その間繭は、誰れかゞ糸を引つぱつた時の毛糸の玉のやうに熱い湯の中で跳ねてゐる。糸の薄くなつた繭の真中には、火で焙り殺されたさなぎがゐる。その後で絹はいろ/\な作業に遭ふ。それはもつとしなやかにし光沢を出させることや、紺屋の桶を通つて其処でそれ/″\好みの色に染められ、最後に織られて、織り物になるのだ。』

二四 変態


『一度繭の中に隠れた虫は、丁度死にかゝつたものゝやうにしなび縮む。第一に、背中の皮が割れる。それから彼方此方を引つぱつて痙攣を繰り返す。虫は非常な難儀でその皮を引きはがす。その皮で頭の外面、顎、眼、肢、胃袋やその他のいろんなものが出来る。それが普通のひきはがし方だ。古い体を覆つてゐた破れた皮は、終ひに繭の中で隅の方におしつけられる。
『繭の中でその仕事をしてゐるのは何んだらう? 違ふ虫か、それとも蝶か、どつちでもないのだ。彼等の体は巴旦杏はだんきょうの型をして一方の端は円くなり他の方は尖つてゐて、皮のやうな見かけをしてゐる。それを蛹といふのだ。それは、虫と蝶との二つの資格の中間のものだ。其処では、既に未来の昆虫の型を表示した投影を確かに見る事が出来る。大きい方の端では触角を見分ける事が出来、翅はしつかりと蛹の横に折り畳まれてゐる。
かなぶん、よろひ虫、鍬形虫、其の他の甲虫の幼虫も、もつと強い型でほぼ同様な状態を抜ける。頭や翅や肢の各部分が、精巧に蛹の脇に折りたゝまれてゐて非常によくそれを認める事が出来る。だが、それはみんなぢつとして動かない。そして柔かで、白く、或は水晶のやうに透きとほつてゐるのさへある。此の昆虫の輪郭をしたものを活動蛹といふのだ。蛹といふ名は蝶のに使ふ。活動蛹の名はおなじものでゐても、何かの違つた外見を表はしてゐる他の昆虫のに使ふ。蛹と活動蛹の二つは昆虫の形成の途中なのだ――昆虫はひそかに纏布てんぷに包まつて、その中で、頭から足の先きまですつかり構造を変へる神秘な働きをするのだ。
『二週間の間に、もしも適当な温度であれば蚕の蛹は熟した果物のやうに割れる。そして、その小さな室を破り開いて其処から蝶が脱け出す。すべてがくしや/\で、湿つてその震へる足でやつと立つ事が出来る位だ。外の空気は、翅を乾かし、張りひろげ、力を得るのに必要なのだ。繭からは出なければならないのだ。だが、どうして幼虫は繭を堅くつくつたのに、蝶はそんなに弱いのだらうか? その可哀想なものは、その牢屋の中でいためられたのだらうか? その小さなふさいだ室の中で、仕事を遂げるのに窒息する程の悲惨な沢山の困難にも怒らないのだ。もう最後に到つたのだ!』
『その繭は歯で破つて出るのぢやないんですか?』とエミルがたづねました。
『だが坊や、それがないんだよ、それに似たものもないんだ。たゞ尖つた鼻を持つてゐるだけだ。いい加減な骨折りは役に立たない。』
『ぢやあ、爪でですか?』とジユウルが云ひ出しました。
『さうだ、もしそれを持つてゐれば十分役に立つ。だが厄介な事には、それもないのだ。』
『だつて、蝶は外に出る事が出来なければならないのです』とジユウルが頑張りました。
『間違ひなく外へ出る。すべての生物がさうとはゆかないが、生命の困難な瞬間の手段はみんな持つてゐる。鶏の雛がとぢ込められてゐた卵を破るのに、その小さな雛のくちばしの端がその目的の為めに、ほんの少しその先きが固くなつてゐる。だが、蝶はその繭を破るのに何にも持たないだらうか? 持つてゐる! だが、お前達には、とても簡単な道具だが、何をつかふか察しはつくまい。それはね、眼を使ふのだよ。』
『眼ですつて?』クレエルが遮りました。
『さうだ。昆虫の眼は透きとほるような角性のふたで被はれてゐて、堅くて切れる多面体だ。その多面体をよく見ようとするには、廓大鏡が要る。それは非常に鋭くて骨を切る事が出来る程だ。それをみんな集める事が出来れば必要な時には銹器おろしきのやうな風に使へるだらう。蝶はその仕事を初める時には、唾で繭の此処と思ふ処を湿して、それから、その柔かにしたしみに眼をあてる。そしてそれをぢ、叩き、ひつかき、やすり[#「やすりを」は底本では「やすりを」]かける。絹糸は一つ一つに負けて擦りきれてゆく。穴が出来る。蝶は外に出るのだ。お前達はそれについてどう考へる? 四人で考へても、時としては動物の持つてゐる智慧に及ばないではないか? 牢屋の壁を眼で叩いて突き貫くといふ事が吾々に考へられるだらうか?』
『蝶はその利口な方法を、長い間考へて研究しなければなりますまいね。』とエミルが質問しました。
『蝶は研究する事なんか出来ない。思案をする事も出来ない。それは何時でもその重要な仕事をどうするか、どうすればうまくゆくか、と云ふ事を直接に知つてゐるのだ。その為めに考へるのは他の者だ。』
『それは誰れです?』
『神様だ。神様は偉大な智慧者だ。蚕の蝶は綺麗ではない。白ぼけた色で、大きな腹で重い、そして他の蝶のやうに、花から花へ飛びまはる事は出来ないし、食物もとらない。その蝶は繭から出るや否や、卵を生む仕事に掛る。そして死ぬのだ。蚕の卵は普通にたねと云つてゐる。それは、植物の卵が種であるやうに、動物の種である卵の為めには、大変にいゝ呼び方だ。卵と種は一致するのだ。人間は繭をすつかり蒸気で窒息させはしない。それを空気に曝らしたあとで、種とそれを産む蝶を手に入れるためにいくらかの数をとりのけておく。その種は次の年に新らしい蚕をつくり出すのだ。
『すべての昆虫は、私が今お前達に話したやうに四つの状態を通ずる変態をする。卵、幼虫、蛹或は活動蛹、完全な昆虫と云ふ四つだ。完全な昆虫は卵を生む、そして順に変形を繰り返してゆく。』

二五 蜘蛛


 或朝、アムブロアジヌお婆あさんは、少し前に孵つたばかりの小な鶏の雛の為めに林檎を※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)、草を刻んでゐました。大きな一匹の灰色の蜘蛛が、其の長い糸を自分で滑らせながら天井から其の善良なお婆あさんの肩に降りて来ました。その長いびろうどのやうな肢を見るとすぐアムブロアジヌお婆あさんは恐怖の叫び声をめる事が出来ませんでした。そしてその肩を震はせて、虫を落しました。虫はお婆あさんの足で圧しつぶされました。『朝の蜘蛛は悲しみのしるしだ。』お婆あさんはひとりで思ひました。此の時にポオル叔父さんとクレエルとが急いではいつて来ました。
『よくない事が御座いました旦那様』とお婆あさんが云ひました。『私達は役に立たない面倒を見てあんなに沢山の可哀想なものを死なさなければならないのです。十二の小さな雛が孵つて、金のやうに輝いてゐます。丁度今私が其の雛の為めに食べものゝ用意をして居りましたらあのまあ悪い蜘蛛が私の肩に落ちて来ましたのです。』
 アムブロアジヌお婆あさんは、まだ足を震はせてゐる圧しつぶされたばかりの虫を指さしました。
『私はまだ其の雛を見なかつたが、蜘蛛が何か恐ろしいものを持つてゐるのかい?』とポオル叔父さんが云ひました。
『いゝえ何にも持ちは致しません。恐ろしい活物いきものは死にました。けれどもあなたは『朝の蜘蛛は悲しみ、夜の蜘蛛は喜び』と云ふ諺を御存じでせう。誰でも、朝蜘蛛を見れば悪い事のしるしとしてゐます。あの小さな雛は険呑です。猫がとるのでせう。旦那様御覧になつて下さい。御覧になつて下さい。』アムブロアジヌお婆あさんの眼に恐怖の情が動きました。『雛は猫のかゝらない安全な処に置かう。そして私は其の他の返事をしよう。其の蜘蛛の諺は、たゞ馬鹿気た間違つた考へなんだよ』とポオル叔父さんは云ひました。
 アムブロアジヌお婆あさんは何にも云ふ事が出来ませんでした。お婆あさんは、ポオル先生が何についてでもよく説明をして聞かせてくれる事を知つてゐますし、また、蜘蛛にも時によつては讚められる資格のあることもわかつてゐるのです。クレエルは、どうして蜘蛛が賞められるのか叔父さんに質問しました。
『ねえ叔父さん、私叔父さんの目に映るすべての動物は、たとへどんなにいやなものであつても、何かその云ひわけになる勝れた処を持つてゐるものだ、と云ふ事は知つてゐます。みんな考へる価値があります。みんな神様がおきめになつた役目をつとめてゐるんです。そしてみんなそれを観察し研究すれば興味があるのです。けれども叔父さん、私おたづねしたいんです、あの蛛網くものすで天井を汚くするそして毒を持つたあのいやな蜘蛛を、叔父さんは何う云ふほめ方をなさいますの?』
『どういふほめ方をするかつて? ほめる事はどつさりあるよ。もしお前が蜘蛛の諺の嘘だといふ説明を聞きたかつたら、雛に餌を食べさして猫を用心してやる間に話してあげよう。』
 夕方、アムブロアジヌお婆あさんは大きなまんまるい眼鏡を鼻の上にのせて、靴足袋を編んでゐました。お婆あさんの膝の上では猫が眠つてゐました。そしてその猫のゴロ/\云ふ音と、針のカチカチ云ふ音とが混つてゐました。子供達は蜘蛛のお話を待つてゐます。叔父さんは始めました。
『あの綺麗な蜘蛛の巣は、穀倉の隅に張つてあるか、それとも庭の木の間に張つてあるか、それからその蛛網で蜘蛛が何をするのか、此の三つの事をお前達は私に話すことが出来るかい?』
 エミルが第一に話しました。『その蛛網といふのは蜘蛛の巣ですね叔父さん、それは蜘蛛の家で、そして隠れ場なんですね。』
『隠れ場所!』ジユウルが叫びました。『さうだ、僕はそれよりももつと考へます。或る日僕はライラツクの枝の間で、ヒイーイーイイツ!と云ふ金切り声を聞いたんです。見ると一匹の蒼蠅あおばいが蛛網に絡つて逃げようとしてもがいてゐました。その音は蠅が翅をバタ/\さしてゐる音だつたんです。すると、一匹の蜘蛛が絹の漏斗じょうごの底から走つて来てその蠅をつかみました。そしてそれを真中の穴に運び込んで確かに食べてしまつたんです。それを見てからは僕は、蛛網は、蜘蛛が狩りをする網だと思つてゐます。』
『それは、たしかに其の通りだ。』と叔父さんが云ひました。『すべての蜘蛛は生き物を捕へて餌食にしてゐる。蜘蛛は蠅や、蚊や、あぶやその他の虫と戦ひつゞけてゐるのだ。もしお前達が、夜私達をさして血を吸つてゆくあのにくらしい小さな虫共を恐れるなら、お前達はあの蜘蛛を庇つてやらねばならない。さうすれば、出来るだけ吾々は蚊からさされないでもすむ。勝負をするには網が必要なのだ。その絹糸で織つた網は、飛んでゐる蠅を捕へるのだ。その絹糸は蜘蛛の体から出すのだ。
『昆虫の体の中には絹のやうなものがある。丁度青虫や毛虫が持つてゐるような、ゴムか膠に似たねばねばした液体だ。それは出て来て空気に触れるや否や、すぐに固まつて糸になる。そしてそれは液体の要を成さないのだ。蜘蛛は紡ぐ必要が出来た時には、糸嚢と云つて、胃袋の端にある四つの乳くびから、その絹の液体を流し出す。それ等の乳くびの先きには水撒きの如露のやうな沢山の穴が通つてゐる。その四つの乳くびにある穴の数は、ざつとの計算でも千位はある。その、一つ一つが、めいめいに少しづつの液を出しそれが固つて糸になる。そして、その糸が千もくつついて、一つの完全な糸になり、その最後の糸を蜘蛛は使ふのだ。蜘蛛の糸に較べて、それよりもずつときれいなもの、と云つても他にはないと云ふ訳は今直ぐに分るが、蜘蛛の糸は実にそれ程繊細だ。人間の使ふ絹糸は、上等の織物の糸は、蜘蛛の糸に比較すると、それを二つ、三つ、四つも合はせた程の太綱ふとつなだ。同時に、そのくらべものゝない程細い一条の糸の中には千もの糸が含まれてゐるのだ。一本の髪の毛程の太さの糸をつくるのには、どれだけの蜘蛛の糸が要るだらうか? かれこれ十匹の蜘蛛の糸は要るだらう。そして糸嚢の別々の穴から流れ出すののやうな細い糸でどの位要るかと云へば、一万だ。此の縮めておける絹の材料は、それを引きのばせば、一万もよせて、一本の髪の毛の太さと同じになる一番細い糸になるのだ。何と云ふ驚くべき事だらう。そしてそれはたゞ蜘蛛の御馳走になる蠅を捕へるのにだけしか役に立たないのだ。』

二六 絡新婦じょろうぐもの橋


 此処で、ポオル叔父さんは、考へ深い眼で叔父さんを見つめてゐるクレエルにひかれました。それは明かに、クレエルの心の中で何かの変化が起りかけてゐたのです。蜘蛛はもう近よれない程嫌やな活きものではありませんでした。吾々が注意する価値のないものではありませんでした。ポオル叔父さんは話しつゞけました。
『蜘蛛は、櫛のやうな、鋭い歯のある小さな爪で武装した其の足で、糸嚢から必要に応じて糸を引き出す。もし、丁度今朝アムブロアジヌお婆あさんの肩の上に天井から降りて来た奴のやうに、降りて来ようと思へば、其の糸の端を出発点に膠付けにして、自分の体を垂直に落すんだ。すると糸は蜘蛛の体の重味で糸嚢からひき出される。それから後は、そつとぶら下つて、それでいゝと思ふどれだけかの深さまで出来るだけそろ/\下りてゆく、今度は上らうといふ時には、其の糸を足の間の※(「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66)かせの中にだんだんたぐり込んでぢ上つて行く。二度目に降りる時には蜘蛛はたゞ、其の※(「木+裃のつくり」、第3水準1-85-66)の絹糸を少しづつ繰りほぐしてゆけばいゝのだ。
『蛛網を織るには、蜘蛛は其の種々に従つてそれ/″\にその持ち前の方法や手順でつくる。狩りをする種類に従ひ、場所も彼方此方で、まだ其の特別な性癖や、鑑識や、本能に従ふのだ。私はお前達にたゞ、あの大きくて立派な、黄や、黒や、銀色の斑点のあるじよらうぐもについて簡単に話そう。その蜘蛛は、よく河の流れに近くゐるあの青や緑の※(「虫+良」、第3水準1-91-57)とうすみとんぼや、蝶や大きな蠅と大きな勝負をする狩人だ。その蛛網は二本の木の間に竪に張つたり、一方の流れの岸から、もう一方の岸へかけてさへも張るのだ。其のあとの方の例をしらべて見よう。
『一匹のじよらうぐもが、狩りをするのにいゝ場所を見つけ出す。蜻蛉や、青や緑の豆※(「虫+良」、第3水準1-91-57)が、或る蘆の叢から他の場所へと、行つたり来たりして或時は高く昇り、或時は流れの上に降りて来たりしてゐる。蝶もやはりさういふ風にしてゐるし、あぶやあの牛の血を吸ふ大きな蠅も飛んでゐる。場所は上等の処だ。さて、それから仕事だ! じよらうぐもは水際の柳のてつぺんに攀ぢ上る。其処で一つのとても仕遂げることの出来さうに思へない大胆な計画を熟慮するのだ。一本の大綱の橋が懸る。その綱は一方の岸から向ふ側の岸に張らねばならない蛛網を支へる役に立つのだ。さうして、みんなよく考へて御覧、蜘蛛は泳いで流れを越すことは出来ないのだ。もしも、冒険をして水の中にはいるやうな事があれば、溺れ死んでしまうだらう。だが、其の橋は、大綱は、どうしても柳の枝の尖から向ふ側へ掛けなければならないのだ。そんな六ヶしい仕事には機械師でも決して気がつかないだらう。其の小さな活きものはどうするのだらう? さあ、みんなで一つ考へて御覧。私はみんなの考へを聞かう。』
『蜘蛛が、水も渡らず、自分のゐる処から向ふへ行きもしないで、一方の側から向ふ側に橋を掛けるんですつて? もし本当にさう出来るのなら、蜘蛛は僕よりずつと悧巧ですね』とジユウルが云ひました。
『僕だつてもさう思ふなあ』と弟も同意しました。
『もし私が、』とクレエルが云ひました。『丁度これから叔父さんが私達に話して下さる、蜘蛛がどうしてその仕事を仕遂げるかと云ふ事を知らなかつたら、私はきつと、その橋は出来つこはありませんと云ひますでせう。』
 アンブロアジヌお婆あさんは何んにも云ひませんでした。けれども、お婆あさんの針の音がのろいので、誰にも、お婆あさんがその蜘蛛の橋に非常な興味を持つてゐる事が分ります。
『動物はよく、人間よりももつと智慧を持つてゐる。』ポオル叔父さんは続けました。『じよらうぐもはそれを私達に見せる。其の後肢で糸嚢から糸をひき出す。其の糸は長く長くなつて、柳の枝の尖から垂れてゆら/\してゐる。蜘蛛はもつともつと糸をひき出す、そして、最後にやめる。糸は十分に長くなつたか? 短かすぎはしないか? それもよく振り返つて見なくちやならない。もし長すぎたら、それは大事な絹の液をつかひすぎたのだ。もしまた短かすぎたら、それが不成功のもとだ。蜘蛛はすばやく、その横ぎらうとする距離を見る。正確に見るのだ、それはお前達にも信じられるだらう。糸が短かすぎると云ふ事が見出される。蜘蛛はもう少し引き出して長くする。さあ、もうすつかりいゝ。糸は丁度いゝ長さになつた。仕事はすんだ。じよらうぐもは柳の枝のてつぺんで、助けなしに出来てしまつたその残りの仕事を待つのだ。時々蜘蛛は足で糸を支へて、糸に何か妨げがありはしないかと注意してゐる。その妨げるものだ! 橋は其の妨げるものにくつつくのだ! 蜘蛛は流れを横切つてその橋を懸けたのだ。何うしてそんな事が出来たのだらう? 糸は柳のてつぺんから垂れて、ゆら/\してゐるのだ。静かな風が、糸の端を、向側の岸の柳の枝に吹きつける。するとその糸の端が、其処に絡りつくのだ。不思議に見えた仕事はそれなのだ。じよらうぐもはたゞ糸を引き出すだけで、その糸の橋を懸け、蛛網を張るのだ。』
『やあ、何でもないんだなあ!』とジユウルが叫びました。『そして僕等は一人もそれを考へつかなかつたんですね。』
『さうだ、ジユウル、それは大変簡単なんだ。けれども同時に非常に利口な方法だ。それはどんな仕事でもさうだが、仕事の手段を簡単にするのはそれが優れてゐるしるしだ。一つの仕事でも単純に片づくのは知識が手伝つてゐるし、こみ入らすのは無知だからだ。じよらうぐもは、その作業については、十分に科学に通じてゐるのだ。』
『何処にでも科学を取り入れる事が出来ますの? 叔父さん』とクレエルがたづねました。『動物は理窟を知りませんでせう。それが誰がじよらうぐもにその吊橋をかける事を教へたのでせう?』
『誰も教へないんだよクレエルや、それは生れると同時に持つてゐる知慧なんだ。本能によつて持つてゐるのだ。それはすべてのものを創つた神様の、間違ひのない思ひつきなのだ。神様は自分でつくつた活きものゝ中でも、一番小さいものを保護する為めに、時々迷ふ人間の理性よりは、間違ひのない道をおつくりになつたのだ。何時でもじよらうぐもは、柳のてつぺんから蛛網を紡ぐ準備をしてゐる。何が、その大胆な計画で橋をかける事を悟らせたか。何が、揺れてゐる糸の端が向ふ岸の枝の中に絡りつくのを待つ辛抱を与へたか。又、何が、恐らくはたゞ一度で仕遂げられる、そしてまだ且つてやつたことのない其の労働の成功を保証するのか? それは、すべての創造物を監視する全般的な理性だ。』
 ポオル叔父さんはその例を説き終りました。誰れの眼にも、アムブロアジヌお婆あさんにでさへも、もう蜘蛛は少しも嫌やな活きものではなくなつたことがわかりました。

二七 蛛網


 翌日小さな鶏の雛は、みんな孵つて、丈夫でゐました。牝鶏はその雛共を中庭で連れてゐました。そして、クツクツと云ひながら土をひつかいては小さな種をほじくり出しました。その種を小さな雛が来てはお母さんの嘴から取りました。そして、ほんの少しでもけんのんな事に近づくと牝鶏は雛を呼びます。すると雛はみんな走つて行つて牝鶏の拡げた羽の下にくつつき合つてしまひます。が、すぐに彼等は大胆に頭を外につき出します。その綺麗な小さな黄色い頭は、お母さんの赤い羽根の中にめ込んだやうです。驚きが過ぎ去つてしまふと、牝鶏はまたクツクツと云ひながらほじくります。小さい雛はもう一度お母さんのまはりを走つてゐます。アムブロアジヌお婆あさんは、もう全く安心しました。そして蜘蛛の諺はすつかり棄てました。夕方になると、ポオル叔父さんはじよらうぐもの話を続けました。
『それから、第一に張つた糸を、支柱のやうに使はねばならない。で、その糸をうんとつかりとしたものにしなければならない。そこでじよらうぐもは、糸の両端をよく粘りつかせる。それから一方の端からも一方の端へと糸の上を行つたり来たりしはじめる。そしてその間何時も糸は紡ぎ出してゐて、それを二重に――三重に――それをよせ集めてひつつけ、普通の綱のやうにしてひ合はせる。次ぎには第二の綱が必要だ、それは、第一のよりは少し下の方で、殆んど平行して置くのだ。蛛網くものすは其の二つの綱の間で紡がれるのだ。
『此の目的の為めに、じよらうぐもは、既に出来上つてゐる綱の一方の端から自分の体を垂直に落して、糸嚢から洩れ出す糸でぶら下る。蜘蛛はすぐに低い枝に届く。そして糸を其の枝にしつかりとくつつけて、降りて来る時に使つたたての糸を伝つて、橋まで昇つて行く。それから蜘蛛は、やはり糸を紡ぎながら、しかしその新しい糸を、大綱にひつつけることはしないで、向ふ岸に着く。着くと蜘蛛はまた自分の体を便宜のいゝ枝まで辷り落して、其処に向ふ側から此方まで道々紡いで来た糸の端をくつつける。此の二度目の大事な骨組みの一部も新しい糸の添加に従つて一つの大綱になる。遂に二つの平行した大綱は、それ/″\の端を自ら枝に結びつけてめい/\の方向から、出て来た沢山の糸でしつかりと出来上る。そして一つの綱から他の綱へと出てゐる他の糸は、その組み立ての真中に、綱の間に、大きなぼ円形の空間を残して、網をつくる予定をきめる。
『此処までで、じよらうぐもは、其の建築のざつとした、しかし確つかりとしたその骨組みだけを組立て終つたのだ。さてこれからは綺麗な精密な仕事だ。網を紡がねばならないのだ。様々な骨組の糸が残しておいた円い空間を横ぎつて、先づ第一の糸が張られる。じよらうぐもはその糸の真中を自分の居場所にする。それは蛛網が出来るとその中央になる処だ。此の中央から、無数の糸が出てその端を周囲にしつかりとくつつける。その距離が殆んどどれがどうとも云へない程おなじやうに出てゐなければならない。それを放射線と云ふのだ。じよらうぐもはそれに従つて、中央に糸を膠付にかわづけにする。そして、既に張つた横糸によつて昇つて行つて、その糸の端を円周まわりにくつつける。それがすむと、たつた今引つぱつたその線によつて中央に帰つて来る。其処で又第二の糸を膠着にかわづけさせて、直ちにまた円周まで行きついて、第一の糸から少し隔つた処に第二の糸の端をくつつける。さう云ふ風に、中央から円周に、円周からたつた今張つたばかりの糸を伝つては中央へと代り代りにやつて行つて、蜘蛛はお前達が専門家の手で定規とコンパスで描いたのだと云ふだらう程正確な間隔をおいた放射線で、円形の空間をうめてしまふのだ。
『放射線はすんだ。が、蜘蛛にはすべての仕事の中で一番細かい仕事が残つてゐるのだ。そのめい/\の線に糸で区切りをつくらねばならない。それは円く囲んだ線から始まつて、螺旋形の線を描いてまはりながら中心のまはりまで行つて其処で終る。じよらうぐもは、蛛網の一番頂上から出て、糸を巻きほぐしながら一つの放射線から他のへと、絶えず外側の糸との間隔を保ちながら張つて行く。斯うして、先の糸から同じ間隔の処を絶えずまはりながら、蜘蛛は放射線の中心で其の仕事をおしまひにする。網をつくる仕事はそれで済んだのだ。
『だが猶、蜘蛛はもう一つ小さな隠れ家を用意しなければならない。それは、其処からじよらうぐもが自分の蛛網を見透しの出来る処で、昼間の暑さや、夜の冷気を遮る休息所だ。蜘蛛は、葉の密集した小さな束の中に、絹の巣窟そうくつをつくる。小さな漏斗形の精巧な織物だ。それは蜘蛛のふだんの住居だ。もし、天気が上等で、沢山の獲物がかゝりさうだと、殊に朝と晩は、じよらうぐもは、其の巣窟を出て蛛網の真中に、ぢつと其の体を置く。そして、一層近くで見張りをし、かゝつた獲物が逃げない前に、十分速く走つて行く。蜘蛛が網の真中にゐる時には其の八本の肢を十分に張り拡げてゐる。そして少しも動かないで死んだふりをしてゐる。狩人でなくても、見張りにはそんな辛抱が要るのだ。吾々も其のお手本にならつて、次ぎの勝負を待たう。』
 子供達は失望しました。丁度其の時お話が大変面白くなつて来た処で、叔父さんはその話の腰を折つたのです。
じよらうぐもの話は僕には大変面白いのですよ叔父さん』とジユウルが云ひました。『流れの上に架ける橋も、蛛網の規則正しい放射線も、その糸が螺旋形にまはりながら間隔をとつて中心まで続いてゆくのも、それから隠れたり休んだりする為めの室も、みんな本当に驚く事ばかりです。活きものはそんなえらい事を教はらずに知つてゐるんですねえ。そして、その獲物をつかまへる時には、まだもつと珍らしい事があるでせうね。』
『さうだ、大変に面白い事があるよ。だから、叔父さんはお前達に、それを話して聞かす事よりは、その本当の事を見せる方を択んだのだ。昨日田圃を通る時に私はじよらうぐもが、あのきれいな川鰕かわえびのとれる小さい流れの上の二本の木の間に蛛網を掛けてゐるのを見たのだ。明日の朝は、皆んなで早起きをして其処に行つて猟を見よう。』

二八 猟


 ポオル叔父さんは、『みんな早起きをしよう』と云ひました。が、誰も起されませんでした。いつもよりは少し早く起きて、じよらうぐもの狩を見にゆきました。七時頃朝日が輝き出すのとおなじ位に、みんなは流れの縁にゐました。蛛網は出来上つてゐました。そして其の糸に露の珠がかゝつてゐて真珠のやうに輝いてゐました。で、蜘蛛はまだ網の真中にはゐませんでした。それは確かに其の部屋から降りて来る前に、太陽の光りで、朝の湿気が散るのを待つてゐるのでした。一行は、朝の御飯を食べる為めに草の上に腰を下ろしました。其処は蛛網の大綱がくつついてゐるはんの木の直ぐ根元でした。青い※(「虫+良」、第3水準1-91-57)とうすみとんぼ藺草いぐさの叢の間を彼方此方と飛びまはつて、それ/″\に猟の最中でした。気をつけろ、そそつかしやの奴! お前はどうして蛛網の上を越すか、下をくゞるかしてその網を避けるか知らないのか! アツ! 生贄の為めに悪い事が出来た。一つの奴が、仲間の奴とふざけてゐる。一つの方はどう見ても網のそばに行かなくちやならない。一匹の蜻蛉が網にかゝつた。一方の自由な方の翅で、逃げようとして闘つてゐる。蛛網が動く。が、そのゆるぎにも拘はらず、大綱はしつかりしてゐる。そして網にかゝつた大事なものが、動くので、居室いまにゐるじよらうぐもは其処に続いてゐる糸の揺れで、注意される。蜘蛛は急いで降りて来た。が、捕へ損つた。蜻蛉は其の翅の必死の打撃で、体を網から離して逃げて行つた。そして蛛網には大きな穴があいた。
『やあ! うまく逃げたなあ!』ジユウルが叫びました。『もう少しであの可愛想な蜻蛉は命をとられる処だつた。見たかいエミル、蜘蛛が網の動くので獲物のかゝつた事を知つた時にかくれ場所から飛び出して来るのを。何んて早いんだらう? だけども、此のはじめの狩は駄目だ。獲物は逃げてしまふし、網も破れてしまつた。』
『さうだ。だが蜘蛛はその破れを手入れするよ。』と叔父さんは、ジユウルを安心させました。
 そして、本当に蜘蛛はすでに、その不幸を回復しました。じよらうぐもは破れた網を、非常に器用に、新らしくつくり更へました。つくろひかゞりは済みました。いたんだ所はやつと見つかる位です。蜘蛛は、今度は明かに、猟の大事の機会をのがさないように、そして出来るだけ早く獲物につかみかゝつて、また失敗する事のないやうに、一番の得策として、蛛網の真中に陣取ります。円の中に八本の肢を拡げて、蛛網の何の点から来るどんな軽い動揺でも分るように、全く動かずにぢつとして待つてゐます。
 蜻蛉共は、ひつきりなしに彼方此方することを続けてゐます。けれども一つも捕まりません。たつた今の驚きが、蜻蛉共を用心深くしたのです。オヤ! オヤ! あんなにそそつかしく飛んで来て網に頭をブツけたのは何んでせう? はな蜂です。あの全身が黒ビロオドのやうで腹の紅い、あのはな蜂が捕つたのです。じよらうぐもが走つてゆきました。けれども、捕虜は元気のいゝ強い奴です。そしてきつとすでせう。蜘蛛はそれを勘づきます。で、自分の糸嚢から糸をひき出して、大急ぎで蜂の上に糸をひつぱりまはします。第二の糸、第三、第四とすぐに捕虜の死ものぐるいの骨折りに打ち勝つてしまひます。で、今蜂は締められてゐますけれど、十分活きてゐるのです。そしておどしてゐます。それを掴むのは蜘蛛の命をあぶなくする大変な不注意な事です。蜘蛛はどうして此の危険な生餌いきえを少しもおそれないでゐられるのでせう? 蜘蛛は鋭い尖つた二本の牙をその頭の下に折り込んで待つてゐます。それは、その尖端の穴を通してほんの少しの毒の滴りを流すやうになつてゐて、これが、蜘蛛の狩りの武器なのです。じよらうぐもは用心深く近づいて行きます。そしてその牙を開いて蜂を螫します。そして直ぐに傍によけます。そのすべては一瞬間にすみます。毒は忽ちにその働きを表はして、蜂は震えます。そしてその肢はこはゞります。蜂は死んだのです。蜘蛛はそれを自分の絹の隠れ部屋に持ち込んで、ゆつくりと、しやぶるのです。蜘蛛はいつも、その皮を残すのですが、その蛛網を屍骸でよごして、あとでの勝負のときに獲物を驚かさないように、その住居から遠くの方へそれを放つて、何にも残さないようにします。
『馬鹿に早くやつちまつたなあ』とジユウルは不平さうに云ひました。『僕は蜘蛛の毒のある牙なんて見られなかつた。だけどもう少し待つて、他のはな蜂が来てひつかゝつたら、其の時にはもつとよく見よう。』
『そんなら、別に待つことはないよ』とポオル叔父さんが答へました。『もし、吾々が本当に上手に、蜘蛛にもう一度その狩りの方法を繰り返してやらせるだんどりをつけてやる事が出来さへすればいゝのだ。みんなよく注意して見るんだよ。』
 ポオル叔父さんはちよつとの間野原の花の中をさがして、一匹の大きな蠅を捉へました。そして一方の翅を持つて、蛛網のすぐそばではなしました。蠅はすぐにそれにブツかつて糸に絡まりました。蛛網はゆれます。蜘蛛は蜂を残しておいて、自分の餌がまた、そんなにも早くかゝつたその仕合せな機会をよろこんで走つて来ました。そして同じ手段がまた繰り返されました。蠅は最初に締められました。じよらうぐもはその尖つた牙を開いて蠅を一寸螫します。それでおしまひです。その生贄は震へて、自分の体を伸ばします。そして動くのが止みます。
『アツ! 見えましたよ』とジユウルが満足して云ひました。
『クレエル、あの蜘蛛の鋭い牙をよく見て?』とエミルが尋ねました。『僕きつとあなたの針箱の中にだつてあんなによく尖つた針はないだらうと思ひますよ。』
『私はさうは思ひません。私が一等おどろいたのは、蜘蛛の牙の鋭いことぢやなくつて、蠅の死に方の早いと云ふ事ですわ。私には此の位の大きさの蠅の何処かを一ヶ所私達の持つ針で、ちよつと突き刺したつて、そんなに早く死ぬとは思へませんわ。』
『全くだ』と叔父さんが同意しました。『昆虫はピンで突き刺したつて長い間生きてゐる。けれども若しそれが鋭く尖つた蜘蛛の牙の一と突きであれば、殆んど直ぐに死ぬ。それは蜘蛛が、毒をもつて武器としてゐるからだ。その牙が毒なのだ。蜘蛛はほんの一寸の間に孔を穿けて、虫が絹の材料の液をつくるやうにしてつくつた毒液の、やつと見える位の僅かの滴りをその管から流し込むのだ。その毒液は牙の内部にある、細長い袋の中に貯へて持つてゐるのだ。蜘蛛が其の生餌を突いた時に、その傷から毒液がはいつて行く、するとその傷ついた虫は忽ち死んでしまふのだ。その生贄は、たゞ刺されただけの事で死ぬのではなくつて、その傷に注射された毒の恐ろしい働きで死ぬのだ。』
 ポオル叔父さんは此処で、子供達にもつとよくその毒を持つた牙を見せる為めに、じよらうぐもをその指先きでつまみとりました。クレエルは恐がつて叫び出しました。けれども叔父さんは直ぐにクレエルを落ちつかせました。
『心配することはないよ。此の毒は蠅を殺す事は出来るが、叔父さんの硬い皮膚を刺すことは出来やしないよ。』
 そして叔父さんはピンでもつて、その活きものゝ牙をあけて、それを子供達に詳しく見せてやりました。子供達はすつかり安心しました。
『お前達は驚きすぎないやうにしなくちやいけないよ』とポオル叔父さんは続けました。『はな蜂や、蠅の死ぬのがあんなに早いので、蜘蛛が人間にだつて同じやうにおそろしい活きものゝやうに思つてはいけない。あの牙で人間の皮膚をきとほす事はまあ出来ないといつてもいゝ位六かしい事だ。大胆な研究者達は、自分達を我が国のいろんな蜘蛛に刺させた。けれどもその結果は、蚊に螫されて赤くなるやうに、赤くなるだけで、それよりも心配な結果は何んにもなかつた。同時に人は弱い皮膚を痛めないやうに、いろんな注意をしなければならない。吾々が胡蜂こばちに螫されるのを避けるのも、法外な驚きをまぬかれさせる。それは非常に痛むのだ。で、その虫を見ると直ぐ、蜘蛛の牙を避けるのと同じ方法で避ければ、大声を出して泣かないでもすむのだ。その毒を持つた昆虫の話を続けよう。だが、それはあとでの事だ。さあ帰らう。』

二九 毒虫


『お前達が聞いて知つてゐる、或る毒を出す活きものといふのは、それに近づくと、離れてゐても、顔や手に、ひどい力を持つた液を放つて、殺すか、或は少くとも眼があかないやうにするか、もつと他をいためるかするのだね。先週ジユウルは、薯の苗の葉の上で、曲つた角で武装した一匹の大きな虫を見つけたね。』
『僕覚えてますよ、えゝ』ジユウルが云ひ出しました。『その虫は、叔父さんが僕に話して下さいましたね、それはスフインクス・アトロポスと云ふ立派な蝶になるんだつて。その蝶は、私の手のやうに大きくて、その背中に白い点があつて、それが髑髏どくろにちよつと似てゐるといふので沢山の人に恐がられてゐるのです。そして又、その眼は黒く光つてゐます。叔父さんはその時その活きものは害にはならないので、恐がるのだつて理窟にあはない恐がり方だつて附加へて云ひましたね。』
『ジヤツクが薯の雑草をとつてゐたね。』とポオル叔父さんが続けました。『その虫はジヤツクの手で叩きおとされて、そしてその大きな木靴で、すぐに踏みつぶされたね、「なんて険呑な事をなさるんです。」とあの人のいゝジヤツクが云つたね。「此の毒のある虫を手でいぢるなんて! 此の緑色の毒を御覧なさい。近よつちやいけません、まだすつかり死んでゐませんから毒をかけますよ。」立派な研究をする人達が、その圧しつぶされた虫の青い内臓を取つて試して見た。それ等の内臓には何の毒も含んではゐなかつた。その内臓がどうして青いかと云ふと、それは、虫がたべてゐた葉つぱの汁の為めなんだ。
『大抵の人はジヤツクと同じやうな意見でゐる。その人達はみんな虫の内臓の青いのをおそれてゐるのだ。そして或る活きものゝ毒は、何んでもそれにふれさへすれば毒を浴びせると思つてゐるのだ。いゝかい、お前達はそのお前の心の中にある大事なものゝ為めに、そんな馬鹿気たおそれにつかまらないやうにしつかりしなくちやいけない。そして同時に、本当の危険に対してはちやんと自分の身をまもらなければならない。遠くの方から毒を放つて吾々を害することの出来るものは、動物のどんな種類にでも、絶対にないのだ。それは、本当に毒をもつてゐるものとして十分に知られてゐるものが、ちやんと証拠立てゝゐるのだ。毒を武器として与へられてゐる大小さま/″\の活きものも、その武器は、その餌になる奴を襲ふ時か、防禦かの二つに使ふだけだ。蜂は吾々の一番よく知つてゐる毒を持つた活きものだ。』
『何ですつて!』エミルが叫びました。『蜂に毒があるんですつて、あの私達に蜜をつくつてくれるあの蜂に?』
『さうだ、あの蜂だ。お前はお前がおとなしくしてゐる時にアムブロアジヌお婆あさんがつくつてくれるあのお菓子の蜜を持つてゐるあの蜂も、のけものにするわけにはゆかない。お前は、蜂に螫されて、あんなに泣いた時の事を考へる事は出来ないかい?』
 エミルは叔父さんがつまらない記憶を呼び返しましたので顔を赤くして羞しがりました。エミルは、全くの不注意から、或る日蜂が何をしてゐるか見にゆきました。そして巣箱の小さな扉に棒をつつ込みました。蜂は此の無分別なやり方に怒つて来ました。で、エミルは頬や手を三つも四つも螫されたのです。エミルは大変悲しさうに泣き出しました。叔父さんはそれを慰めてやるのに大骨折りをしました。冷たい水でひやして、やう/\エミルのピリ/\する痛みは鎮まりました。
『蜂には毒がある』とポオル叔父さんは繰り返しました。『エミルお前の螫された話をして御覧。』
『胡蜂もやつぱりさうですか?』とジユウルがたづねました。『いつか僕が、葡萄の房から追つぱらはうとした時に、僕を一つ螫しましたよ。僕何にも云ひはしませんけれど、やつぱり大変不愉快でしたよ。それを考へると、ほんのちよつとした何かが、あんなに傷つけるのですねえ! 僕の手は丁度火であぶつたやうになりましたよ。』
『確かにさうだ。胡蜂には毒があるのだ。蜜蜂よりももつとある。そしてその螫す感じでもずつと痛いよ。はな蜂もやはりさうだ。大黄蜂おおきばちも同様だ。それ等の大きな赤ばんだ蜂は、一インチ位の長さがあつて、その蜂共は時としては果樹園の梨をむ事がある。お前達は一般に此の大黄蜂に気をつけなければならないのだ。その蜂から一つ螫されると、たつた一つでお前達は長い間おそろしい痛みを受けるのだ。
『すべてそれ等の昆虫の持つてゐる毒の武器は、彼等の防禦の為めに、同じ方法でつくられたものだ。それを螫毛さしけと云ふ。それは小さくて、堅くて、そして非常に尖つた刃ものだ。それは鋭い針よりももつと鋭い懐剣の一種だ。その螫毛は、その虫の胃袋の端についてゐる。静かに休んでゐる時には、それは見えない。胃袋の中にはいつてゐる鞘の中に隠してあるのだ。自分をまもる時には、その鞘から引き出して、その尖を、無遠慮な指に突つ込むのだ。
『お前達がよく知つてゐるあのピリ/\痛む原因は決して螫された時に出来た傷の為ではないのだ。その傷といふのは、極く軽いもので吾々は見る事も出来やしない。我々は、針でか、鋭い刺をさして出来た傷を感じる位にやつと感じる位だ。しかし、その螫毛は虫の体の中にしまつてある毒のふくろに通じてゐて、その中にとほつてゐる管からその恐ろしい毒液の滴りを傷の中に注ぎ込むのだ。そしてそれから螫毛を引き抜くのだ。その毒はそのまゝその傷の中に停まつてゐる。たゞそれだけなんだ。そしてその毒が痛みを放つのだ。エミルには、その痛いことの話が出来るだらう。』
 ポオル叔父さんの此の二度目の攻撃に合つてエミルは、自分が蜂を不注意に扱つて怒られた事から起きた其の災難の事に気を取られました。そしてエミルは鼻汁をかみました。それは彼れの照れかくしだつたのです。叔父さんは、別にそれに気をつけるやうな風もなしに続けました。
『学者達の研究は、此のおもしろい問題を解いた。それは、虫に螫されて痛むのは、その傷の為めではなくつて、傷の中につぎ込まれる毒液の為めだと云ふ事を明かにする実験で説明したのだ。自分で非常に鋭い針で自分の何処かを突いた時にでも、そのいたみは、極く軽くて、すぐに去つてしまふ。クレエルは裁縫をしてゐて、針で指をついてもさう驚かないと思ふが、何うだい?』
『いゝえ』とクレエルは答へました。『ぢきになをりますわ、血が出たつて何んともありはしませんわ。』
『よろしい、その針でついたのは何んでもない。けれども、小さな傷でひどく痛むのは蜜蜂や胡蜂の毒を螫されたからなのだ。学者達は、私がお前達に話した、蜂の体の中の毒の袋の中に針の尖きをつけて、その毒液で湿つた針の先きで、自分達の体を軽く螫すのだ。痛みは直ぐにはげしくなる。そして、実験者が本物の蜂にさゝれたのよりは、もつとずつと永い間その痛みが続く、その痛みが増すのは当然の事なんだ。それは比較的大きな針が傷の中に導く毒は、蜂の細い螫毛が導くのよりも多い訳だ。分つたかね。傷の中に毒を導くと云ふ事が、すべてのなんぎの原因なんだ。』
『それは分りました。』とジユウルが云ひました。『ですけれど叔父さん、其の学者達は蜂の毒につけた針で自分を突ついて、それで喜こんでゐるんですか? ずゐぶん妙な道楽だなあ、なんでもない事に自分が痛い目にあふなんて。』
『ハラムウスカアム氏が何んでもない事の為めにそんな事をしたつて? 今、私がお前達に話した事をお前は何んでもない事のやうに思ふのかい? 私がそれを知つてゐるのは、他に、私に教へてくれた人達があるからなのぢやあるまいか? その他の人達と云ふのは誰だらう? その人達は勇敢な研究者で、いろんな学問をして、いろんな調べものや研究をして、吾々のいろんな事に対する難儀を緩和してくれるのだ。その人達が、毒で自分の体を刺す時には、其の研究の為めに、その体を危険に曝すのだ。そして、その毒の働きや、その抵抗の結果を私達に教へるのだ。それは時によつては、非常に恐ろしい事だ。まむしさそりに刺されゝば、吾々の生命はあぶないのだ。そして、一番重要な事は、毒がどういふ風に働くか、そして其の害をおさへるのにはどうしなければならないかを完全に知る事なんだ。それから、其の学者達の研究が鑑定されるのだ。研究はジユウルの考のやうにまるで妙な道楽のやうなものだ。科学は、冒すことの出来ない熟練を持つてゐる。それは、吾々の知識の範囲を拡げ、人間の損害を少くする、どんな試みからも決してしりごみはしないのだ。』
 ジユウルは、自分の生憎なまいきな批評で恥入つて、頭を下げて、何にも云へませんでした。ポオル叔父さんは怒つてゐました。けれど、すぐ何んでもなくなりました。そして、毒をもつた活きものの説明を続けました。

三〇 毒


『すべての毒を持つた活きものは、蜜蜂や、胡蜂や、大黄蜂とおなじやうな方法で働く。其の種に従つて或時は体の一部分に、或時は他に持つてゐる――針や、牙や、螫毛や、刃針の――特別な武器で、毒液を滲み込ます傷をつける。その武器は、毒液の為めの道をひらく事よりほかに働きはないのだ。そして、それが害の原因なのだ。毒が吾々のからだに働くのには、吾々の血と出遇はねばならない。その傷はその為めにあけた道なのだ。しかし其の毒は、其処が大した傷でなければ、一寸した傷ならば、吾々の皮膚には、確かに何んの働きも出来ない。それはすぐに肉につきとほされて血とまじつてしまふのだ。一番恐ろしい毒でも、もし皮膚が破れさへしなければ危険はないのだ。尚其の上に出来れば、唇や舌で吸ひとつて悪い結果にならないやうにするのだ。大黄蜂の毒は唇に持つてゆけば、水よりももつと効果がなくなるのだ。しかし、もし唇に一寸した疵でもあれば、その痛みは猛烈だ。蝮の毒もやはり同じやうに、それが血と混らない限り害はない。大胆な実験者はそれを呑んで試めして見たが、それを呑まない前よりは呑んでから悪くなつたといふ事はまだないのだ。』
『それは本当ですの、叔父さん? 蝮の毒を呑むなんてそんな大胆な人があるのですか? まあ! 私なんかはとてもそんな勇敢な事は出来ませんわ』とクレエルが云ひ出しました。
『結構だ、クレエルや、それは他の人達が吾々の為めにしてくれる。そして吾々は其の人達の恩はありがたく思はなければならない。その人達が、吾々に教へてくれたやりかたは、お前達にも分るだらうが、不意の出来事の場合にする仕事の中で、一番効目ききめのある、そして一番速い方法なのだ。』
『その蝮の、手や唇や舌の上で別に何んともない毒が、血に混じると、ひどく恐ろしいものなんですか?』
『それは恐ろしいものなんだよ、丁度私はそれについてお前達に話す処だつたんだ。或る不注意な人が、日向に寝てゐる恐ろしい蝮をおどろかしたと想像する。其の活きものは忽ち巻いたとぐろを開いて頭を持ちあげ一方では不意にはね返つてそれを巻きほぐして、半ば開いた顎でお前の手を撃つのだ。それは一瞬間でおしまひになる。そして同じ速さで、蝮は、その渦巻きを巻き起して、それを回復すると、続いてとぐろの真中のその頭でお前達を嚇かすのだ。お前達は其の二度目の襲撃を待つてはいけない。逃げるのだ。しかしあゝ! もう傷はついたのだ。傷ついた手には、二つの小さな赤い点が見えてゐる。大抵はほんの一寸針でついた程の微かなものだ。もしお前達が、私がこんなに一心にお前達に教へようとする事を知らなかつたら、お前達はそれを大して驚かないだらう。見かけは何んでもないのだ! 見る間にその赤い点は鉛色の輪で隈取られてくる。鈍い痛みと共に手が腫れる。そしてその腫れはだん/\に腕に拡がる。すぐに冷たい汗と嘔気はきけが来る。呼吸困難になり、視力が衰へ、知覚を失ひ、一般に黄色く見えるやうになる。そしてひきつける。もし時を遅らさずに助ける事が出来なければ、死んでしまふのだ。』
『叔父さんは私共をぞつとさせますよ。』とジユウルが身震ひをしながら云ひました。『私達がもし叔父さんから離れた、家から離れた処で、そんな不幸に出遇つたとしたら、其の情ない傷をどうしたらいいのでせう? 人が云つてゐますよ、あの丘のそばの下生したばえの中には蝮がゐるつて。』
『そんな険呑な機会からは神様が護つて下さるよ坊や! だが、もしお前にそんな事が起つたら、お前は指でも、手でも、腕でも、その傷のそばをしつかりと縛つて、血の中に毒が拡がるのを防がなければならない。傷をつくつて、そのまはりを圧し絞つて血を出さなければならない。それからその毒液を絞り取るのにそれを強く吸はなければならない。私はお前に、毒は皮膚には効果がないと話したね。それを吸ふにも、もし口に何のかすりきずもなければ、害はないのだ。もし強く吸ひ出す事や、絞る事で血を出すと云ふ事がお前に分れば、お前はその傷からすべての毒を絞り出すことに成功したのだ。それからは、その傷だけならば大した事ではない。もつとまちがひのないやうにするには、出来るだけ早くその傷を、硝酸かアムモニアかのやうな腐蝕薬か、或は真赤に焼いた鉄かで灼く。焼灼しょうしゃくと云ふ方法は、毒物を殺す効目があるのだ。それは痛い、と云ふ事は私も認める。が、誰でも一層悪くなるのを防ぐ為めには、それに従はなければならない。焼灼はお医者さんの仕事だ。真先きにやる予備手当は、毒が拡がらないやうにしばつて、傷を絞つて毒のはいつた血を出すこと、その毒を強く吸つて出してしまふ事で、それは自分で直接にやる仕事だ。それはみんな即刻すぐにやらなければならない。それを長く放つておくと、もう取り返しのつかない事になる。さういふ手当てを、十分に早くやつた時にでも、たまには、その蝮に咬まれた結果は悪くなる事がある。』
『僕安心しましたよ叔父さん、その予備手当は、誰でも、もし狼狽うろたへさへしなければ六ヶしい事ぢやありませんね。』
『それから、吾々は、危険に遇つた時には、時を外づさずに、自分の知つてゐる理窟を応用する習慣をつけると云ふ事は、大変大事な事だ。そして、不意の怖れに圧倒されてはいけない。人は何時でも、ちやんと自分の心を落ちつかせてゐなくてはいけない。半分しか心が落ちつかないと危険だ。』

三一 蝮と蠍


『今ね、叔父さんが』とエミルが云ひ出しました。『蝮が螫すと云はないで、咬むと云ひましたね。では蛇は螫さないで咬むのですね。僕はまた他の方法かと思つてゐましたよ。僕はいつも蛇は螫すのだと聞いてゐました。此の前の木曜日に、びつこのルイね、あの男は何んにも恐れませんね。あのルイが古い壁の穴の中で蛇を捕へたんです。ルイは二人仲間を連れてゐました。みんなはその蛇の首のまはりをいぐさでもつてくびつてゐるのです。僕が通りかゝると、皆なが呼んだんです。蛇はその口から、黒くて、尖つた、軟かいやうな変なものを飛び出さしてゐました。それは大急ぎで出したり入れたりしてゐるのです。僕、それが螫すのだらうと思つたんです。そして大変恐かつたんです。ルイは笑つて、僕が螫すものだと思つてゐたそれを、蛇の舌だと云つて、自分の手をそのそばにもつて行つて僕に見せましたよ。』
『ルイの云つたのは本当だよ』とポオル叔父さんが答へました。蛇はみんな非常に軟かいけ目のある、黒い線を唇の間から非常に速く飛び出さしてゐる。それは、蛇がいろんな目的の為めに持つてゐる武器だ。けれども、その線は、実際に何んでもない、舌なんだ。全く何んの害もない舌なんだ。それは蛇が虫を捉へるのに使ふのと、何かの激情を表はすのに、唇の間からそれを急いで出したり入れたりする特別な習慣を表はすのに使ふ。どんな蛇も、何かの例外でないものを一つは持つてゐる。しかし、吾々の国では蝮が恐ろしい毒の装置をたゞ一つ持つてゐるだけだ。
『此の装置の組織は、第一に、二つの鈎か或は歯だ。長くて尖つてゐて、上顎についてゐる。蛇が勝手に獲物を襲ふために真直ぐに立つたり、或はゴムの敷居のやうに寝たり、自分の住居にゐるときには、害のないやうに、その小剣は鞘の中にはいつてゐる。蛇が走つてゐる途中では傷つけられる危険はない。その牙には孔があつて、その尖の方に向つて小さく貫き通つてゐる。それは、傷の中に毒を注入する孔なのだ。最後に別の牙の底に毒液で一杯になつた小さな嚢がある。その毒は、何んでもないやうに見える液体で、臭ひもなければ、味もない。誰でも大抵はそれをたゞの水だと思ふだらう。蝮が、其の牙でかゝつて来る時には、毒の嚢はその中にある毒液を歯の穴の中に出す。そしてその恐ろしい液体は傷の中に滲み込むのだ。
『蝮が選んで住むのは暖かで、岩の多い丘で、其処の石の下とあつく茂つた下生の中にゐる。その色は赤ちやけてゐるか、褐色かだ。背中にはくすんだギザ/\の線があつて其の両側には斑点の列がある。腹の方は瓦のやうな灰色だ。その頭は小さな三角形で、その首よりは大きく、少し鈍い角度で丁度前を切り取つたようになつてゐる。蝮は臆病で物怯ぢする。蝮が人を襲のはたゞ自分を護る時だけだ。その動作は荒つぽくて、不規則で、そして鈍い。
『吾々の国でのその外の一般の蛇は、蝮のやうな毒のある牙は持つてゐない。その蛇に咬まれたのは、大した事はない。そしてその蛇に嫌悪を感ずるのは全く根拠のない事だ。
『蝮の次ぎにはフランスでは蠍より恐れられてゐる毒虫はない。それは非常に醜いもので、八本の肢で歩く。そして前の方に鰕の鋏のやうな二つの鋏を持つてゐて、背中は節だらけで、うねつた尾の端にけんがある。鋏は、つまらない嚇し道具で、害にはならない。それは、尾の端の螫で武装してゐるのだ。そしてその螫に毒があるのだ。蠍は其の螫を、自衛の為めや、自分で食べる虫を殺すのに使ふ。フランスの南部の方で、二つの違つた種類の蠍が発見された。一つは緑がかつた黒で、よく暗い、冷たい場所にゐる。そして家の内にさへもゐる。その隠れ場所を出て来るのは、夜だけだ。それは、ぬれた処を走つてゐる時と、壁を這つてわらじむしや蜘蛛等の、きまりどほりの生餌をさがしてゐる時に見る事が出来たのだ。もう一つの方は、大変大きくて蒼みがかつた黄色だ。それは暖い砂まじりの石の下に住んでゐる。黒い蠍の螫したのは、ひどい害はしない。黄色い蠍に刺されたのは生命にかゝはる。其のどちらかの虫が怒つた時には、その螫の端に小さな滴が真珠のやうになつて見える。それが襲撃の準備なのだ。それは毒のしたたりで、蠍はそれを傷の中に滲ますのだ。
『私が外国の毒虫についてお前達に話すことが出来たら、其処にはもつといろ/\重要なことがある。いろ/\な蛇に咬まれたのが恐ろしい死の原因になるやうな話がね。だが、アムブロアジヌお婆あさんが、食事だと云つて呼んでゐるやうだ。今私がお前達に話した事を急いで繰り返せば、それがどんな悪い虫でも離れた処から、吾々に害をしたり、毒を放たりする虫はゐない。すべての毒はおなじ方法で働く。その特別な武器で一寸した傷をつける。そしてその傷の中に毒液を導くのだ。その傷だけならばなんでもない。その中に注ぎ込まれた毒が、痛ますのだ。そして時としては生命までも奪るのだ。その毒のある武器は、その虫の狩りと自衛との役に立つのだ。その武器は、そのいろ/\な種によつて、体の或部分についてゐる。蜘蛛は一対の牙を口の入口に持つてゐる。蜜蜂、胡蜂、大黄蜂、はな蜂は、螫毛を胃袋の端に持つてゐて、休んでゐる時には、その鞘の中に隠してゐる。蝮とその他すべての毒蛇は、二つの長い、孔のあいた歯を上顎に持つてゐる。蠍は尾の端に螫を持つてゐる。』
『僕は大変残念です』とジユウルが云ひました。『それはジヤツクが、叔父さんの毒虫の説明を聞かなかつた事です。それを聞いたら、ジヤツクも、毒虫の緑色の内臓が毒でない事が分つたでせうに。僕はお爺さんにすつかり話してやらう。そしてもし今度僕あのきれいな青虫を見つけても踏みにぢらないやうにしよう。』

三二 蕁麻いらくさ


 食事の後で、叔父さんは栗の木の下で本を読んでゐました。その間子供達は庭で別々に離れて遊んでゐました。クレエルは截ちものをしてゐました。ジユウルは自分の花瓶に水を入れてゐました。エミルは――一寸めまいがしました。何が起つたのかと思ひましたが、災難はすぐ行つてしまひました。一匹の大きな蝶が石墻いしがきの下に生えてゐる葦の上を飛んでゐます。まあ、何んと云ふ立派な蝶でせう。その翅の上側は赤で、黒の縁がとつてあり、眼は青くて下側は褐色で波形の線があります。その蝶がとまりました。うまい。エミルは体を小さくして、手をのばして、爪先きでそつと近づきました。すぐに蝶はとんで行つてしまひました。が、その跡を追ひました。エミルは急いで手を引つこめました。何かに引掻かれて赤くなつてゐます。それはだん/\痛みが増して来て、悪くなつて来ました。エミルは叔父さんの処に走つて行きました。眼は涙で一杯になつてゐます。
『毒虫が僕を螫したんです!』エミルは泣きました。『叔父さん僕の手を見て! 痛むんです――ああ、何んて痛いんだらう! 蝮が僕を咬んだんです!。』
 蝮と云ふ言葉で、ポオル叔父さんはびつくりしました。叔父さんは立つてその手を見ました。叔父さんの口許に笑ひが浮びました。
『そんな事はないよ、坊や。此の庭の中には蝮はゐない。何んて馬鹿な事をしてゐたんだい? 何処にゐた?』
『僕、蝶の跡を追かけたんです。僕があの石墻の根の葦の上にゐたのを捉へるのに手を延ばしたら、何かが螫したんです。見て下さい!』
『何んでもないよエミル、泉水の冷たい水の中に手をつけて御覧、痛くないやうになるから。』
 十五分の後には、みんなはエミルの怪我の話をしてゐました。エミルはもうそのあやまちから回復してゐました。
『さあ、痛いのはなをつたらう。エミルお前は、何がお前を螫したか知りたくはないかい?』と叔父さんが尋ねました。
『えゝ、僕はたしかにそれを知らなければなりませんよ、今度はもう捉らないやうに。』
『よろしい。お前を刺したのは蕁麻と云ふ植物なんだよ。その葉も、茎も、一寸した枝も――無数の硬い、そしてうつろになつた刺で覆はれてゐる。そしてその刺には一ぱい毒がはいつてゐるのだ。その刺が人の皮膚をつきとほすと、その尖が破れて、その毒の硝子壜がらすびんの中味が傷に滲みるのだ。痛みはそれから来るのだ。けれども、それは危険な痛みではない。解るかい。蕁麻の刺は、毒虫の武器のやうな働きをするのだ。その皮膚に傷をつけるのはいつもその穴のある尖つた部分で、そこから毒液を傷の中に入れるのだ。そして、それがすべて痛みの原因なのだ。蕁麻といふのは、さう云ふ毒草だ。
『それからね、エミル、お前は綺麗な蝶を捉へようとしてうつかり蕁麻の茂つた中へ手を突つ込んだと云ふが、其の蝶は、ヴアネスサ・イオと云ふのだ。其の幼虫は、白い斑点ほしのある黒いビロオドのやうな虫だ。その虫もやはり硬い毛と針を持つてゐる。これは繭はつくらない。その蛹は金のやうに光つた帯で飾られてゐる。そしてその尾の端で宙にぶら下つてゐる。其の幼虫は蕁麻の上に住んで、その毒のある刺毛さしげがあるのもかまはずに、其の葉を食べるのだ。』
『毒のある草を食べてゐて、その幼虫はどうして毒を平気なんでせう?』とクレエルが尋ねました。
『お前はヴエノマスとポイゾナスとを混同している。ヴエノマスと云ふのの本質は、傷の中にそれを導くと蝮の毒のやうな風にそれが害の原因になるものなのだ。ポイゾナスの本質は、それが胃袋の中にはいれば死の原因になるかも知れないやうなのだ。劇薬はポイゾナスの方だから、もしそれを飲めば殺される。蝮の牙から流し出される液と蠍の螫はヴエノマスの方だから、それが血に混れば殺される。だが、それは飲んで殺される方の毒ではない。だからそれは平気で呑む事が出来る。それは蕁麻の毒と同じだ。アムブロアジヌお婆あさんは、蕁麻を刈つて家畜に食べさせるし、そしてヴアネスサの幼虫は何の危険もなしにその上にゐて、その葉を食べてゐる。その草はついさつきエミルを痛いので泣かせたんだがね。刺されて毒のある植物は、フランスでは蕁麻だけだ。だが、食べれば病気になつたり死にさへもする毒の植物は沢山ある。私は何時かお前達にその毒草の事をしつかりと教へなくちやならない。そんな毒に害されないやうにね。
『蕁麻の刺毛は私に毛虫の毛を思ひ出させる。幼虫の多くはむき出しの皮膚を持つてゐる。それは全く害のない奴だ。それはどんなに大きくても、背中の端に角を持つてゐても、何んの危険もなしに手にとる事が出来るのだ。それは蚕よりももつと恐れる事はない。だが別にその体中が硬い毛で、それは時によつて非常に鋭く逆立つて皮膚に刺さることが出来る。そしてその毛の残つた処は非常なゆさを感じたり、或は痛んで脹れ上つたりさへもする。それはよくビロオドのやうな幼虫とまちがへられる。その虫は、特に松の木や樫の木の上の、大きな絹の巣の中にかたまりになつて住んでゐる。その名前は行列虫と云ふのだ。

三三 行列虫


『私達はよく松の枝の先きに、松の葉を混ぜた、白い絹のかさばつた袋を見る事がある。その袋は、普通に尖の方がぶつと脹らんで、底の方が細くなつて梨のやうな格好をしてゐる。それは時には人間の頭ほどの大きさのがある。幼虫はその巣に固まつて住んでゐる。それは赤い毛で、ビロオドのやうな幼虫の一種類なのだ。その毛虫の一家族は一匹の蝶が生んだ卵から生れるので、一つの絹の住居を共同でつくるのだ。みんながその仕事の部分部分を受持つてゐて、みんなの利益の為めに、みんなが紡ぎ、みんなが織るのだ。その巣の内部は、うすい絹の仕切り壁で、沢山の区画に分れてゐる。大きい方の端に、時によつてはもつと別の処が、漏斗形に開いてゐるのが見える。それは大きな出入口なのだ。他の戸口は小さくて彼方此方に分れてゐる。毛虫は冬の間を此の巣の中で過し、天気の悪いのも此処で避ける。夏になると、夜と非常に暑い間だけを、其処にかくれる。
『昼間になるとすぐに毛虫は其処から出て松の木の上に散つて、其の葉を食べる。そして腹一杯たべたあとでまたその絹の住居にはいつて太陽の熱を避ける。さて、その毛虫が木の上に巣をつくつたり、或松の木から他のへ移つてゆく時に、地面を歩いたりして運動する時には、一列になつて進んでゆく。行列虫と云ふ名前は其処から出たものだ。何故かと云ふと、一匹のあとに他のが続くといふ風にして、立派な縦列をつくつて進んでゆくからだ。
『一匹が先頭に立つ――それは其処にゐる完全に平等な虫の中の一匹だ。そして、丁度遠征隊の先頭のやうに出発する。第二番目の虫は二つの間をあけないやうにつゞいてゆく。第三番目のも、二番目のと同じやうにして随ふ。ずつとさういふ風にして巣の中にゐる沢山の毛虫が続くのだ。その行列をつくつてゐる虫は数百を数へられる。さて、行列が始まる。一列の縦隊は、真直に行つたりうねり曲つたりしながら、それ/″\の虫が、前にゆく毛虫の尻尾に自分の頭をくつつけてついてゆくので、いつも続いてゆく。その行列は、右に左に絶えずいろ/\な変化のあるうねり方をして、地面におもしろい花輪のやうな模様を画いてゆく。いくつもの巣が近くに固まりあつてゐて、そしてその行列が出遇ふ時には、それは非常に興味のある観ものになる。その時には生きた花輪はお互ひに交叉する。そしてもつれたりほぐれたり、結ばつたり解けたりして、気まぐれなかたちをつくり出す。その不意の衝突も、混乱を導く事は出来ない。同じ列の毛虫はみんな一様に真面目な歩き方で列を進める。一匹も急いで、他のものよりは前に出る者はない。一匹も後れるものもない。一匹だつて行列をまちがへるのはない。その列はめい/\でまもられてゐ、その進行は先頭にたつた一匹が用心深く加減してゐる。その先頭に立つたのがその全体を指揮してゐるのだ。で、先頭の一匹が右の方へまはれば、その後に続いた同じ列の毛虫はみんな右へまはるし、左へまはれば、それにつゞく毛虫がみんな左へまはる。もし先頭が止まれば、全行列が止まる。が、一斉にではない。二番目が先づ止まり、それから三番目、四番目、五番目、と云ふ風にして最後までゆく。その列の最後まで命令が伝はつて縦列が止つたときには、よく訓練された兵隊と云ふ事が出来るだらう。
『その遠征は、たゞの散歩か、或は食物をさがしに行く旅行かなのだ。それがすむ。毛虫は自分の巣からずつと離れた処に行つてゐる。住居に帰る時になる。草叢や下生の中をぬけ、いろんな障碍を越えて通つて来た道を、どうして毛虫共は見つけ出すだらう? 毛虫は眼で見つけ出す事が出来るだらうか、小さい草叢が沢山あるのでとてもそんな事は出来さうもない。では嗅覚でさがし出すのだらうか、それはいろ/\な香がプンプンしてゐて間違ふかも知れないではないか? 否、否、そんな事ではない。行列虫は、視力よりも嗅覚よりももつといゝものを、その旅行の案内にする。其の虫共は、本能といふものを持つてゐる。其の本能は、彼等に間違ひのない手段を悟らせる。その仕事は、理屈でやつてゐるやうには見えても、彼等にはその理由を説明する事は出来ない。彼等に理窟がないと云ふ事は疑ひのない事だ。けれども、彼等はその生涯の間、自分の中にある永遠の理屈の神秘な衝動に従つてゐるのだ。
『さて、行列虫が、遠い処から、その住居に道を迷はないで帰つて来る事が出来るやうにするのは、その本能といふ神秘な衝動だ。吾々は、道に舗石しきいしを敷く。毛虫の往来はもつと贅沢だ。毛虫はその道に絹のカアペツトを張るのだ。虫共はその旅の間中糸を紡ぎつゞけて、その道にずつと絹を膠付けにする。行列をしてゐるどの毛虫もそれ/″\にその頭を上げたり下げたりしてゐるのが見える。その頭を下げてゐる時には、糸嚢は下唇の中に置いてあつて、行列につゞきながら道に糸を膠づけにしてゐるのだ。それから頭を上げてゐる時には、糸嚢は糸をすべり出させてゐて同時に虫はそれぞれに歩いてゐる。それから頭は低く下り、またあがる。第二の糸が長くなつて敷かれる。毛虫はそれぞれ、先に立つた一つが残した絹の上を歩いてついてゆきながら、自分の糸をその絹に加へて行く。さういふ風にして通つた道の長さだけをすつかり絹のリボンで敷いてしまふ。そのリボンの指揮どほりに、行列虫はどんなにまがりくねつてゐる道だらうが、少しも迷はずに、自分達の住居へ帰つてゆくのだ。
『もし、その行列の邪魔をしようと思へばその絹の道を切るやうに十分に指を渡してその跡をかくしてしまふ。行列は疑ひと恐れのいろいろな表示と一緒にその切れた処の手前で止まる。虫共は進むだらうか? 進まないだらうか? 虫は頭を上げたり下げたりして、期待した指揮者の糸を尋ねる。遂に、他の者よりは大胆な、或はずつと辛抱のない、一匹の虫が、悪い場所を横ぎつて、切られた一方の端から、他の端へとその糸を張る。二番目の虫は躊躇なく一番はじめの者が残した糸の上を渡つて行く。そしてその橋を渡りながら自分の糸を其処にくつつけてゆく。他の者もみんなおんなじやうにしてゆく。すぐにその破れた道は修繕が出来る。そしてその縦隊の行列は続けられる。
『樫の木の行列虫は他の方法で行進する。その虫は、白い毛で被はれてゐて、その毛は非常に長くて背中の方に向つてゐる。一つの巣の中には七百から八百までの虫を含んでゐる。遠征が決定した時には一匹の毛虫がまづ巣から出る。そして少し離れた処で休んで、他の虫が列をつくる時間を与へる。みんな、並んで一つの隊を形づくる。すると其の先頭の虫が進行をはじめる。他の者は自分の場所でそれに随つてゆく。が、そのならび方は、松の木の行列虫のやうに一匹のあとに他の一匹が続くと云ふのではなく、二列、三列、四列、或はもつと沢山ならぶ。全体は、すつかり、その列の指揮者に導かれるまゝに従順に動きはじめる。その指揮者はたゞいつもその軍隊の先頭に立つて進んでゐるだけだ。同時に他の毛虫共は、完全な列にする為めにその列を整へながら、それ/″\に平行して前進する。此の軍隊の最初の列は何時も楔形くさびがたに並んでゐる。そして列をつくつてゐる毛虫の数がだん/\にふえて来るので、その外の列は、幾分か拡がるやうになる。時としては十五列から二十列までの毛虫が、よく訓練された兵隊のやうに頭と頭をくつつけ合はせて、同じ歩みで行進してゐる。勿論その全隊が、歩いて来たとほりに、巣に帰る道を見失はないやうに絹を路に敷いて行く。
『行列虫は、特に此の樫の木の行列虫は、脱皮をしに、その巣の中に隠退する。そして、それ等の巣は最後には切れた毛の埃で一杯になる。その時にお前達がその巣に触ると、その毛の埃は、お前達の顔や手を刺してそれが炎症の原因になる。そしてもしその皮膚が軟かくて弱かつたらそれから幾日もの間なをらない。その行列虫が巣喰つてゐる樫の木の根本に立つただけでも、風に吹かれて来るその埃で刺される。そしてその刺されたあとは痛がゆさを感じる。』
『そんないやな毛を持つてゐる行列虫は、何んて可哀想な奴だらう!』とジユウルが叫びました。『もしそんなものを持つてゐなかつたら――』
『もしそれがなかつたら、ジユウルはその虫の行列を見るのが大好きだらう。心配はないよ、それは大してあぶないもんぢやない。そして、それは少し掻きさへすればいゝのだ。さて、私達はもう一度樫の木のよりはあぶなげの少い松の木の行列虫に気をつける事にしよう。昼間の暖い間に、松の木の森に行つて其の行列虫の巣を見る事にしよう。しかし、それは私とジユウルだけだ。クレエルとエミルには少し暑すぎるからね。』

三四 嵐


 ポオル叔父さんとジユウルが出発した時は本当に暑うございました。此の焼けるやうな太陽で、毛虫はきつとその絹の袋の中にはいつてゐるでせう。その虫にはギラ/\しすぎる光を避ける為めには、間違ひなくその隠家にはいるのです。時間が早いか遅いかだとその巣はからつぽで、その遠足は無駄になるかも知れないのです。
 ジユウルの胸は子供特有の飾り気のない歓びで一杯になつてゐました。そして行列虫とその行列にすつかり気をとられて、暑さも疲れも忘れて元気よく歩きました。彼は襟飾をとつて、そしてブラウズをぬいで肩にかけてゐました。生墻いけがきから叔父さんに切つて貰つた大事なステツキは、三番目の足といふ風に役に立つてゐました。
 そのうちに蟋蟀こおろぎの声が普通よりも騒々しくなりました。池の中では蛙が鳴いてゐました。蠅はくつついて来てうるさくなりました。時々微風が、矢庭に街道を吹き立てて埃を巻きあげました。ジユウルはそんな事には無頓着でしたが、叔父さんは気をつけてゐました。そして時々空を見上げてゐました。南の方に、かたまつた赤味がかつた曇りが、何か叔父さんの気がかりになつてゐるやうでした。『雨に合ひさうだよ』と叔父さんは云ひました。『急がう』
 三時少し前位に、二人は松の木の森につきました。ポオル叔父さんは、すばらしい巣のついた枝を切りました。叔父さんの察しはあたつてゐました。毛虫は多分その悪い天気を予覚してかみんなその住居に帰つてゐました。それから二人は松の木の茂り合つた蔭に腰を下しました。少し休んでから帰らうと云ふのです。自然に話は毛虫の事になりました。
『行列虫は』とジユウルが云ひました。『巣から出て、松の木ぢうに離れ/″\になつて其の葉を食べるんだつて叔父さんは話して下さいましたね。実際、沢山の枝が大方枯れて駄目になつてゐますね。ほら、あの松の木、僕の指してゐる――まるで火事にでも焼けたやうに、葉が半分むしられてゐるぢやありませんか。僕、行列虫の行列は好きだけど、あんな立派な木が、毛虫の歯であんなに荒らされてゐるのは可哀想だなあ。』
『もし此の松の木の持主がもつと考へのある人なら』とポオル叔父さんは答へました。『幼虫がその絹の袋の中に固まつてゐる冬の間にそれを集めて焼いてしまふだらう。その松の嫩枝を咬み、新芽を食つて木の育つのを妨げる悪い虫が繁殖しないやうに殺してしまふ為めにはさうするより仕方がない。私達の果樹園でもさういふ虫の害は非常なものだ。いろいろな毛虫が、果樹に住んでゐて、行列虫のやうに同じ方法で巣をつくるのだ。夏になると、飢ゑた虫は木一杯に散つて、葉や、芽や、嫩枝をめちやめちやにする。果樹園は僅かの間に坊主にされて、収穫は芽生の間に駄目にされてしまふ。だからそれを注意深く保護するにはその毛虫の巣を見つけ出して、春にならないうちに木から離して焼いてしまふ事が必要なのだ。さうすれば、その収穫はきつといゝに違ひない。幸にいろんな活きもの、特に小鳥が、此の毛虫と人間の間の必死の戦争に、人間の味方をしてくれる。でなければ、無限に数へられる、その数で人間よりも強い虫は、人間の収穫を荒しつくしてしまふだらう。だが其の小鳥の話は他の時にしよう。さあ行かなくつちや、大分怪しい天気だ。』
 南の方の赤みがかつた曇りは、刻々にあつく暗くなり、大きな真黒な雲になつて、見る見る空のきれいに晴れた処まで襲ふて来ました。風はそれに先立つて松の木の梢を、田圃の作物の先きを吹きまげるやうにまげました。そして、嵐の始まる前に乾いた大地から立つ埃のにほひが土から起きて来ました。
『もう帰りかけるのは見合はせだ』と叔父さんは注意して云ひました。『もうすぐに、嵐が此処まで来るよ。急いでけ場所を見つけよう。』
 遠くの方での雨は、晴れた空を横切る薄暗いカアテンに似てゐます。その水のカアテンは、競馬の馬が馳けるやうな大変な速度で拡がつて来ます。その雲はずん/\此方の方にやつて来ます。そしてたうとう来ました。激しい閃光がその雲を割つて光りました。そしてそれと一しよに轟々と云ふ音がしました。
 その何よりもひどい音にジユウルは縮みあがつてしまひました。『此処にゐませうよ叔父さん』と恐がつて云ひました。『此の大きな茂つた松の木の下にゐませう。此処なら雨もかゝりませんよ。』
『いけない』と叔父さんは答へました。叔父さんは、自分達が嵐の中心にゐるのだと云ふことを知つてゐました。『此の木はあぶない、他へ行かう。』
 そして、叔父さんはジユウルの手をとつて、自分が先きに立つて大粒のひょうのやうな雨の中を急ぎました。ポオル叔父さんは、此の森の向ふにある、岩の中に洞穴があるのを知つてゐました。二人が其処についた時には嵐は非常な力で荒れまはりました。
 二人は其処で十五分位だまつてその重々しい大荒れの有様を見てゐました。その時に、眩しい程光つた閃光がギザ/\の線になつて黒雲を破つて、山彦でも反響でもない恐ろしい爆音と一しよに一本の松の木を撃ちました。その爆音は空が落ちて来るかと思はれる程の激しい音でした。その恐ろしさに、ジユウルは膝に顔をつけて手をしつかりと握つてゐました。そして泣きながらお祈りをしてゐました。叔父さんは平気で落ちついてゐました。
『さあ元気をお出しジユウル』とポオル叔父さんはもう危険が去つたのを見るとすぐに云ひました。
『そしてお互ひに、無事だつたお礼を神様に申上げよう、私達は今大変な危険からのがれたのだ。あの雷は雨よけをしようとしたあの松の木に落ちたのだよ。』
『あゝ、僕はどんなに驚いたかしれませんよ叔父さん!』とジユウルは叫びました。『僕は死にはしないかと思ひました。叔父さんがあの雨に打たれながら急いで他へ行かうと無理におつしやつたとき、叔父さんはもうあの木に雷が落ちる事を知つてゐたのですか?』
『いやさうぢやない。私は何にも知らなかつた。誰れだつて知りはしない。たゞ、あるわけで、私はあの大きな松の木の近所が恐かつただけなんだ。そして用心が、もつと危険の少い場所をさがさせたのだ。もし私が恐がつて、本当に用心をしなかつたらどんな事になつたらう! あのあぶない瞬間に私を落ちつかせて下さつたのは、全く神様のおかげです。』
『どうして叔父さんが、あのあぶない木を避けたのか、それを話して下さるでせうね、叔父さん?』
『あゝいゝとも。だが、それは、みんなが一緒にゐる時にしよう。そのわけを知つておくのは誰れにも為めになる事だからね。誰でもあぶない事を知らなければ、嵐の中を木の下に走つて行つて避けるからね。誰れもそんな事のないやうにしなければならないだらう。』
 そのうちに、雨雲は、あの電光も雷も一緒に遠くへ行つてしまひました。そして一方では太陽が晴れやかに沈みかけてゐますし、もう一方の嵐が通つてゆく方の空には、きれいなアーチのやうな虹がかゝつてゐます。ポオル叔父さんとジユウルは、大事な価値のある名高い毛虫の巣を忘れずに、帰りかけました。

三五 電気


 ジユウルは、姉さんと弟に其の日の事を委しく話しました。そして雷の話の処になるとクレエルは木の葉のやうに震えました。『私だと驚いて死んだかもしれないのね』とクレエルは云ひました。『もしか私が其の松の木を電光いなびかりが撃つたのを見てゐたのならね。』それから深い好奇心が起つて来ました。みんなは、一緒に、叔父さんに雷の話をして下さるやうに頼むことを相談しました。そして其の次ぎの日に、ジユウル、エミル、クレエルの三人は、そのお話を聞くために叔父さんのそばに集まりました。そしてまづジユウルがその事について口を切りました。
『叔父さん、もう僕恐はくはありませんから、何故嵐の時に木の下に避けてはいけないのか、私達に話して下さいませんか? エミルも聞きたがつてゐるやうですから。』
『雷つて何んだか僕は誰よりか一等知りたいんです。』
『私だつて』とクレエルも云ひました。『私達に雷がどんなものかと云ふ事が少し分れば、木があぶないと云ふ事が大変楽にわかると思ひますわ。』
『全くだ』と叔父さんは賛成しました。『だが第一に私はお前達のうちの誰かに、雷と云ふものについてどんな事を知つてゐるか話して貰ひたいね。』
『僕まだずつとちいさかつた時に』エミルが話し出しました。『あの音をよく響ける金属で覆ふた円天井を大きな鉄の球をころがすので出る音だと思つてゐました。そして、もしか何処か其の円天井が破れると、その球が地面に落ちるそれが雷の落ちるのだと思つたのです。だけど、今はさうは思ひません。僕もう大きくなつたんですから。』
『大きくなつたつて――なんだい、叔父さんのチヨツキの一等したのボタン位の高さしかないぢやないか! それはお前の推理力が目醒めて来て、そんな鉄の球なんて簡単な説明ではもう納得する事が出来なくなつたと云ふものだ。』
 それから、クレエルが話しました。『私も以前私が考へてゐたやうな説明では腑に落ちないのです。私は、雷は古い鉄をどつさり載せた荷馬車だと思つてゐました。それがよく響ける円天井の頂上を転がるのです。時によると、その車輪の下から火花が散ります。それは馬の蹄鉄が石に当つた時に出るやうなのです。それが電光りでした。その円天井は滑つこくてその境目は崖です。もしか其の荷馬車がひつくりかへると、その積み荷の鉄が地面に落ちるんです。そして人や木や馬をつぶすんです。此の私の説明は、昨日のジユウルのお話ですつかりおかしくなつてしまひました。けれども、それ以上の事は今も分らないのです。私はまだ雷の事は全く何んにも知らないのですわ。』
『お前達の雷は二つとも、お前達に似合つた、子供らしい想像だが、それは両方とも同じ考へが基になつてゐる。それは、よく響ける円天井といふ考へだ。いゝかい、よく覚えてお置き。あの青い空の円天井は、たゞ私達を包んでゐる空気のせいであゝ見えるだけなのだ。あのきれいな青い色は空気があつく重なつてさう見えるのだ。私達のまはりには空気のあつい層があるだけで、円天井はない。そしてその空気の層の先きはあの星の群に近づくまでの間には何んにもないのだ。』
『私達は青い円天井と云ふ考へは捨てます』とジユウルが云ひました。『エミルもクレエルも僕も空には何んにもない事がよく分りました。それから、もつと何卒どうぞ。』
『もつとだ? これからがむづかしくなるのだ。お前達はお前達の質問が、時によると大変に面倒な事になるのが分るかい? もつと話せと直ぐに云ふが、そして叔父さんの知識を信じて、その説明でお前達は自分の好奇心を満足させようと思つて待つてゐるが、お前達が物事を理解しなければならないと云つた処で、お前達の知慧とはかけ離れた事がうんとあるのだ。お前達はいろんな事を知りたがる前に、理解力の用意をしなければならないのだ。雷の原因もその一つだ。私がお前達にその雷について何か話してやるのは訳もない事だが、もしその私の話がお前達に分らない時には、お前達は自分の生意気な好奇心を恥ぢなければならない。その雷の話はお前達にはまだ六つかしいよ。それは大変に六かしい事なんだから。』
『雷の事は話すだけは話して下さい。』とジユウルはねだりました。『私達は一生懸命で聞きますから。』
『では話さう。空気は見えもしないし、誰もそれを手に取る事も出来ない。もし空気が何時も静かだつたら、お前達は多分空気と云ふものが、あるかないかも気がつかないだらう。だが激しい風が、高いポプラを曲げたり、散つた木の葉を渦巻いたり、木を根こぎにしたり、建物の屋根を吹きめくつたりするのを見た時に誰れが空気の存在を疑ふ事が出来よう? 風は、防ぎ切れない空気の流れなのだ。その形のない、眼にも見えない静かな空気も、やはり本当は一種の物質なのだ。即ち、物質は、たとへ私達の眼の前に何にも現はさないでも存在が出来るのだ。私達が見たり触れたりする事も出来ず、またそれを感ずる事が出来なくても、やはり私達のまはりはすつかり空気だ。私達は空気に取り巻かれ、空気の真中に生きてゐるのだ。
『さて、此処に其の空気よりはもつとかくれた、もつと眼に見えない、もつと見あらはしにくいものがある。それは何処にもある、必ず何処にもある。私達の体の中にさへある。だがそれは、お前達が自分がそれを持つてゐる事に今もまだ決して気がつかない位に、静かにしてゐるのだ。』
 エミルもクレエルもジユウルも意味のこもつた眼をチラと見交はしました。三人ともどうかして、その何処にでもあつて自分達のまだ知らないものを当てゝ見ようとしてゐました。しかし、そのみんなの考へは、叔父さんの云つたものとはずつとかけ離れてゐました。
『お前達だけで一日中さがしても、一年中さがしても、多分一生かゝつても、それは無駄だらう。お前達には見つけ出すことは出来まい。其の私の話してゐる物は別段によくかくれてゐる。学者達は、それについてのいろんな事を知る為めに非常に面倒な研究をした。私達はその学者達が私達に教へてくれた方法を用ゐて手軽にそれを引つぱり出して見よう。』
 ポオル叔父さんは机から封蝋の棒を取つてそれを上着の袖で手早くこすりました。それからそれを小さな紙きれに近づけました。子供達はそれを見つめてゐます。見ると、その紙は舞ひあがつて封蝋の棒にくつつきました。その実験を、幾度も繰り返しました。その度に、紙きれはひとりで舞ひ上つて棒にくつつきます。
『此の封蝋の端は、前には紙を引きつける事をしなかつたが、今、それが出来る。此の棒を着物にこすりつけると、其の時に、その眼に見る事の出来ないものが顕はれるのだ。棒の外見は其の為めに変りはしない。そして此の眼に見えないものは、見えなくても、紙を持ちあげ、蝋まで引きよせて、其処にくつつける事が出来る以上は、本当にさういふものがあるに違ひないのだ。此の見えないものを、電気と云ふのだ。硝子のかけらや、硫黄、樹脂、封蝋等の棒を着物にこすりつけてそれで電気を起すことはお前達にもたやすく出来る事だ。それ等の物は、摩擦をすると、小さな藁きれや紙のきれつぱしや、埃のやうな軽いものを引きつけるもちまへを出すのだ。もしうまい工合にゆけば、今夜、猫がその事について、もつとよく私達に教へてくれるだらう。』

三六 猫の実験


 冷たい乾いた風が吹いてゐました。昨日の嵐のせいなのです。ポオル叔父さんはそれを口実にしてアムブロアジヌお婆あさんの云ひ草には、頓着なしに、台所のストオヴに火を燃しつけました。お婆あさんは、その時候はづれのストオヴの火を見て叫び出しました。
『夏にストオヴをたくなんて!』お婆あさんは云ひました。『何んて事でせう? 旦那様ででもなけれや、誰もそんな事を考へつきはしませんね。私達は火焙ひあぶりになるのですか。』
 ポオル叔父さんには自分の考へがあつたのです。で、お婆あさんには勝手に云はしておきました。みんなはテエブルにつきました。夕御飯がすんだ。大きな猫は、ストオヴのそばの椅子の上に移りました。猫は決して暑がらないのです。そしてすぐに、その背中をストオヴの方に向けて、うれしさうに咽喉をならしはじめました。すべて叔父さんの望みどほりに行つてゐました。ポオル叔父さんの計画は非常にうまくゆきかけてゐます。熱いので不平もいくらか出ましたが、叔父さんは無頓着でした。
『さあ、お前達は、私がお前達の為めにストオヴをいたのだと思ふかい?』と叔父さんは子供達に云ひました。『感違ひをしちやいけない、これは猫のためだ、猫だけの為めだ。猫は冷たい可愛想な奴だ。あの椅子の上で気持よささうにしてゐるのを御覧。』
 エミルは牡猫への叔父さんの親切な注意に笑ひ出さうとしましたが、クレエルは叔父さんの真面目な様子を察してゐて、肘でエミルを軽く突きました。クレエルの疑ひはもつともでした。夕飯が終ると、みんなはまた雷の話を続けました。ポオル叔父さんが話し出しました。
『今朝私はお前達に、猫の助けを借りて大変おもしろいものを見せると約束したね。猫が云ふ事をききさへすれば、今約束を果す事が出来るのだ。』
 叔父さんは猫を取つて自分の膝の上におきました。猫の毛はすつかりあつくなつてゐました。子供達はそのそばに近よりました。
『ジユウル、ラムプをお消し、真暗でなくちややれないのだ。』
 ラムプは消えました。ポオル叔父さんの手はその牡猫の背中を行つたり来たりしました。まあ! 不思議! 猫の毛には泡粒のやうな光りが流れてゐます。手がふれるとほりに、小さな白い閃光が現はれてパチ/\と音をたてゝは消えます。それは毛皮から出る煙火はなびの火花のやうでした。みんなは驚いて其のきれいな猫を見てゐました。
『もう触るのはおよしなさい! 猫が焼けますよ』とアムブロアジヌお婆あさんが叫びました。
『叔父さん、其の火は燃えてゐるんですか?』とジユウルが尋ねました。『猫が泣き出しませんね、そして叔父さんは触つても恐くないんですね。』
『此の火花は火ぢやないんだ。』とポオル叔父さんは答へました。『お前達はみんなあの封蝋の棒を着物でこすると、藁や紙のきれを引きつけるのを覚えてゐるだらう。私はその封蝋が紙を引きつけるのは、摩擦によつて起つたもので、それは電気だとお前達に話したね。いゝかい、私は自分の手で猫の背中をこすつて、電気を出すのだ。その電気の量が沢山なので、最初は見えなかつたのが、見えるやうになり、そして火花や、音を出すやうになつたのです。』
『もし燃えてゐないのなら、僕にもやらして見せて下さい。』とジユウルが云ひ出しました。
 ジユウルは自分の手で猫の毛をこすりました。その光る泡粒とそのパチ/\云ふ音とはもつと強く出はじめました。エミルもクレエルも同じやうにやつて見ました。アムブロアジヌお婆あさんは恐がりました。お婆あさんは、自分の猫から出る火花を、多分魔法か何かのやうに思つたのです。猫は放されました。その実験はもう猫には迷惑になつて来はじめてゐましたので、もしポオル叔父さんが猫をしつかりつかまへてゐなかつたら、多分ひつかきはじめてゐたかもしれません。

三七 紙の実験


『猫を嚇すのはよして、今度は他の方法で電気を起して見よう。
『普通のいゝ紙を縦にたゝんで、その両方の端を持つて、ストオヴか、火の前に持つて行つて焦げさうになるまで熱くする。うんと熱くすればよけいに電気を発する。最後に、その紙の両端だけを持つて、その熱い紙を出来るだけ早く、膝の上に拡げておき毛織の布に手早くこすりつける。その膝の上の布は前に暖めて用意をしておくのだ。もしズボンが毛織ならばその上にこすりつけていゝ。その摩擦は、紙の縦目にそふて激しく磨らなくてはいけない。少しこすつたら、その紙に何んにも触れさせないやうに、よく注意をして、一方の手で持ちあげる。もし紙が何かに触れゝば電気は逃げてしまふのだ。それから早速に、あいてゐるもう一方の手の指の関節か、或はもつといゝのは鍵の端を持つて行つて、その細長い紙の真中に近づける。すると、一つの火花が紙から鍵へ発して軽い音を立てゝるだらう。その火花をもう一つ出さうとするには、もう一度おなじ事を繰り返さなければならない。何故かと云ふと、指や鍵を紙に近づけた時に、紙に起きた電気はみんな失くなつてしまうからだ。
『また火花を出す代りに、その電気の起きてゐる紙を、紙や藁や或は羽毛のきれつぱしの上の方に平らにして見てもいゝ。それ等の軽い物体は、代りばんこに引きつけられたり撥返はねかえされたりする。電気はその細長い電気を起してゐる紙から物体へと急速に行つたり来たりするのだ。』
 ポオル叔父さんはなを附加へてお手本を見せる為めに、一枚の紙を取つて、うんと手ごたへのあるやうに、細長くたゝみました。そしてそれを暖めて、自分の膝の上にこすりつけました。そして最後にその指の関節をそれに近づけて火花を飛ばせました。子供達は、その紙からパチツと音を立てゝ飛び出す火花にすつかり驚いてしまひました。猫の背中の光の泡粒は無数でした。けれども、もつと弱くて光つてゐました。
 その晩アムブロアジヌお婆あさんは、ジユウルを寝床に連れてゆくのに大骨折りだつたといふ事です。それはジユウルが、そのやり方を覚えましたので、夢中になつて疲れるのも知らずに紙をあぶつたりこすつたりしてゐたからです。たうとうその実験を止めさすのに、叔父さんの仲裁が必要になつた程でした。

三八 フランクリンとド・ロマ


 翌日クレエルと其の二人の弟は、昨晩の実験の事より他の話はなんにもしませんでした。そのお話は朝の間中続きました。猫の背中の火の泡粒や、紙から出る火花がみんなに大変な印象になつたのです。
 其処で叔父さんは、その眼ざめて来たみんなの注意を利用する為めに、直ぐに出来るだけ早く、ためになる話しをはじめました。
『お前達は、叔父さんが、何故お前達に雷の話をしてやる前に、封蝋の棒や、細長い紙や、猫の背中をこすつて見せるのだらうと不思議がつてゐるだらうね。雷の事は話してあげる。だが、みんな先づ此の話をお聞き。
『今から百年も、もつとそれ以上も昔、ネラと云ふ小さな町の長官で、ド・ロマと云ふ人が、科学の年鑑に記録された、非常に重要な実験をした。或る日、その町長さんは大きな紙鳶たこと綱の球をもつて、嵐の最中に、田舎へゆきました。二百人あまりの人達がひどく面白がつて町長さんについて行つた。此の有名な町長さんは何をしようとするのだらう。重大な職務はそつちのけで、何かつまらない遊戯でもするのだらうか? そのものずきな人達は、大人気ない紙鳶あげの見物をしようと思つて町中から集まつて来たのだらうか? いや、いや、さうぢやないんだ、ド・ロマは、人間の天才的な想像で思いついた大胆不敵な計画を実行しようとしてゐたのだ。その計画と云ふのは、あの真黒な雲の中から雷を喚び、天から火を落さうと言ふのだ。
『その嵐の最中に、雲の中から雷を引いて来ようと云ふ、勇敢な実験者になつた紙鳶は見たところはお前達のよく知つてゐるのと少しも違つてゐなかつた。たゞ、その麻縄には銅の長い針金が通つてゐた。風が吹いて来ると、その紙鳶は空に上つて行つて、凡そ二百メエトル位の高さになつた。その綱の末端には絹の紐がついてゐて、その紐は、雨を避けて或る家の入口の階段の下にしつかりと括りつけてあつた。麻縄の一点には、小さな錫の円筒が吊してあつて、それは縄を通つてゐる銅線に触れてゐる。最後に、ド・ロマは、もう一つ同じやうな円筒を持つてゐた。それは一方の端にガラス管の柄のやうなものがついてゐた。町長さんは此の励磁機れいじきと云ふ機械のその硝子の柄を持つてゐて、銅の紙鳶糸からその糸の端にある金属の円筒に雲の中から導かれて来た火を、その手に持つた円筒で出して見ようとしたのだ。紙鳶糸の端に絹紐をむすびつけたり、円筒に硝子の柄をつけたりしたのは、絹や硝子等の物質はそれが非常に強力なものでさへなければ、電気を通さない性質を持つてゐるので、励磁機を持つてゐる腕や縄の先から地の中へや、雷電が逃げないやうにそれを防ぐ為めになるのだ。金属はこれに反して、自由に通すのだ。
『それが、ド・ロマが自分の大胆な先見を確める為めに考へ出した簡単な装置だ。さて、此の子供のおもちやを空へ飛ばしてそれが雷に会へば一体どういふ事になるのだらう? そんなおもちやで雷を自由に扱ふ事が出来るなんて馬鹿な考へだとしかお前達には見えまい? だがそのネラの町長さんは雷の本質について、十分に聡明な熟慮を重ねてその成功が確かだと云ふ事を信じてやつたのだ。それだから、大勢の見物人を前にしてその試みに取りかゝる事が出来たのだ。それがもしうまくゆかなければ、町長さんはすつかり困つてしまはなければならない。その意見と本物の雷の間の恐ろしい戦ひの結果を見ないでおく事は出来ない。意見は何時もよく導かれた時には勝つ事が出来るのだ。
『嵐の先駆の雲は見る間に紙鳶の近くに来た。ド・ロマは、その励磁機を縄の端に吊されてゐる錫の円筒に近づけた。すると忽ちに光が閃めいた。それは励磁機に発したまばゆい火花の閃きだ。火花はパチパチと音を立て、光を放ち、そして直ぐに消える。』
『それは昨夜僕等がやつたのと同じ事なんですね。』とジユウルが云ひました。『僕等が暖めてこすつた細長い紙きれの側に鍵の端を持つて行つた時に見えた火花とおなじでせう。そして、猫の背中を手で撫でた時にも、猫の背にやつぱりそれが見えましたね。』
『全く同じものだ。』と叔父さんは答へました。『雷、猫の背中の火の泡粒、紙から出る火花――みんな電気によつて出来るのだ。だが、まづド・ロマの話に戻らう。その紙鳶の糸の中には、電気が通じてゐて、その電気が即ち、微かな雷だと云ふ事が分るね。その電気は、極く少量なので、まだ危険な事はない。で、ド・ロマは、躊躇せずに、自分の指を円筒の前に持つて行つた。ド・ロマが、その円筒の前に自分の指を近づけるたんびに、励磁機で出したやうな火花が出た。ド・ロマの試しで、勢づいた見物人達は近づいて来て、その電気の爆発を起させた。彼等は、人間の想像力で天から呼びおろして来た火がはいつてゐる不思議な円筒を取り巻いた。或る人は励磁機で光りを呼んだ。又、或る人は自分の指と雲から降りて来た爆発するものとの間に火花を出して見た。みんなはさうして半時間ばかりも無事に雷で遊んでゐた。その時忽ちに激しい火花が来た。そしてド・ロマは、殆んど倒れようとした。危険が近づいて来たのだ。嵐は刻々に近くなり強くなつて来た。あつい雲が紙鳶の上をけまはる。
『ド・ロマは、しつかりとした決心をもつて、大急ぎで、群がつてゐる見物人を後しざりさせて、自分だけ、其の装置のそばにゐた。彼れを中心にした輪を描いてゐる見物人は、そろそろ恐がりはじめてゐた。それから、彼れは励磁機の助けを借りて、その金属の円筒から、第一に、その激しい動乱の為めに、人間が投げ倒され得る程の、強い火花を出した。それから爆発の音と一緒にうね/\した線を描いた火のリボンをいくつも出した。そのリボンはすぐに、二メエトルか三メエトルも計れる程の長さになつた。そのリボンのどの一つにでも誰かが打たれゝばたしかに死ぬだらう。ド・ロマはそんな生命に関る変事を恐れて、見物の輪を広げたり、その危険な電気の火の挑発をやめたりした。だが、ド・ロマは、自分の生命に迫つて来る危険は物ともせずに、まるで、何んの危険もない実験でもしてゐるやうに、ふだんとおなじ冷静さで、その装置に接近してその危険な研究を続けてゐた。彼れのまはりは、鍛冶場の吹音のやうな轟々と云ふ唸りが続けさまに聞こえて来た。空には焦げ臭い匂ひがしてゐた。紙鳶糸はすつかり光りで包まれて、天と地を結びつける火のリボンのやうだつた。三本の長い藁が丁度其処の地面に落ちてゐたが、糸の処までとび上つては落ち、またとびあがつて行く、と云ふやうにはね返つてゐた。そして此の藁の不規則な動作が、暫くの間見物人を面白がらせた。』
『昨夜』とクレエルが云ひました。『落ちてゐた羽毛や紙きれが、それとおんなじに、机と電気の起きた紙との間をはね返つたりくつついたりしたのですね。』
『それはあたりまへですよ。』とジユウルが云ひました。『叔父さんが私達に話して下すつたぢやありませんか。摩擦した紙には雷とおんなじ要素のものが出来るが、それはたゞ、非常に量が少いだけだつて。』
『雷と、私達が或る物体を摩擦して起した電気とが殆んど同じものだと云ふ事が、お前達にもはつきりと分つたやうだね。結構だ。ド・ロマが此の危険な実験をやつたのもその事を証拠立てるためなのだ。危険な実験、と私は云つたが、お前達にも、本当に、その大胆な実験がどんなに危険なものだつたかは分るだらうね。三本の藁が地面と糸との間をとんでゐた事を私は話してゐたね。丁度その時に、皆んなは怖れで顔色が急に蒼くなつてしまつた。激しい爆発が来て、雷が落ちたのだ。地面には大きな穴が出来、砂煙が舞ひ上つた。』
『まあどうしたらいゝでせう!』とクレエルが叫びました。『ド・ロマは殺されましたの?』
『いや、ド・ロマは無事だつた。そして歓びに輝いてゐた。彼れの先見は、その成功で確められたのだ。それは大変な成功だつた。ド・ロマの研究は、雲から雷を呼ぶ事が出来ると云ふ事を示す事が出来たのだ。彼は雷の原因が電気だと云ふ事を証拠立てたのだ。それはね、皆んなよくお聞き。たゞ私達の好奇心を満足させるに丁度いゝ位のいゝ加減な成績ぢやないのだ。雷の本質が見届けられたので、その被害を避ける事が出来るやうになつたのだ。だが、それは避雷針の話の時にお前達に話してあげよう。』
『ド・ロマは自分の生命の危険を冒してまでもそんな重要な実験をしたのですから、その時代の人達から富や名誉を押しつけられなくちやならない筈ですね。』とクレエルが云ひました。
『さうさう! それが本当なんだ。』と叔父さんは答へました。『だがね、真理は、無知や偏見と戦つて自由に自分を植えつける場所を見出すことは滅多にない。その戦ひは、時には間違つた輿論と云ふものに屈しなければならない程困難なものだ。ド・ロマはボルドオで、もう一度その実験を繰り返さうとしたが、彼は魔術で雷を喚ぶあぶない人間だといふので、大勢の者がド・ロマに石を投げつけた。それで彼はその装置を残したまゝで、急いで其処を逃がれなければならなかつた。
『ド・ロマよりは少し前に、北アメリカ合衆国では、フランクリンが雷の本質について、同じやうな研究をした。ベンヂヤミン・フランクリンは、貧乏なしやぼんつくりの息子だつた。彼れは自分のうででやつと読み、書き、算術を勉強する道具を見つけ出した。それでも彼れはその勉強のお蔭げで、その学問によつて、その同時代の人の中のもつとも名高い一人になりました。一七五二年のある嵐の日に彼れは自分の息子を連れて、フイラデルフイアに近い田舎に行つた。息子は絹でつくつた、四隅を二本の硝子の棒に結びつけた紙鳶を持つて行つた。金属の尾がその紙鳶の装置についてゐた。紙鳶は嵐の雲の傍まで上つて行つた。はじめは此のアメリカの学者の先見を確めるような事には何にも出会はなかつた。糸は電気の気も見せなかつた。雨が降つて来た。湿れた糸は自由に電気を通す。フランクリンは危険を忘れてその指で盛んな火花を出して、雷の秘密をぬすんだ歓びに夢中になつてゐました。

三九 雷と避雷針


『フランクリンや、ド・ロマや、その他の多勢の人達の巧妙な研究で、電光の本質が吾々に示されたのだ。その人達は、殊に、それと同じものが極く少量の場合には、人間の指をそれに近づけてもパチパチ音をさせて火花が飛ぶし、その実験には何の危険もない事、それから電気を含んだすべての物体はその近くにある軽い物は何んでも引きつける、丁度ド・ロマが、実験をした時に、紙鳶の糸が三本の藁を引きつけたやうに、又、封蝋や摩擦した紙が羽毛を引きつけたやうに、と云ふ事を吾々に教へられたのだ。つまり手短かに云へば、その人達が吾々に教へてくれたのは、電気が雷の原因だと云ふ事なんだ。
『さて、その電気には二つの異つた種類がある。それは、すべての物体の中に、同じ分量ではいつてゐる。それが同じ分量でゐる間は、電気の存在は別に何んにも現はさない。まるで存在しないやうに見える。しかし一度それが別になると、すべての障碍を越えてお互ひにさがして、引きつけ合ふ、そして爆発と一しよにお互ひの方に突進して火花を出すのだ。そして、その二つの電気の原質は、また離れるまでは全く静かになつてゐる。その二つの電気は、お互ひに補足し、平均させる。その二つが一緒になつて形づくつた目に見えない或もの、害もなく、活動力もなく、何処でも見出せるものを中和電気と云ふのだ。或る物体に電気を通ずるには其の中和電気を分解するのだ。その二つの原質を引き離せばそれが一緒だつた時には活動力のないものが、お互にもう一度結びあはうとする激しい傾向と、其の不思議な特徴を、明白に表はすのだ。摩擦をして或る働きを起さすのも此の二つの電気の原質を離す方法なのだ。だがそれはいろ/\ある中のたつた一つの方法なのだ。実際にある方法はそんなものどころぢやない。物質の一番奥底の本質の急激な変化は、よく、其の二つの電気を明白に表はす原因になる。雲がさうだ。雲は太陽の熱で蒸発した水の変化したものだ。そしてそれにはよく電気が満されてゐる。
『二つの異つた電気を含んだ雲が近づいて来た時には、その相反した電気は直ちにお互ひに結合する為めに近づく。それと一緒に其処に騒々しい爆発の音が起り、不意に光りが出る。此の光りが電光でその爆発が落雷なのだ。そして騒々しい爆音は雷なのだ。最後にその電気の火花は、電気を持つた雲から、或る方法で地面にある電気を持つたものに導いて出すことも出来る。
『普通にお前達の知つてゐる落雷といふのは、たゞ、その爆発の音と其処から出る不意のイルミネーシヨンだけだ。その落雷そのものを見るには、お前達は理由のない恐怖をすてゝ、嵐の中心になつてゐる雲を注意深く見る事だ。一瞬一瞬に、お前達は、一本だつたり枝が分れてゐたりする、非常に不規則に曲りくねつた形の、まばゆい光の脈を見る事が出来る。灼熱した熔鉱炉も、金属の光りもそれ程の輝きを持つてゐない。電光の勝れた光りに較べる事の出来るのはたゞ太陽の光りだけだ。』
『僕は落雷を見ましたよ』とジユウルが云ひ出しました。『あの嵐の日に大きな松の木が撃たれた時に見ました。あの時僕はあの光りでもつて眼がくらみましたよ。まるで太陽を見つめた時のやうに。』
『此の次の嵐の時には』とエミルが云ひました。『僕は空を見張つてゐてその火のリボンを見る事にしやう。だけど叔父さんが其処にゐて下さらなくつちや駄目だ。僕一人ではとても恐くつて見てゐられやしない。』
『私もよ』とクレエルも一緒になつて云ひました。『私も叔父さんがゐらつしやりさへすれば恐くなんかないわ。』
『私も其処にゐる事にしようよ。』と叔父さんはその事を承知しました。『私がゐてやる事がそんなにお前達を安心させるのならゐる事にしよう。その雷がごろ/\鳴り、電光が煽られる嵐の時の空は本当に見ものだ。だが、雲のふところから落雷の眩しい光りが来、そして其処ら中がその爆発の音で響きわたる時、お前達がつまらない恐怖に支配されてゐればお前達の心には、それを感心して見る余裕はない。お前達の恐れに満ちた眼は閉ぢてしまつて、大気の中に起るすばらしい電気の現象を見る事は出来ないだらう。それは宏大な神様の仕事を雄弁に語るものだ。お前達の心が、恐怖で固くなつてゐたら、お前達はその瞬間の電光の閃めきや、雷の爆音や奔放な風などの、大きな完全な神様の仕事を知る事が出来ないのだ。雷は人間の死の原因になるよりももつとずつと多く生きる為めのもとになる。稀れに不意の恐ろしい出来事の原因になるにも拘はらず、それは吾々のはき出した腐つた空気を清潔にして、健康の為めにいゝ空気を与へる、神様の仕事の中でも最も力強い仕事の一つなのだ。吾々は藁や紙を燃して室内の空気を清潔にする。落雷はその無限の焔の敷ものでその周囲の大気の中におなじやうな作用を起す。お前達をびつくりさせるあの電光は、みんなの健康の保証をしてゐるのだ。お前達の心を恐怖で寒くするあの雷の轟きは、吾々の生命の為めに空気をきれいにする大仕事をしてゐるしるしなのだ。そして、人々は、嵐の後はどうして空気が晴々して心持がいゝのか知らないでゐる。落雷の火で純化された時その大気は、それを呼吸するすべてのものに新しい生気を与へるのだ。吾々は、雷の鳴る時のつまらない恐怖に気をつけるより、電光や雷が神様から与へられた吾々の健康の為めの使命を感謝しなければならない。
『落雷は、此の世の中のすべてのものをおなじやうに、人間の幸福の為めにもなるが、しかしまた、それと反対の原因にもなる。だが吾々はいつも、神様のおゆるしのない事には決して出来ないと云ふことを忘れないやうにすることだ。神様への敬虔なおそれは、その他のすべての恐れを防ぐことが出来る。そこで、静かに落雷が顕はす危険について調べて見よう。吾々がとりわけ覚えてゐなければならないのは、雷が好んで落ちるのは、地面の上に一番高く突き出た点だといふことだ。それは、其処にある電気が、雲の中の電気に引かれるからだ。雲の中に含まれてゐるおびただしい電気が、それと一緒に結びつく為めに引くからだ。』
『その二つの電気はあらん限りの力で一緒にならうとして捜し合つてゐるのですね。』とクレエルが云ひました。クレエルの心はその事にすつかり引きつけられてゐました。『地面の電気は、雲の電気と一緒になる努力ですつかり高い木の頂上にゆき、雲にある電気はそれに促されて木の方に降りて来るのですね。それから、その二つの電気が近づいた瞬間に、お互ひに、もう此の上無事に一緒になる道が開いてゐなくともいゝと云ふまで音を立てゝ一しよに引きつけ合ふんです。それであの落雷した木には火のあとがあるのですね。さうぢやありませんの叔父さん?』
『クレエルや、私はそのお前の云つた事以上に、うまい説明は出来ないよ。高い建物や、塔や、尖閣や、高い木は、本当にその天から来る火に一番近い処にあるのだ。広い野原の中で嵐に遇つた時に、その雨よけの場所に木の下、殊に高いのが一本だけしか立つてゐない木の下をさがすのは大変に不注意なあぶない事だ。雷は好んでその木の上に落ちるのだ。その一番高くなつた処に地上の電気が堆積してゐるので、雲の電気は出来るだけそれに近づいて、引かうとするのだ。で、もしそんな処にゐれば、その人も落雷に見舞はれるのだ。毎年雷に人が打たれて死ぬと云ふ、悲しい、いたましい例は、此の一番あぶない区域の背の高い木の下に雨やどりをしたりする事から出来るのだ。』
『もし叔父さんがその事を知らないでゐらしたら。』とジユウルが云ひ出しました。『あの嵐の日に僕が雨よけしませうと云つたあの松の木の下で、あの時、僕達は死んでゐたかもしれないんですね。』
『それは分らないね。落雷で木は壊されたが、私達もそれで死んだか、或は助かつたかそれは分らない。危険な処に自分をおいて動かないのは神を恐れない大胆な人だ。私達はあの時、神様のお力であの危険な処から救ひ出されたのだ。吾々は、あの危険な木から逃げ出して自分を救ひ出して無事に家に帰つた。しかし、誰でも、十分に自分を救ふには知識が必要だ。それはお前達の心にもその事で印象されたね。私はもう一ぺん力を入れて嵐の時の危険を繰り返すがね。高い塔や尖閣や、建築の屋根裏、殊に高いそして一本立の木にかくれるもんぢやない。その他に、普通に用ゐられてゐる予防の方法がある。たとへば、空気の激しい移動を起す原因にならないやうに、走つてはいけないと云ふ事、空気の流通を防ぐために窓や扉をしめると云ふやうな事は、みんな、何の価値もない方法だ。落雷はそんな空気の流動で引かれるものではない。汽車がレールの上を非常にはやい速力で走つてゐる時には空気は激しい移動をしてゐる。けれどもそれは止つてゐる時よりは雷に打たれ易いと云ふ事はない。』
『雷が鳴るときに』とエミルが云ひました。『アムブロアジヌお婆あさんはあはてゝ窓や扉をしめますよ。』
『アムブロアジヌお婆あさんは他の沢山の人達のやうに、その危険な事を見るのをやめるのが安全だと信じてゐるのだ。だから雷の音を聞かないやうに或は電光を見ないやうに、自分で閉ぢこもつてしまふのだ。だが、そんな事をしても、危険は少しも減りはしないのだ。』
『その時にとる予防方法はないんですか?』とジユウルが尋ねました。
『その予防方法は普通の条件ではない。それは神様の意志にたよるより他はないのだ。
『他のよりはずつと高い建物を保護するのには、吾々は避雷針と云ふものを使ふのだ。此の驚くべき発明は、フランクリンの考へに基いたものだ。避雷針といふのは、強い、尖つた、長い鉄の竿で組立てたもので建物の頂上に取りつけたものだ。その避雷針の底からは、また他の鉄の竿が出てゐて、それは屋根と壁とに沿ふて走つてゐる。そこはしつかりと、鋲でとめてある。そしてその先きは湿つた地面の中か、或はもつとよくするには深い水の中へ突つ込む。もし雷がその建物に落ちると、それは避雷針を撃つ。避雷針は、雷に一番近い物体で、なほ、その金属の本質に従つてもつとも電気をよく通すのに適してゐる。同時に、その尖つた形は一層その効目をよくする。雷が其処に落ちると、その金属の避雷針はそれを導いて、何の損害も与へないで地面の中に消してしまふ。』

四〇 雲


 電光の話が済むと翌朝、ポオル叔父さんは雲に就いて教へてくれました。前日よりはずつと都合の好い、お誂向あつらえむきの天気で、空の一方には、綿の山かと思はれるやうな白雲がむく/\と湧き立つて居りました。
『湿つぽい秋や冬の朝、灰色のヴエールのやうな煙が地面を包んで、太陽を掩ひ隠し、眼前五六歩の先きも分らなくして了ふ、あの霧の事を覚えてゐるだらう』と叔父さんは尋ねました。
『空中を透して見てゐると水の中の埃のやうな物が漂つてゐますね。』とクレエルがさう云ひました、するとジユウルがそれに附け加へて云ひました。
『その煙のやうなものゝ中で、僕達、エミルと一緒に隠れんぼをして遊びましたつけ。ぢき五六歩のところにゐるのに、誰れも分らなくなつてしまひましたよ。』
『さうかい。』と叔父さんは又話しつゞけました。『雲と霧とは同じ物なのだ。たゞ、霧は我々の周りに拡つて、灰色で、ジメ/\して、冷めたいものだといふ事が分つてゐるが、雲は多少高い処にあつて、遠くで見ると種々変つた形をしてゐる。ほら、彼処にはギラ/\した白雲があるだらう。そしてほかの雲は赤か、金色か、火焔ほのおのやうで、又ほかの雲は灰色で、又別なのは真黒だ。色も見てゐる中に変つてゆく。日が沈む頃になると、太陽の光がだん/\弱くなるので、白色だつた雲が緋色に変り、燃え残りの火が金を熔かした池のやうに輝いて、遂にどんよりした灰色か黒色になつて了ふ。まるで太陽に仕掛けたイルミネエシヨンのやうなものさ。雲は実際、どんなに立派に見えてゐても、霧と同じやうなジメ/\した水蒸気で出来てゐるものなのだ。今にその証拠を見せてあげるよ。』
『ぢや叔父さん、人間は雲のやうに高いところへ登れるんですか。』とエミルが訊きました。
『出来るとも。先づごく強い、丈夫な足が二本あれば山の絶頂まで登れる。山に登ると、折々、雲が足の下に見える事があるよ。』
『では叔父さんは、さうして雲を見下してみた事がありますか。』
『あゝあるとも。』
『随分綺麗なものでせうね。』
『綺麗だよ。綺麗で/\言葉には云へない位綺麗だ。しかし、若し雲が上つて来て人間を包んで了ふと、余り愉快なものぢやないがね。深い霧のこもつた中で立往生して了ふ。道が分らなくなる。谷へ落つこちるかも知れぬやうな危い処で、危い事には気附かずに狼狽する。そして偽道を避けて正しい道だけを連れて行く道案内者を見失つて了ふのだ。いや、雲の中では誰でも嫌な思ひをする。お前達も今に酷い目に遇つてそれを知る時が来るよ。そこで暫く雲に蔽はれた山のてつぺんの事を話してみやうね。若し此方の註文通りに行くとしたら、此の山の頂きにもいろ/\見たいものが沢山あるんだ。
『見上げると、空は美事に晴れて、危い様子は少しも見えない。日は此の上もなく輝き渡つてゐる。足下の方には白雲が一様に拡がつて居り、前方から吹いて来る風のために、山頂の方へ吹き上げられて来る。見ると雲は渦巻きながら山の方へ上つてゐる。それはちやうど眼に見えない手で坂を押し上げて来る、大きな綿の着物のやうだ。時々日光が綿の深みへ射し込んで、金か火のやうに雲を輝かす。夕方太陽が沈む時の美しい雲もこれ程ぢやない。素的な色をして、堪らなくふうわりしてゐる。雲はだん/\高く上つて来る。そして山の頂きに巻いた白い帯のやうに、ピカ/\しながら渦巻いて来る。下の平原は見えなくなる。そして私達のゐる山頂だけが、雲の幕の上にちやうど、海上の島のやうに浮いて見える。が、遂に此処も掩ひかぶさつて了ふと、もう私達は雲の中にゐるんだ。温みのある色も柔かな様子も、美事な眺めも、すつかり消え失せて了ふ。其の時はもう湿気を含んだ、暗い霧の中にはいつてゐるので、圧しつけられるやうな気持ちがする。早く風が吹いて来て、此の嫌な雲を吹き払つてくれるといゝと思ふ。
『実際誰れでも雲の中にはいると、さう思はないものはない。それ程雲は、遠くから見ると美しいが、傍に寄つてみると、せい/″\湿つぽい霧だけなのだ。雲の珍らしい姿は離れて見るに限るよ。我々が物好きをして、そばへ寄つて本当の形を究めやうとすると、往々当が外れるものだ。が、さうしてそばへ寄つて見ると、山野を彩つてゐるあの輝きの中に、雲は其の一番大事な実相を隠してゐる事が分る。雲の不思議は見掛けだけのことで、実は光線の幻しに過ぎないのだ。しかし又、此の幻しの中に土地を肥やす雨が溜まつてゐるのだ。天地を造つた神様が、醜い地球の様子を見て、それを広く掩ひ隠せるもので、しかも一番必要なものを地球の飾り物として造つてやらうと思つて、このすばらしい雲を着せてくれたのだ。雲の灰色の煙が雨になつて降る。これが雲の一番大事な仕事だ。そして太陽が此の雲を照して、眼を驚かすやうな紅色や、金色や、焔色を映して見せるのは、たゞ雲の装飾としての役目に過ぎない。
『雲のある高さは、いろ/\と違ふが、一般に人が思つてゐるよりは低い。のろ/\と地面に這つてゐる雲がある。それは霧だ。可なり高い山の腹にくつついてゐる雲もあるが、中には山の頂に冠つてゐる雲もある。一般には、雲の高さは千五百尺から四千五百尺位のところだ。ごく珍しい場合になると十二哩も高い処を飛んでゐるのがある。永久に青々と晴れ渡つた高い空の上には、もう雲も上つては行かない、雷も鳴らない、雨も降らなければ、雪も霰も結ばない。
『巻雲といふ名の雲は、渦巻いた羊の毛屑のやうに見えたり、空の深碧に映じて、眩く白光りする繊維のやうに見えたりする。雲の中で一番高いのはこれだ。折々此の雲は三哩も上に浮いてゐる事がある。巻雲が小さく丸まつて、沢山一緒に固つてゐると、丁度羊の背中を見るやうだ。こんな雲で空が一杯になつた時は、大抵天気の変る前兆だ。
『積雲といふのは、夏の暑い時の、丸味のある大きな白雲で、綿の大きな山のやうなものだ。此の雲が出ると後から暴風雨がやつて来る。』
『では向ふの山の傍にある雲は積雲ですね。』とジユウルが訊きました。『まるで綿を束ねたやうですもの。いまに暴風雨が来るんでせうね。』
『そんな事はあるまい。風が別な方角に吹いてゐるからね。暴風雨は何時でもあの雲のある近所で起つてゐるのだ。ほら、あれをお聞き!』
 電光が突然積雲の塊まつた中で閃きました。そして可なり経つてから雷の音が響いて来ました。遠くなので音はごく弱くなつてゐましたが。ジユウルとエミルとは早速質問しました。『何故向ふの方だけ雨が降つて此処は降らないんでせうか。何故電光が済んでから雷が鳴るんでせうか。ね、何故でせう。』
 ポオル叔父さんは答へて、『それをすつかり教へて上げやう。』と云ひました。『だが其の前に雲のもつとほかの形に就いてお話しして置かう。層雲と云ふのは日没か日出の時に、地平線の上に不規則に並んだ紐のやうな雲だ。日光が薄い時、殊に秋など、熔けた金属が焔のやうな色をした雲があるがそれだ。朝の赤い層雲の後では風か雨がやつて来る。
『最後に、灰色をした暗雲の塊りで、其の雲と別な雲との区別がつかぬ位群がつてゐるのには、雨雲といふ名がついてゐる。こんな雲は大抵溶けて雨になるのだ。遠くから眺めると、往々天から地へ真直に拡がつた広い縞になつてゐる事がある。それは雨を降らしてゐる雲だ。』

四一 音の速度


『叔父さんが積雲と云つたあの大きな白雲の下で、今暴風雨があるのでせう。』とエミルが云ひました。『たつた今電光も見たし雷も鳴りましたものね。ですけれど、此処ぢや反対あべこべに空が青く晴れてゐますよ。何処でも同じ時に雨が降るんぢやないんですね。ある国が雨が降つてゐても、他の国では晴れてゐるんですね。その上、此処で雨が降る時は空が雲で一杯になりますよ。』
『空を見まいとするには、両眼に手をかざすだけでいゝ。ずつと遠くに離れた遙かに大きな雲もこれと同じ力を持つてゐる。その雲はあらゆるものを蔽ひかぶせて、何もかも曇らして了ふのだ。』と叔父さんは教へてくれました。『が、それはほんの表面だけの事で、雲の掩つてゐない別な所の空は、からりと晴れて好い天気だ。今雷が鳴つてゐる積雲の下では確かに雨が降つてゐる。又空も屹度真暗だ。あの辺は何処も彼処かしこもすつかり雨だよ。何故つて、あの辺は雲に包まれてゐるからさ。若し彼処の人達が雲のない余所へ行つたとしてみたら、其処には此処と同じやうな、晴れた空があるに違ひないのだ。』
『では、速く走る馬に乗つたら、雲の被つた、そして雨の降つてゐる処を逃げ出して天気の好い処へ行く事も出来るし、又、天気の好い処を駈け出して、雨雲の下へ行くことも出来るんですね。』とエミルが質しました。
『うん、さうする事の出来る時もあるが、雲の掩ひかぶさる面積は非常に広いから、大抵の場合さうは行かない。その上雲が或る国から他の国へ行く時は、どんなに早い競馬馬だつて追附きやしない。お前達は風の吹く日、雲の影が庭の上を走つて行くのを見た事があるだらう。山も谷も野も川も、忽ちの中に通り越して了ふ。お前が岡の上に立つてゐる中に、雲はお前の頭の上を通り越して行くよ。お前が二三歩谷へ降りやうとする中に、影はさつさと歩いて、向側の坂を登つて居るだらう。雲と一緒に駈けられるなんていふことは、誰にだつて出来やしないよ。
『仮りに或る国の大部分に一時に雨が降つたとする。そんな事は決してないと云つてもいゝ位滅多にないのだが……。まあ、一つの県全体に一時に雨が降つたとしたところで、其の県と地球全体とを比較すれば広い畑と其の中の一塊の土塊つちくれのやうなものだ。雲は風に追はれて、彼方此方、大空の中を駈け廻る。そして其の駈けて行く道には、影を落すか、雨を流すかするのだ。此の雲が行く処は屹度雨だが、ほかの場所では雨は降らない。同じ場所でも、雲の上にゐるか下にゐるかで、晴れにもなれば雨にもなる。山の絶頂では折々雲が人間の足下にある事がある。此の山の頂では、日が輝いて雨は一粒も降らぬやうな好天気の時、雲の下の野原では、大雨が降つてゐるやうな事があるのだ。』
『よく解りました。』とジユウルが云ひました。『で、今度は僕が尋ねますよ、叔父さん。此処から見えるあの暴風雨の雲の所で、先刻さっき電光がしましたね。所が暫くしてから、雷が盛んに鳴るのが聞えましたが、何故電光と雷は一緒でないんでせうか。』
『光と音との二つで雷の落ちた事が解るんだが、光は電光の閃きで、音のするのが雷だ。ちやうど銃砲を撃つのと同じやうなもので、火薬に発火すると光が出来、その結果音を発する。爆発する時光と音とは同時に出るのだ。だが、遠くにゐると、速度のすばらしく早い光が先に眼には入つて、速度の遅い音は後から聞える。若しお前が可なり遠くの方から鉄砲を撃つのを見てゐたら、最初爆発の火と煙とが見えて、暫くの間は音は聞えないに違ひない。発射する所に遠ざかれば遠ざかる程音は遅く聞える。光はごく短い時間に、非常に遠くまで達する。だから鉄砲の火はその瞬間に眼に映るのだ。そして音の方は暫く経たなければ聞えないのは、音の速度は光の速度よりも遅くて、遠い距離を越えて来るのにそれだけ長くかゝるからだ。それは容易たやすく測ることが出来る。
『大砲の火の見えた時と、その音の伝つて来た時との間を十秒間と仮定する。次ぎに、其の大砲を撃つた場所と其の音を聞いた場所との距離を測つて見る。三千四百メートル(一万一千尺)だとする。そこで音は空中を伝つて、一秒間に三百四十メートル(千百尺)を進む事が分る。此の速度は砲弾と同じ位の早さではあるが、何んと云つても光の速度とは較べ物にならない。
『音と光の伝はる速さの相違は次の実例で説明が出来る。遠方で樵夫が木を切つてゐるか、石工が石を刻んでゐるのかが見えるとする。斧が木に当るのを見、又は槌が石に当るのを見て、それから幾らか経つた後で始めて音が聞える。』
『或る日曜日に、僕は教会のベルが鳴るのを遠くから見てゐました。』とジユウルは叔父さんの言葉を遮つて云ひました。『ベルの心の動くのは分つてゐましたが、音はずつと後まで聞えませんでした。が今其の理由が分りました。』
『電光が閃いてから、雷が鳴るのが聞え出す瞬間まで何秒かゝるか計つて置くと、暴風雨の雲とお前との間の距離が解るのだ。』
『一秒といふと長い間でせうか。』エミルが尋ねました。
『なあに、脈が一つ打つ間の事なんだ。で、先づ一、二、三、四といふ風に、急ぎもせず、又あまりゆっくりもしないで、秒数を数へなければならない。積雲に電光が閃く瞬間に気を附けて、雷が聞えるまで静かにそれを数へるのだ。』
 皆んなは眼を据ゑ、耳を澄まして、空を見てゐました。遂に電光が眼に入りました。叔父さんが合図するのを皆んなで数へます。一、二、三、四、五……。十二と云ふ時にやつと聞える程微かな雷が鳴り出しました。
『雷が此処に聞えるまでに十二秒かゝつたよ。』とポオル叔父さんは云ひました。『音が一秒間に三百四十メートル走るものとすれば、今の雷は何れ位離れた処から聞えたんだらう。』
『三百四十を十二倍しただけですわ。』とクレエルが答へました。
『さう/\、ぢや掛けてごらん。』
 クレエルは計算をしました。答は四千八十メートルになりました。
『電光は四千八十メートルの向ふで光つたのですから、此処からあの暴風雨雲までは三哩以上離れてゐるんですわ。』とこの娘さんは叔父さんに云ひました。
『やさしいんだなあ。』とエミルが声を上げて云ひました。『一、二、三、四を数へると、ぢツとした儘で、雷が落ちた所の遠さが分るんですねえ。』
『電光がしてから雷の鳴るまでの時間が長ければ長い程、雲は遠方にあるのだ。音と光とが一緒に来れば、その爆発は直ぐそばにあつたのだ。ジユウルは松林で暴風雨に出遭つたから好く知つてゐるだらう。』
『電光が見えてからは、もう何んにも危い事はないんですつてね。』とクレエルが云ひました。
『雷の落ちるのは光と同じやうに速い。だから、電光がすると同時に雷は落ちてゐるんだから、もう危険はなくなつて了ふのだ。何故かといふと、雷の音はいくら大きくつても、何んの怪我もさせはしない。』

四二 水差しの実験


 前の晩ポオル叔父さんは、雲は地の上に這つてゐないで、高い処に浮いてゐる霧だと云ふ事を教へて呉れました。けれども霧は何んで出来てゐて、何う云ふ風に出来てゐるものかと云ふ事は話しませんでした。それでそのくる日、叔父さんは又雲の話しを続けました。
『アンブロアジヌお婆あさんが洗濯をすると着物を紐に吊しておくね。あれは何故さうするのだらう。水で湿つた着物を乾かすためなんだね。では、其の水は何うなるんだらう。誰れか知つてゐるかね。』
『それや消えて了ひますとも。』とジユウルが返事をしました。『しかし何うなるのかは少しも分りません。』
『水は空中で溶けて、空気と同じやうに眼に見えないものになつて散らばるんだ。乾いた砂山に水をかけると、水は滲み込んで失くなつて了ふだらう。さうすると砂は先刻とは違つたものになつて了ふね。初めは乾いてゐたのが、こんどは湿れてゐる。つまり砂は、其の水を吸ひ込んで了ふのだ。空気もこれと同じやうな事をする。空気が着物についてゐる水分を吸ひ込んで、やはり砂のやうにしつとりとなるのだ。そして空気は、何んにもほかの物を含んではゐないやうな風に、その空気と水とがうまく融け合ふ。かうして眼に見えなくなつて一種の気体のやうになつた水の事を、水蒸気と云ふ。そして水がかうなる事を蒸発すると云ふ。我々が乾かして蒸発させやうとする着物の水分、即ち水は、空気に晒らされると、眼には見えない水蒸気となり、風の吹くに任せて何処へでも拡つて行くのだ。温かければ温かいだけ、蒸発が速く勢よく済む。お前達は湿れたハンカチが暑い日には早く乾くが、曇つたり寒かつたりする日には、乾き方が遅い事を知つてゐるだらう。』
『アムブロアジヌお婆あさんはね、お洗濯する日にお天気が好いと、そりや随分喜びますわ。』とクレエルが云ひました。
『庭に水を撒くと何んな事が起るか知つてゐるだらう。非常に暑い日盛りに、枯れないばかりにしぼんだ植木に水をやらうとすると、次のやうな事が起るね。ポンプの水を精一杯に出して、お前達が皆んな如露を持つて、彼方に一人、此方に一人、大急ぎで萎んだ植木や、苗床や、植木鉢の花に水をかけてやる。直ぐ庭が水を吸ひ込む。すると何んとも云へない程清々して、暑さに萎んだ植木は、又前のやうに勢よくピンとして生々する。まるで木がお互ひに囁き合つて、水をかけられて嬉しかつたと云つてゐるやうに思はれる位だ。いつまでも其の儘で居れたら好いんだがね。仲々さうはいかない。又次の日になると土は乾いて了つて、何もかもやり直さなけれやならなくなる。では、昨日の水はどうなつたのか。其の水は蒸発して空気に飲まれて、雲の一片となり、再び雨になつて降るまでは、非常に高い処を遠くの方へ飛んで行かなければならない。ジユウルや、お前は花にかける水を汲み飽きた時、水が井戸から汲み出されて庭に撒かれると、遅かれ早かれ空気と一つになり、雲になつて了ふのだと思つた事があるかい。そんな事はないだらう。』
『僕ね、庭に水を撒く時、空気やそのほかのそんな物に水をかけてゐるんだとは思ひませんでしたよ』とジユウルが答へました。『しかし空気は随分な水飲みだつて事が今解りました。如露一杯の水の中、植木はほんの一と掬ひだけ吸つて、残りは空気と一つになつて了ふんですね。道理で毎日々々水をかけなくちやならんのだなア。』
『若し皿一杯の水を日に照らして置くと、最後にどうなるんだらう。』
『僕知つてゐます。』エミルが直ぐさま答へました。『水は少しづつ水蒸気になつて、皿だけが残されて了ふに違ひありません。』
『皿の水や、土や布の湿気や、もつと広く云へば凡ゆる地面の水分が失くなると何うなるのだらう。空気は湿地と接してゐるし、又、池や沼や溝や河の沢山の水面とも接してゐるし、その上陸地の三倍もある大きな海の表面とも接してゐるのだ。だから、ジユウルの云ふ大水飲みの空気は、暑さの加減で多く飲んだり、少く飲んだり、何時も腹一杯飲んでゐるから、到る処、又何時なりとも空気は水気を持つてゐるんだ。
『今我々の周囲にある空気は、見たところでは何んにも含んでゐないやうだが、実は水を含んでゐるのだ。それを知る方法はごく簡単だ。先づ第一番に空気は少々冷やせばいゝのだ。湿れた海綿を絞る時は水を浸み出させりやいゝ。湿つた空気を冷やすのは、海綿を絞るのと同じ様に、水分を小さなしずくにして垂らして了ふ。クレエルや、お前井戸から冷めたい水を壜に汲んで来ておくれ。叔父さんが面白い実験をして見せるから。』
 クレエルは台所に行つてごく冷めたい水を入れた壜を持つて来ました。叔父さんはハンカチを出して、壜の外側に雫が垂れてゐないやうに拭き取つて、やはり同じやうに拭いた皿の上にそれを載せました。
 最初透きとほつてゐた壜は、一面に霧を吹いたやうになつて、透明なのが曇つて来ました。すると小さな雫が出来て、外側を滑つて皿の中に落ちました。十五分間も経ちますと、皿の中には、指抜きに盛る事が出来る程の水が溜りました。
『雫は今壜の外側を滑り落ちてゐるよ。』と叔父さんは説明しました。『水がガラスに孔を穿ける理由はないから、此の雫は壜の中から出て来たのでない事は確かだね。これは壜の周囲の空気が斯うなつたので、空気は壜にふれると冷えて湿気が垂れるやうになつたのだ。若し壜に氷が詰つてゐてもつと冷めたくなつてゐたら、垂れる水はもつと多くなるのだ。』
『その壜で私、同じやうな事を思ひ出しましたわ。』とクレエルが云ひました。『きれいなコツプに冷めたい水を入れましたらね、コツプの外側がよく洗はないのかと思ふ位曇つてしまひましたよ。』
『それもやつぱり周囲の空気が、コツプの冷めたい処に触れて水分を置いたんだよ。』
『眼に見えない湿気は、空中に沢山あるのですか。』とジユウルが訊きました。
『空中の湿気は何時もごく稀薄でそして散らばつてゐるから、少しの水を造るにも随分沢山の空気がなくてはならない。夏の暑い、一番水蒸気が沢山ある時でさへ、一リツトル(五合五勺)の水を造るに六千リツトルの空気が要るんだからね。』
『それつぱつちの水しかはいつてゐないんですか。』とジユウルが云ひました。
『それでも空気が沢山ある事を考へれば、其の中の水は大したものになるんだ。』と叔父さんは答へて、又次のやうに話しました。
『此の壜の実験で二つの事が解つた。第一に、空中には常に、眼には見えない水蒸気があるといふ事、第二に、此の水蒸気を冷やすと、眼に見える霧となつてやがて水のしたたりとなるといふ事だ。眼には見えない水蒸気が眼につく霧になり、遂に水の形に帰つてゆく事を凝縮すると云ふのだ。熱さは水を眼に見えない水蒸気にして了ふし、寒さは此の水蒸気を固めて、液体にするか又は眼に見える水蒸気、即ち霧にして了ふ。あとは又今晩話ししよう。』

四三 雨


『今朝の話は雲の成り立ちに就いてだつたね。湿地の表面や、湖や池や沼や川や種々の海の表面には、常に蒸発が行はれてゐる。出来た水蒸気は空高く登つて、熱がまだ十分ある間は眼に見えない儘でゐる。しかし高く登るに従つて熱さが減り、水蒸気がもうそれ以上溶け切つた儘で居られなくなると、初めて眼に見える水蒸気の塊り、即ち霧か雲かになる。
『空の上層で寒さが加はつて来て、其の水蒸気が一定の程度まで凝縮すると、雲から水の雫が出来て、それが雨となつて降つて来る。最初は小さなものだが、落ちて行く途中で、別な小さな雫と一緒になつてかさを増して来る。だから、高いところから降つて来れば来るほど、其の雨は大きくなる。が、いくら大きくなつても、其の雨も勤めなければならない役目に相応した限度を超える事はない。それがあまり大きくなれば、其の注ぐ草木の上へあまり重く落ちて、草木を倒して了ふ。で、若し此の水蒸気の凝縮が、ゆっくりとだん/\に行はれないで、突然行はれたとしたら何うだらう。忽ちどしや降りの大雨になつて草木は倒れ、穀物の収穫は目茶々々になり、我々の家の屋根までも流して了ふだらうが、雨はそんな乱暴な降りかたをしないで、其の降つて来る路にある、何にかのふるいにでもかけられて来たやうに、粒になつて降つて来る。だが、稀れには、教育のない人をびつくりさせるやうな妙な雨が降る事がある。血の雨だの硫黄の雨だのが降つて来た時誰れがこれにびつくりしないものがゐるかね。』
『叔父さん、血の雨や硫黄の雨ですつて? 僕ならびつくりしますね。』とエミルが叔父さんの言葉を遮つて云ひますと、
『私しだつてよ。』とクレエルも云ひました。
『それは本当ですか。』今度はジユウルが尋ねました。
『本当だとも、私は嘘の話なんかしやしないよ。少くとも見掛けだけでは、血の雨もあれば硫黄の雨もある。血のやうな赤いものが壁や路についてゐたり、又木の葉や道を歩く人の着物についてゐたりしたのを、見て来た人があるからね。又或る時、雨と一緒に硫黄のやうな黄色い粉が空から降つて来た事がある。が、これは本当に血の雨や、硫黄の雨なんだらうか。それは違ふ。此の血の雨だの硫黄の雨だのと云ふのは、実は風に吹き上げられた色んな花粉の入つた雨なんだ。春になると、山国では広い樅林もみばやしに花が咲く。そして風が吹く度に小さな樅の花にくつ附いた黄色い粉を運んで行く。どんな花にも同じやうな粉があるが、殊に百合の花にはそれが沢山ある。』
『鼻をそばへ持つて行つて百合の匂ひを嗅がうとすると、鼻にくつつくあの粉がさうでせう。』とジユウルが云ひました。
『その通り。それは花粉と云ふものだ。花粉は其の儘遠方に落ちる事もあるが、風に煽られて雨と一緒になつて落ちるのが、その謂はゆる硫黄の雨なんだよ。』
『そんな血の雨や硫黄の雨はちつとも怖かあありませんわ。』クレエルが云ひました。
『勿論怖かあないよ。だが、それでも世間の人々は、此の花粉の旋風つむじかぜを見て胆を潰してゐるんだよ。そんな人達は、それを見て、疫病の前兆だとか此の世の終りだと思つてゐるのだ。何んにも知らないと云ふ事は実に憐れなものだ。が、知識は、そんなばかな心配をさせないだけでも有難いね。』
『今に硫黄の雨や血の雨が降るかも知れんが、人がいくら怖がつたつて、僕だけは大丈夫だぞ。』とジユウルが如何にも強さうに云ひました。
『空からは雨と一緒に、又は雨は降らなくても、いろんな小さな物が降つて来るかも知れないね。例へば砂だとか、チヨークの粉だとか、道ばたの埃だとか云つた物がね。小さな動物や、毛虫や、昆虫や、蛙が降つて来るのを見たと云ふ人さへあるのだよ。若し人々が、強い大風が吹くと軽い物は何でも持つたまゝ飛んで行つて、それを落すまでには非常な遠い処まで運んで行くものだと云ふ事を知つてゐたら、こんな雨の不思議は何んでもなくなるんだがね。
『又、此の風が運んで来るのとは違つた原因から昆虫の雨が降る事がある。たとへば、或るいなごはたべ物が失くなつてくると、ほかの土地へ引越すために大勢集まつて大きな群を作る。或る信号が掛かると、此の蝗の移民隊は、太陽の光を遮る程の大きな雲を形造つて空を飛んで行く。あまり大勢なので此の移住は数日もかゝる事がある。そして此の食ひしんぼうの蝗の群は生きた嵐のやうな勢で、遠い遠い処の野原に降りて来る。そして五六時間の中に草も木の葉も穀物も、野原のものは悉く食はれて了ふ。野火に焼けたやうな工合で、地上には草の葉一つ残らない。其のお蔭でアルジエリアと云ふ国の人達が餓死した事もあつた位だ。
『又、火山は燃え滓の雨を降らせる。火山灰と云ふのは、噴火の時、非常な高いところまで噴き上げられた灰の事だ。此の粉灰はすばらしく大きな雲のやうなもので、昼間を闇の夜同然の真暗にして了ふし、そして可なり遠方の地にまで降つて、動物や植物を埋め殺して了ふ事がある。』

四四 噴火山


『まだ夜も更けませんから、叔父さん、灰を夕立のやうに降らせる、あの噴火山といふ恐ろしい山の話しをして下さいませんか。』とジユウルが云ひました。
『噴火山』といふ言葉に、今まで眠つてゐたエミルが眼をこすつて耳を傾けました。彼れもこの話しが聞きたかつたのです。叔父さんはいつもの通り子供達の頼みをきいてやりました。
『噴火山といふのは煙りだの、焼け滓だの、真赤に焼けた岩だの、又熔岩といふ岩の熔けたものなどを噴き上げる山のことだ。頂上には煙突のやうになつた大きな穴がある。其の或るものは周囲が幾里もあるのもある。これが噴火口だ。噴火口の底はうねつた管か煙突のやうになつてゐるが、あまり深くて測れない。ヨーロツパの[#「ヨーロツパの」は底本では「ヨーロッパの」]主な噴火山は、イタリーのナポリの近所にある、ヴエスヴイアス山、シシリー島にあるエトナ山、それからアイスランドのヘクラ山等である。噴火山は大概休んでゐるか、又は現に煙を噴いてゐるかの、何方どちらかだ。しかし、其の休んでゐる山でも、時々轟々ごうごう唸つたり震えたりして、焼けただれた物を滝のやうに噴き出す。これを噴火するといふのだ。此の噴火がどんなものかと云ふ事を話すのに私はヨーロツパの噴火山中一番有名なヴエスヴイアスを例に引かう。
『噴火が起る前に、大抵、噴火口の穴を満たしてゐる煙が真直に噴き上げられて、風のない日だと約一哩も空高く上る。此の煙は空に登る時は、毛布のやうに拡がつて太陽の光線を遮ぎる。噴火の数日前は煙りが噴火山上に沈んで、黒い大きな雲のやうに山を掩ひ包んで了ふ。それからヴエスヴイアス山の周囲の土地が震ひ出す。地の中でゴー/\いふ爆発の音が聞える。時の経つにつれて其の音が激しくなり、間もなく烈しい雷鳴になつてしまふ。まあ砲兵隊が山腹で絶え間なしに射撃してゐる爆音を聞いてゐるんだと思へばいゝ。
『忽ちの中に火の塊が噴火口から噴き出されて、二三千メートルの高さまで上る。噴火山の上に浮いてゐる雲は赤い焔に照らされて、空が燃えるやうに見えて来る。何千万とも知れぬ多くの火花が、火柱の上の方へ稲妻のやうに飛んで行つて眩しい尾を引きながら弧を描いて、火山腹へ火の雨となつて降る。此の火花は遠方から見るとごく小さな物だが、実は白熱した石の塊だ。中には直径数メートルに及んで、落ちる折に厳丈な建物を押し潰す位の重さを持つてゐるものがある。人工の機械で、何うしてこんな大きな石を、こんなに高くまでなげる事が出来るものか、人間の力では一遍だつて出来ない事を、噴火山は手玉に取るやうに繰り返し/\何遍もやる。幾週間幾月と云ふもの、ヴエスヴイアス山はかうして此の赤くなつた石を花火の粉のやうに無数に噴き出したのだ。』
『それは怖ろしくもあるが、又綺麗なものでせうね。』とジユウルが云ひました。『僕、噴火が見たいなあ、勿論遠方からね。』
『すると山の上の人達は?』とエミルが尋ねました。
『そんな時には誰も用心して山へは行かない。行くと生命を失ふかも知れないし、煙りで窒息するかも知れず、真赤に焼けた石に押し潰されるかも分らないからね。
『其の中に山の深い底から噴火口を通つて熔けた鉱物や熔岩が噴き出されて、噴火口に拡がり、太陽のやうに眩しい火の湖を造つて了ふ。野原にゐて気遣はしげに噴火の進行を眺めてゐる見物人は、此の空高く漂つてゐる煙に映る美しいイルミネーシヨンを見ると、熔岩の洪水が襲つて来やしないかと心配する。が、噴火口はもう一杯だ。そこで、突然地震がして、雷鳴と諸共に爆破して、その裂け目の間から、噴火口の端の方からと同様に熔岩が川のやうに流れる。此の火の流れは、熔けた金属のやうな糊のやうなもので、緩々ゆるゆると流れて、その前にあるものをすべて焼き尽して了ふ。そこから逃げる事は出来るが、地に止まつてゐるものは何もかも失くなつて了ふ。木は熔岩に触ると忽ち燃えて炭になり、厚い壁は焼けて倒れ、堅い岩も硝子のやうになつて熔けて了ふ。
『が、此の熔岩の流れは、遅かれ早かれ、止んで了ふ。すると、地中の水蒸気が、今まで圧へられてゐた波動体の圧迫から逃れて、恐ろしい勢で飛び出して来て、雲のやうに舞ふ細かい塵の旋風を起しながら、近所の野原に降りるか、或は数百里もの遠い処へ風で運ばれて行く。そして最後に、恐ろしい山も静まつて、又もとの平穏に帰る。
『若し噴火山の近所に町があつたら、その火の河は其処へ流れ込んで来ないでせうか。そして灰の雲が其の町を埋めて了ひやしないでしようか。』とジユウルが訊きました。
『不幸にしてそんな事もあり得る。そして又実際ありもした。その話しは明日することにして、もう時間だ、寝やうぢやないか。』

四五 カタニア


『昨日ジユウルは噴火山の近くにある町には熔岩の河は流れて来ないものだらうかと尋ねたね。』とポオル叔父さんは話し出しました。『これからお話しするのは其の返事だ。エトナ山の噴火の話だよ。』
『エトナといふのは、百ぴきの馬の栗の木のあるあのシシリイ島の噴火山ですね。』とクレエルが云ひました。
『さうだ。今から二百年程昔しのこと、シシリイに歴史上最も烈しい大噴火が起つた。激しい暴風雨あらしがあつた後で、沢山の馬が一時にドツと倒れるやうな強い地震が夜中つゞいた。木はあしが風に靡くやうにぎ倒され、人は倒れる家の下に圧しつぶされないやうに気狂ひのやうに野原へ逃げようとしたが、震へる地上に足場を失つて、つまずき倒れた。丁度その時、エトナは爆発して四里程の長さに裂けて此の割れ目に沿ふて沢山の噴火口が出来、爆発の恐ろしい響きと諸共に、黒煙と焼け砂とを雲のやうに吐き出した。やがて、此の噴火口の七つが一つの深い淵のやうになつて、それが四ヶ月間雷鳴したり、唸つたり、燃え滓や熔岩を噴き出した。エトナ山の旧噴火口は、初めは全く静におさまり返つて、其の炉は新しい噴火口の炉とは何んの関係もないやうに思はれたが、四五日の後には再び目覚めて、焔と煙の柱を非常に高く噴き上げた。そこで山の全部が揺れて、旧噴火口の上にあつた山の頂は火山の深い谷底へ落ち込んで了つた。其の翌日四人の登山者が無理に山の頂きに登つてみた。噴火口は昨日の落ち込みで随分拡がつてゐた。そして孔の口は前には一里程あつたのが、こんどは二里程になつてゐた。
『其のうちに熔岩の河は山の凡ての裂け目から流れ出して、家や森や作物を滅ぼしながら平原の方へ流れて行つた。此の噴火山から数里離れた海岸に丈夫な壁に取り囲まれたカタニアと云ふ大きな町があつた。火の河はたうとう数ヶ村を飲み尽して、カタニアの壁の前まで来た。そして其の近郊に拡がつて行つた。火の河は其の強い力を慄へるカタニアの人々に見せつけるやうに、一つの岡を引つこ抜いてそれを遠くへ持つて行き、葡萄を植ゑた畑を一と塊りに持つて行つて、其の緑の草木が炭になつて消え失せるまでそれをあちこちと漂はした。最後に此の火の河は広い深い谷に着いた。カタニア人は皆これで助かつたと思つた。今に火の河は、此の広い谷底を埋めて了ふ前に、其の力をなくして了ふだらうと思つたのだ。がそれは甚しい当て違ひであつた。たつた六時間の短い間に、谷は一杯になつて、熔岩は溢れ出し、幅半里高さ十メートル(三丈)もある河になつて、一直線に町に向つて進んで来た。若し其儘進んで行つたら、カタニアは既に全滅して仕舞つたかも知れない。幸ひな事には、其時他の火の河が流れて来て最初の河を横切つた。それで最初の河はカタニアへは来ないで、その進路を換へて了つた。そこで此の方向を換へた河は、見る間に町の壁に沿ふて海の中へ流れ込んだのである。』
『叔父さんが家程の高さの火の河が、町に向つて一直線に流れて来たと話した時には、僕カタニア人を可哀さうに思つて随分心配しましたよ。』とエミルが口を出しました。
『まだすつかり済んだんぢやないよ。』と叔父さんは言葉をつゞけました。『今話した火の河だね、それは海へ流れ込んで行つたんだ。そして水と火との間に激しい戦さが持ち上つた。熔岩は長さ千五百メートル高さ十二メートルの戦線を造つて進んで行く。此の火の壁はたうとう海の中へ進んで行つて水蒸気の大きな煙りが恐ろしく激しい音を立てゝ立ち昇る。そして濃い雲で空を曇らせて、此の辺一帯塩辛い雨を降らせたのだ。そして四五日の間に、此の熔岩は岸から三百メートルも遠くへ行つた。
『しかし、カタニアはまだ危険だつた。火の河は支流を合はせて日に/\大きくなり、だん/\町に近づいて来た。町民は城壁の上の方から此の禍の執念深く迫つて来るのを慄えながら見守つてゐた。遂に熔岩は町の壁に届いた。火の波は、ごく緩くりではあるが絶え間なくだん/\上つて来て、もう塀よりも高くなりさうに見えて来た。やがて、壁の上とすれ/\になつた。すると、其の圧力を受けて、壁が四十メートル程毀れた。そして火の河は町の中へ侵入して来た。』
『まあ!』とクレエルが声を立てました。『可哀さうにそこの人達は皆んな死んだのですね?』
『いや、人は死にやしなかつた。と云ふのは、熔岩はべた/\したもので緩くりと流れて来るのだし其の時はもう皆んな十分用心してゐたんだからね。で、ひどくやられたのはたゞ町だけだつた。熔岩の雪崩込んだ処は一番高い処で、其処から四方へ拡がる事の出来る場所だつた。つまりカタニアは全滅しなければならないものと思はれてゐた。けれども此の火の流れと戦つた勇敢な人々のお蔭で、町は救はれた。其の人達は此の火の河の流れて来る道筋に、その方向を変へさせるやうな石垣を造らうとした。この工夫も多少うまくは行つたが、しかし次ぎの工夫の方がもつとうまく行つた。熔岩の河は、直ぐと其の表面が固まつて、自然と堅い鞘のやうなものに包まれる。そして此の蓋の下では依然として液体のまゝのものが其の進行をつゞけてゐる。其処で人々は此の自然の溝を適当の場所で破壊して、別に町を横断する道を開いてやつたら、そこから流れ出て町を通り抜けて了ふだらう、とかう考へたのだ。そこで十分な警戒が済むと、頑丈な人々が、噴火山から遠くない処で鉄棒を揮つて火の河を壊さうとした。が、余り熱が劇しいので、続けさまに二つ三つ叩くと、そこから遠のいて休まなければならなかつた。然し、それでも此の人々は遂に此の堅い鞘に孔を穿ける事が出来て、予想した通り、熔岩は此の孔から流れ出した。そして、カタニアは大損害を受けたには受けたが、とにかく助かつた。熔岩の河が町の壁に届く迄の間に、三百戸の人家と二三の宮殿と、数組の教会とは滅亡させられて了つたのである。カタニア以外の場所では、此の不幸な噴火は、五平方里から六平方里の土地を、或る所では十三メートルの厚さに熔岩が敷きつめ、そして二万七千人の家を亡して了つた。』
『生きたまゝ焼かれるかも知れないのに、そんな事には構はず出かけて行つて、火の河の路を開けてやるやうな勇ましい人々が居なかつたら、カタニアはきつと亡んでゐたに違ひありませんね。』とジユウルが云ひました。
『勿論カタニアは全部焼け失せて了つたかも知れない。そして其の町は冷めたい熔岩の下に埋もれて、昔しの大都会の名前だけが今日僅かに残つてゐるだけだつたかも知れない。僅か三四人の強い心を持つた者が、気の挫けた皆んなの勇気を甦へらせる。皆んなは天が其の努力を助けることをねがつて、其の身を犠牲にして恐ろしい災難を防ぐのだ。お前達も危険な時に出遭つたらこれを手本にしなくてはならない。知識の勝れた人は、心もそれ以上に勝れてゐなければならない。私のやうに年をとると、お前達の知識が殖えた事をきくよりも、お前達の行つた善い事の話を聞いた方が余程嬉しい。知識と云ふものは人を助ける手段に過ぎない。いゝかい、忘れちやいけないよ。で、大きくなつたら、お前達はカタニアの人々がしたやうに危険を背負つて立たなければならない。私の慈愛と話しのお礼に、これだけ頼んでおくのだよ。』
 ジユウルはそつと涙を拭きました。叔父さんは良い素地の中へ其話しの種をまいた事を覚りました。

四六 プリニイの話


『噴火山から噴き上げられた灰はどんな事をするか。其の説明の代りに、昔の有名な文士の伝へ残した、古い古いお話しをしやう。此の文士はプリニイと云ふ人で、其の頃世界に一番勢力のあつたラテン語でこの話を書いたのだ。
『救ひ主キリストの仲間がまだ生きてゐた、紀元七十九年の事である。其の頃ヴエスヴイアス山は何事もない穏やかな山だつた。今日のやうな煙の出る山になつてゐたのではなく、僅かに持ち上つた岡で、埋もれた噴火口の跡には小さな草や野葡萄が生えてゐただけだつた。そして山腹には豊かな穀物が繁つて、麓の方にはヘルクラニウムとポンペイといふ賑やかな二つの町があつたのだ。
『最後の噴火が人々の記憶にも残らぬ程の昔になつて、これからは永遠に鎮まるものと思はれてゐた此の噴火山は、突然生き返つて煙りを出し始めた。八月二十三日の午後一時ごろ、何時もは見慣れない雲が、白くなり、黒くなりしてヴエスヴイアス山の上に漂ふてゐた。地の底から押し出す強い力のために、此の雲は初め木の幹のやうに真直に立つてゐたが、非常に高くまで登つてから、急に自分の重さに押し下げられて広く拡がつて行つた。
さて、其の頃、ヴエスヴイアスから遠くないメシナといふ港に、此の話しを伝へたプリニイの叔父さんが居た。此の人は自分の甥と同じくプリニイといふ名の人で、此の港に碇泊してゐたローマ艦隊の司令官だつた。そして非常に勇敢な人で、新しい事を知るとか、他人を助ける場合には、どんな危険も恐れなかつたのだ。ヴエスヴイアス山上に漂ふ一筋の雲を見て驚いたプリニイは、直ぐ様艦隊を出動させて、困つてゐる海岸町の人を助けたり、近所から怖ろしい雲を観察したりした。ヴエスヴイアスの麓の住民は気違ひのやうになつて、狼狽うろたへて騒いで逃げた。プリニイは皆んなが逃げてゐる、此の一番危険な方へ行つたのだ。』
『偉い!』とジユウルが叫びました。『恐がらない人に勇気が湧くんだ。僕は危険と云ふ事を知つて噴火山へ急いで行つた、プリニイが大好きになりました。僕もそんな処にゐたかつたなあ。』
『おい/\、そんな呑気なところぢやないんだよ。燃え滓は熔岩と一緒に船の上に落ちて来るし、海は怒つて底まで荒れ出すし、岸には山の崩れが積つて邪魔になるし、仲々近寄る事が出来ないのだ。もう逃げ帰るよりほかに仕方はなかつた。艦隊はスタビイへ行つて上陸した。そこは少し離れてはゐたが、だん/\に危険が迫つて来て、皆んなは早くも周章あわててゐた。やがてヴエスヴイアスのごく間近で大火焔が破裂した。四辺あたりは灰の雲で真暗闇になつてゐたので、其の劇しい眩しさが愈々恐ろしさを増した。プリニイは仲間の者共を安心させるために、此の火は取り残された村に火が移つたのだと云つた。』
『プリニイは仲間に勇気をつけやうと思つてさう云つたのですが、自分では実際の事をよく知つてゐたのでせう。』とジユウルが口を添へました。
『それはよく知つてゐたのさ。非常に危いといふ事を知つてゐた。けれども彼れは疲れてぐつすり寝込んで仕舞つた。そしてプリニイが眠つてゐる間に、雲はスタビイの町を巻きこんで仕舞つた。彼れの部屋につゞいた庭はだん/\燃え滓が一杯になつて、もう少し経つと彼れは逃げ出す事も出来なくなりさうだつた。仲間は彼れを生埋めにさせまいとして、そして又何うしたらいゝか尋ねるために、プリニイを起した。家は絶え間のない地震のために土台から折れる位、前後に揺り動かされてゐた。そして沢山の人が死んだ。たうとうもう一度海へ出る事に決まつた。石の雨が……実際小石と火のついた燃え滓とが雨のやうに降つて来る。人々は此の雨を避けるために、枕を頭にのせて、恐ろしい真暗闇の中を抜けて、手に持つた松明たいまつの光りで漸く海岸へ向つて進んで行つた。プリニイはちよつと休まうと思つて地の上に坐つた。丁度其の時、強烈な硫黄の匂ひのする大きな火が飛んで来て、皆んなをびつくりさせた。プリニイは立ち上つたが、そのまゝ死んで倒れて仕舞つた。噴火山の熔岩や燃え滓や煙がプリニイを窒息させたのである。』
『可哀さうに! 恐ろしい火山の煙りが、あの勇敢なプリニイを窒息させたんですね。』とジユウルがいたましさうに云ひました。
『叔父さんの方はかうしてスタビイで死んだが、母親と一緒にメシナに残つてゐた甥は、次ぎの様な目に会つた。叔父が出発した夜激しい地震があつた。母はびつくりして急いで私を起しに来た。私は起ち上つて母を起しに行かうとするところだつた。家が潰れる位ひどく揺れるので、我々は海に近い庭に出て坐つてゐた。そして当時十八歳だつた私は、若気の不注意で本を読み始めた。其処へ叔父の一友人が来た。母も私も一緒に庭に坐つて居り、殊に私は本を手にしてゐたのを見て、心配してくれる余り二人の呑気さを叱りつけて、もつと身の安全を計るやう気をつけさせた。まだ朝の九時頃だつたが、空は薄暗くて、あたりもよく見えなかつた。時々家がひどく揺れて、何時倒れるかも分らないやうに思はれた。我々は他の人々のやる通りに町を立ち退く事にして可なり行つて畑の中に止まつた。持つて来た荷車が地震のために、始終動揺するので石で車輪に歯止めをして、漸くの事で動かないやうにした。海水は自然と満ちてゐたが、地震のために岸から押し戻されて、砂の上に夥しい魚の群を残して行つた。恐ろしい黒雲が我々の方へ襲ふて来た。その横側には、すばらしい大きな稲妻の光りのやうな、火のすじがうねつてゐた。雲は直ぐに降りて、地と海とを掩ふた。其時、母は私に云つた。若い力に任せて、大急ぎで此の場を遁げるがいゝ、もう年老つた母と足を合はせたりして、此の危急の死に逢ふやうな事があつてはいけない。私が危険を脱したと知つたら、母は安心して死ぬ事が出来るといふのだつた。』
『では、プリニイは一刻も早く遁れやうとして、其の年老つたお母さんを置いてきぼりにしたんですか。』とジユウルが訊きました。
『いや、さうぢやない。そんな場合にお前達皆んながやるだらう通りに、プリニイもやつたのだ。彼れは留つて母を介抱したり、力をつけてやつたりして、母と一緒に生きるか、母と一緒に死ぬか何方かだと決心したのだ。』
『偉い!』とジユウルが叫びました。『此の叔父ありて、此の甥ありですね。それから何うしたんです。』
『さアその後が大変だ。燃え滓は降つて来る。暗くはなる。もう何にも見えない程真暗になつて了つた。さあ泣き喚く声、立ち騒ぐ声、大騒ぎが始まつた。人々は恐れ狂つて当てどもなく逃げ廻つて、衝突するやら、人を踏み倒すやらした。大がいの人はもう此の夜を最後の夜だ、世界を包む永遠の夜だと覚悟した。多くの母は、手探りで、人込みの中で見失つたか逃げる人の足で踏み潰されたか分らない其の子を尋ねて、もう一度抱いてから死にたいと哀れな泣き声を出して叫んだ。プリニイと其の母とは、群集から離れてずつと坐つてゐた。絶えず二人は立ち上つては、二人を埋めにかゝる燃え滓を払ひ落した。遂に雲が散つて、再び太陽が現れた。何もかも厚い火山灰や燃え滓に埋められて仕舞つて、土は見る事も出来なかつた。』
『では、人家は燃え滓に埋められて了つたんですか。』とエミルが尋ねました。
『山の麓では、噴火山から噴き上げられた灰が高い家よりも深く降つて来るから、町がすつかり燃え滓の下敷になつて了つた。その中で有名なのはヘルクラニウムとポムペイとだ。噴火山はこれらの町を生埋めにして了つたんだ。』
『人間もそのまゝ?』とジユウルが訊きます。
『あゝ、それはごく少しだ。大抵の人々はプリニイやその母のやうに、メシナの方へ逃げるだけの余裕があつたのだ。埋められてから十八世紀経つた今日、ヘルクラニウムもポンペイも、火山灰の雲に降りかけられた昔の姿で、鉱夫の鶴嘴で掘り出されてゐる。まだ済まない処は葡萄園が繋がつてゐるがね。』
『では、その葡萄園は家の屋根なんですね。』とエミルが申しました。
『家の屋根よりももつと高い。旅人はよく、まだ掘り出されてはゐないが、しかし井戸のやうなものを伝つて行く事の出来るあたりを訪ねて行つて、随分深い地の底まで降りて行く。』

四七 ※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)え立つ茶釜


 叔父さんの話しが済んだところへ、郵便配達夫が手紙を持つて来ました。或るお友達が急用があるから、ポオル叔父さんに町まで来てくれといふのでした。叔父さんは此の機会を利用して、其の甥達に小さな旅をさせてやらうと思ひました。そしてジユウルとエミルとに着物を着かへさせて、近所の停車場に行つて汽車を待つ事にしました。停車場に入ると叔父さんは事務員の坐つてゐる格子戸の側に寄つて、窓口からお金を出してやりました。それと引換へに事務員は三枚の切符を渡してくれました。ポオル叔父さんは室の入口の番をしてゐる男に此の切符を見せました。其の男は切符を見て、三人を室の中に通しました。
 三人は待合室といふものゝ中にはひつたのです。エミルとジユウルとは眼を大きく開いたまゝ何にも云ひません。間もなく蒸気の漏れる音が聞えて来て、汽車が着きました。先頭に来たのは機関車で暫く停車するために速力を弛めて居りました。待合室の窓からジユウルは人が通り過ぎるのを見て居ります。すると或る考へが頭の中に浮いて来ました。何うしてあの重い機械が動くのだらう。どうして車輪は鉄棒で押すやうにあんなに廻るのだらう……と。
 三人は汽車に乗りました。蒸気がシヤキシヤキ音を立てゝ、汽車が揺れたかと思ふと、もう走り出しました。暫くしてから全速力で走り始めると、『ポオル叔父さん。』とエミルが申しました。『あれあんなに木が走りますよ。踊つて廻つてゐますよ。』叔父さんは黙つておいでといふやうな顔附をしました。それには二つの理由があります。第一に、エミルは非常に詰らない事を云つたからです。第二に、叔父さんは公衆の前で老人に似合はしくない恥をかくのが嫌だつたからなのです。
 そればかりではなく、ポオル叔父さんは旅行中は無口な人で、たしなみ深い態度を取つたまゝ黙つて居ります。折々、今までに見た事も無く、これからも亦逢ふ事もなささうな人間で、旅行中随分仲好しになる人があるものです。こんな人達は黙つてはゐないで、随分喋舌りたがります。ポオル叔父さんはかうした人達を好きません。そしてこんな人々は意志が弱いのだと信じてゐるのです。
 夕方になつて、皆んなは大喜びで帰つて参りました。旅行をしてポオル叔父さんは自分の用事を町で都合好く片附けて来ましたし、エミルとジユウルとはお互ひに新しい知識を得て帰りました。アムブロアジヌお婆あさんの大奮発の御馳走で、皆んなが晩餐を終へますと、ジユウルが真先に自分の得て来た知識を叔父さんに話しました。
『今日見たものゝ中で、僕を一番感じさせたのは、長い列車を曳つ張つてゆく、機関車といふ、汽車の先頭にある機械でした。如何してあれは動くのでせう。僕はじつと見てゐたんですけれど分りませんでした。駈けて行く獣のやうに自分で走つてゐるやうですね。』
『自分一人で行くんぢやない。』と叔父さんは答へました。『蒸気が動かして行くんだ。そこで、先づ蒸気と云ふのは何の事だか、そして其の力と云ふのは何んの事だか研究してみようぢやないか。
『水を火にかけると、初めはぬるまつて来て、次ぎに空中に飛んで行く水蒸気を出しながら※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)え立つて来る。もつと、※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)続けてゐると、鍋の中には水が何にもなくなつて了ふ。水はすつかりなくなつてゐる。』
『一昨日アムブロアジヌお婆あさんもそんな目に逢ひましたよ。』とエミルが口を入れました。『お婆あさんは馬鈴薯じゃがいもを煮てゐたんですが、暫く鍋の中を見ないで放つておいたものですから、水が一雫もなくなつて了つて、半焦げになつてゐましたよ。だからお婆あさんは遣り直さなけりやなりませんでした。アムブロアジヌお婆あさんは厭な顔をしてゐましたつけ。』
『熱を受けると』とポオル叔父さんはつゞけました。『水は目に見えなくなつて、触つても分らない、空気のやうなものになる。それが謂はゆる水蒸気だ。』
『霧や雲になる空中の湿気も、やつぱり水蒸気だと教へて下さいましたわね。』今度はクレエルが云ひました。
『さう/\、それも水蒸気だが、それは只太陽の熱で出来た水蒸気だ。今度は、熱が強ければ強いだけ、水蒸気は沢山出来るものだと云ふ事を知らなければならない。試しに水を一枚入れた鍋を火にかけてごらん。炉の暑い熱は、夏の暑い太陽の熱で出来るのとは比較にならぬ程、沢山の水蒸気を出す。かうして長い間水蒸気が鍋から勝手に逃げ出して行くのに、何にもこれと云つて目立つた点は無いし、お前達も※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)立つた鍋の湯気に気を附けるやうな事もあるまい。だが、若し此の鍋に、ほんの小さな隙もない程しつかりと蓋をして置くと、大きな嵩に脹れあがらうとする水蒸気は、無暗矢鱈むやみやたらに此の牢屋から逃げ出さうとする。そして其の膨脹を妨げる邪魔物をとりのけようとして、四方八方に押す。そして其の鍋がどんなに堅固なものであつても、押し込められた蒸気の圧す力は、遂にはそれを破裂させて了ふ。それを私は小さな壜で実験して見やうと思ふ。鍋では蓋を十分固くすることが出来ないし、蓋も直ぐ水蒸気に押し上げられるから、鍋は使はない事にする。尤も適当な鍋があつたとしても、私はそんなものは使はないに違ひない。そんなものを使つたら家までも吹き上げて、私始め皆なを殺して了ふからね。』
 ポオル叔父さんはガラス製の薬瓶を取り出して、指の高さ程水を入れ、コルク栓で固く栓をつめて、針金でコルクを縛りました。此の準備が整ふと、薬瓶は火の前の方の灰の上に載せられました。そして叔父さんはエミルとジユウルとクレエルを連れて大急ぎで庭に出て遠方から何うなるか眺めてゐました。四五分間も待つと、ポーンと音がしました。皆んなは駈けて行つてみますと、薬瓶はれて、非常な強い力で彼方此方へ散らばつてゐました。
『此の瓶の破裂したわけは、逃げ路を失つた蒸気が、温度が高まるに従つて、段々強く牢の壁へ圧力を加へて行つたからだ。そして瓶が、もうとても蒸気の圧力に堪える事が出来なくなつた時に、瓶は粉々に破裂する。此の鍋の内部に加はる蒸気の圧力を弾力と云ふのだ。熱が強ければ強い程この弾力も強い。で、十分に熱すると、ガラス瓶は勿論、ごく厚くて、ごく堅い鉄や銅の鍋も、又其他の抵抗力の強い何んでもを破裂させる非常な力のものになる。そんな場合の爆発は怖しいどころの話ぢやない。その鍋の破片は、大砲の弾丸や爆弾と同じ強い力で投げ飛ばされるのだ。飛んで行く道にあるものは何でも壊されるか打ち倒されて了ふ。火薬もこれ以上の怖ろしい結果は起す事が出来ない。今私がガラスの薬瓶でやつて見せた実験も万更危くないではない。お前達は此の危い実験で盲目になつて了ふかも知れないのだ。だから、よく用心をして一度やつて見るのはいゝが、お前達が又繰り返してやつて見る必要はない。で、よく聞いてお置き、お前達は栓をした瓶で水を温めてはいけないよ。いゝかい。そんな悪戯わるさをしては眼を潰すかも知れないんだからね。若しも今云つた事を守らないやうだつたら、もうお話しはさようならだ。私はお前達のお相手は御免蒙るよ。』
『御心配はいりませんよ、叔父さん。』ジユウルが横から急いで口を入れました。『僕たちはそんな事をしないやうに注意します。危いですからね。』
『では、お前達は何が機関車や其他のいろんな機械を動かすのか分つたね。しつかり蓋をした、丈夫な汽鑵の中で、熱した炉の力で蒸気が出来るのだ。強い力を持つた此の蒸気は、いろ/\な方法で逃げ出さうとする。そして其の逃げ路を遮つてゐる所に特に圧力を加へる。かうして、あの機関車を動かしたやうに、何でも動かす力が出て来るのだ。最後にもう一度云つて置くが、どんな蒸気機械にでも、其の力を産む一番大事な物は汽鑵だ。即ち水を沸かす緊め切りの釜だ。』

四八 機関車


 ポオル叔父さんは次のやうな絵を甥達に見せて、説明をしました。
『これは機関車の絵だ。蒸気の出来る汽鑵、即ち湯を沸す釜は、此の大部分を占めてゐるのだ。それは六つの車の上に載つて、此方の端から向ふの端まで行つてゐる、此の大きな円筒だ。丈夫な鉄の板で出来てゐて、大きな釘でしつかりと縫ひ合はせてある。汽鑵の前の方には煙突があつて、後の方には炉がある。火夫と云ふ男が、大きなシヤベルで絶えず其の中へ石炭を投げ込んでゐる。汽鑵の中にはいつてゐる沢山の水を沸かして、十分な蒸気を出すために、火熱を絶やしてはならないからだ。火夫は鉄の棒で火を掻き廻し、火の廻りを好くして、よく燃えるやうにする。それだけではない。上手に火循ひめぐりを好くすると、熱を十分に利用して、水を早く沸かす事が出来るのだ。炉の端からは銅管が幾つも幾つも出てゐて、それが汽鑵の端から端まで水を通して、煙突のところまで行つてゐる。その中を見せるために、此の画では殊に汽鑵の一部を毀してある。炉の中の火焔は、水の中を通つてゐる、これ等の管の中を抜ける。かうして火は水の真ん中を廻つて、ごく早く蒸気が出来るやうになつてゐる。
『こんどは機関車の前の方を見て御覧。そこには密閉した短い円筒があるが、此の画ではその内部も見せるために、やはり其の外がはを毀してある。此の円筒は汽筒と云つて、機関車の右に左に一つづつある。此の汽筒の中にはピストンといふ鉄の栓がある。汽鑵の蒸気はピストンの前と後ろとに代る/″\汽筒の中にはいつて来る。蒸気が前の方にはいつた時には、後の方に詰つてゐた蒸気は、其時にだけ開くようになつてゐる穴から自由に空中に抜け出す。此の抜け出す蒸気は、其の牢屋が開かれてそとへ出るのだから、もうピストンを押さない。我々だつて出口が開いてゐる時には、其の戸を押さうとはしない。蒸気もやはりそれと同じ事なんだ。自由に抜け出る事が出来れば、もう押さうとはしない。それとは反対に、そこへはいつて来た蒸気は出口がないので、其の全力でもつてピストンを押す。そして汽筒の向ふの端までそれを押して行く。すると、此の蒸気の役目は急に変つて、今まで押してゐたのがこんどは空中へ抜け出て、其のあとへ又汽鑵から出て来た蒸気がつまつて、こんどは反対の方向にピストンを押して行く。』
『本当に分つたかどうか、僕にも一度云はして下さい。』とジユウルが云ひました。『蒸気は汽鑵の中で絶えず造られて、そこから出て来ます。そして汽筒の中に、代りばんこにピストンの前と後ろにはいります。それが前の方にはいると、後ろの方の蒸気は空中に逃げ出して、もう其のピストンを押しません。そして、それが後ろの方にはいると、前の方のが抜け出します。かうしてピストンは、代る/″\前へ押され後へ押されて、汽筒の中を進んだり退いたり、行つたり来たりします。それから如何なるのですか。』
『ピストンには堅い鉄の軸のやうなものがついてゐて、それが汽筒の端の真中にあけてある穴から汽筒の中へはいつてゐる。その穴は此の軸を通すだけで決して蒸気を抜け出さすやうな事はない。此の軸は通動機つうどうきといふものと連結してゐて、そしてやはり鉄で出来た此の通動機は、又其のそばの大きな車にくつついてゐる。挿絵で見れば、そんなものは皆なよく分る筈だ。そこで、汽筒の中で、進んだり退いたりしてゐるピストンは、其のたびに通動機を前後に押し動かす。そして通動機はそれにつれて大きな車を廻す事になる。機関車の向ふ側でも、もう一つの汽筒の中でやはり同じ事が行はれる。そこで二つの大きな車が同時に動いて、機関車は前の方に向つて進むのだ。』
『思つた程むづかしいものではありませんね。』とジユウルが云ひました。『蒸気がピストンを押して、ピストンが通動機を押して、通動機が車を押して、さうして機械が動くのですね。』
『ピストンを動かすと、その蒸気は煙の出るのと同じ煙突に入つて行く。だから時々此の煙突から白い煙が出たり、黒い煙が出たりする。その黒いのは炉から出て水の中を通つて行く管から抜けて来る煙で、其の白いのは、ピストンを動かした度に汽筒から出て来る蒸気なんだ。そして此の白煙は、ピストンを動かすたんびに、汽筒から煙突の中へ激しくほとばしり出て、あの機械の音を出させるんだ。』
『あゝ、僕知つてゐますよ、ポツ、ポツ、ポツ。』とエミルが大きな声で云ひました。
『機関車は又、その火を燃し続けて行くための石炭と、汽鑵の中を絶えず一杯にして行くための水とを運んでゆく。それは炭水車と云ふ一機関車のぢき後ろにある運搬車で運ばれる。炭水車には炉の世話をする火夫と、蒸気の汽筒へ通ふのを調節する機関手とが乗つてゐる。』
『此の絵の中の人間は機関手ですか。』とエミルが訊きました。
『さう、機関手だ。手でハンドルを押へてゐるが、此のハンドルは必要な速力に応じて、汽鑵から汽筒へ蒸気を沢山出したり、少く出したりするためのものだ。此のハンドルを一方の方へ廻すと、蒸気は汽筒へ行かなくなつて機械は止つて了ふ。それから、其の反対の方にそれを廻はすと、蒸気は通つて、機関車は早くも遅くも心のまゝに動き出す。
『機関車の力は云ふまでもなく中々強い。が、重荷を積んだ長い列車を大速力で曳くとすれば、何よりも此の汽車を走らせる道路が問題になる。レエルと云ふ強い鉄の棒が、地面の上に堅く敷かれて、何処までも何処までも平行して、どの汽車の車輪も外れないやうになつてゐなければならない。車輪のまる浅い縁は、汽車をレエルから脱線させないやうになつてゐる。
『鉄道には、普通の道のやうに車の進行を妨げて無駄な力を出させるいろんな厄介なものがない。そして機関車の引いて行く力全体が利用されて、其の効果は著しいものとなる。即ち客車用の機関車は、一時間十二里の割合で、十五万キログラムの重さのものを曳く事が出来るし、貨車用機関車は一時間七里の割合で六十五万キログラムの重さのものを曳いて行く事が出来る。汽車でレエルの上を走る代りに、同じ重さの荷物を同じ速力で同じ距離だけ行くとすれば、客車の代りには馬が千三百頭入用だらうし、貨車の代りには二千頭必要になる。
『そこでだ。世界の到るところで、毎日数千の機関車が走り廻つて、ごく遠いところの人達を近づかせてその間の距離をなくなさしてゐるのだ。そして又、有らゆる種類の機械が蒸気に動かされて、人間のために働いてゐるのだ。そして此の機械は又、四万二千馬力もの力を持つて軍艦をも動かしてゐるのだ。水の入つた釜の下で少しばかりの石炭を燃やして、何といふ大変な強い力を人間は発見したものだらう。』
『誰れが一番初めに蒸気の使ひ方を考へ出したのですか。』とジユウルが訊きました。
『僕その人の名を覚えてゐたいと思ひます。』
『蒸気の機械力は、凡そ二百年ばかり昔、フランスの宝とも云ふべき、ドウニス・パペンといふ不仕合せな人が考へ出したものだ。この人は富の無限の源となる此の蒸気機関の土台を造つて、そして外国で貧苦に悩んで死んで了つたのだ。人間の力を百倍にもするその考へを実際に現はして見せるのに、彼は一文の金も得ることが出来なかつたのだ。』

四九 エミルの観察


 こんどはエミルが自分の見て来た事を話しました。『叔父さんが黙つておいでといふ合図をなすつた時は、実際木が走つてゐるやうに見えたんです。鉄道に沿ふた木は皆随分早く走つてゐました。ずらりと向ふに、長い列を造つて植えられた大きな白楊が、さようならと云ふやうにその梢を振つて行くのです。畑はぐる/\廻つて、家は飛んで行きました。しかしじつと見つめてゐたら、僕は直ぐ自分達が動いてゐるので、ほかのものは皆な動かないのだと云ふ事が分りました。不思議ですねえ、走つてゐるやうで、実際は少しも走つてゐないものを叔父さんも御覧になつたでせう。』
『我々が汽車の中の腰掛けにゆつくりと腰を下ろして、前の方へ行かうといふ努力も何んにもしないでゐる時』と叔父さんは答へました。
『若し我々がまはりにあるものと自分との地位と云ふ事を考へなかつたら、何うして我々は自分の動いてゐる事が分るだらう。目に見えるものが始終変つて行くので、我々は動いてゐると云ふ事が分るのだ。然し、我々のごく近くにあつて、いつも目の前にあるものは、即ち同じ車の中の旅連れや汽車の中の道具は、我々から見ていつも同じ場所にぢつとしてゐる。左の方にゐる人は何時も左の方にゐて、前の人は何時も前にゐる。汽車の中にあるかうした総てのものが動かないやうに見えるところから、我々は自分の動いてゐると云ふ事が分らなくなつて了ふ。そして自分はぢつとしてゐて、外の物がでてゆくのだと思ふのだ。汽車を止めると、木も家も直ぐ様動くのを止めて了ふ。只の馬車を馬に引かして行つても、又ボートを潮に流して行つても、やはりこれと同じやうな妙な幻覚を起させる。静かに動いて行くと、我々は自分の動いてゐる事を多少忘れて、実際には動いてゐない周囲の物が我々と反対の方向に動いてゐるやうに思ふ。』
『私は又それが分らなかつたものですから、目に見える通りだと思つてゐました。』とエミルが云ひました。『私達も動き、外のものも動いてゐるのだと思つてゐました。私達が早く走れば走る程、ほかのものも早く走るやうに見えますね。』
『今のエミルの無邪気な観察は、科学がそれを教へようとしても中々受入れられない真理の一つをお前達に其のまゝ見せたものだ。それは難しい事ではないのだが、たゞ幻覚のためにいつも多勢の人がだまされるのだ。
『若し人々が一生涯汽車に乗つたまゝ暮して、降りる事もなく、止まる事もなく、そして又速力を変へる事もなく過したとしたならば、その人々は木や家は動くものだと固く信じて了つたに違ひない。その目で見た事を経験で裏切られる事はないのだから、深い考へもなしでゐたらさう思ふより外に仕方がないのだ。ところで、その人々の中から、誰れよりも賢い一人の人が出て来て、かう云ふとする。「皆なは自分がぢつとしてゐて、山や家が動くのだと思つてゐる。しかし、それは反対です。我々が動くので、山や家や木はぢつとしてゐるのです」と。お前達は人々が此賢い人の云ふ事に同意すると思ふかね。どうして、どうして、皆んなは自分の眼で山が走つたり家が歩いたりするのを見たのだから、そんな人の云ふ事は鼻であしらつて了ふよ。いゝかね、皆んなはその人を鼻で笑ふに違ひないのだ。』
『でも、叔父さん…………』とクレエルが云ひかけました。
『でもなんて、云ふ事はない。皆んなは鼻で笑ふんだよ。そしてもつと悪い事には、怒つて顔を真赤にして了ふんだよ。クレエルや、お前なんか真先きに笑ふ方だらうね。』
『汽車が動くので、家や山が動くのではないと云つた人を、私が笑ふんですつて?』
『さうだ。周囲の総ての人が持つてゐて、そして自分にも一生涯つきまとつて来た間違つた考へと云ふものは、さう容易に消えるものぢやないからね。』
『え、それや出来ませんとも。』
『お前だつて、いつでも山を動かして、我々を乗せて行く車を動かないものにする事が出来るのだよ。』
『私、何んの事か分りませんわ。』
『お前は、我々を乗せて空中を走る汽車即ち地球を動かないものにして置いて、そして、此の地球とは較べものにならない程の大きな星の太陽を動くものにする。少なくともお前はかう云ふだらう。太陽が上つてその進路を走つて、沈んでそして翌くる日又同じ事を繰り返す。此の大きな星は動いてゐるので、そして我々の小さな地球は静かに太陽の動くのを見守つてゐるのだと。』
『それでも、太陽は光りを与へるために、空の一方から上つて、そして別な方に沈むものゝやうに確かに思はれますがね』とジユウルが云ひました。『月だつて星だつて、やはり同じやうにさうするやうですね。』
『それはかうなんだ、よくお聞き。私はある本で読んだのだが、或る処に容易い事では分らないと云ふ妙な癖の変人があつた。ごく簡単な事をするのにも、皆んなを噴き出させるやうな馬鹿げた大仕掛な方法でやらなければ気が済まなかつた。或る日、此人が雲雀ひばりを焼かうとしたのだが、さてどんな事をしたか当てゝ御覧! 何十遍でも何百遍でもいゝから、当てゝ御覧! 何あに、いくら考へたつて分るものぢやない。その男は沢山の歯車と、糸と、滑車と、分銅のついた、非常に入り込んだ機械を造つたのだ。その機械は全体が揺れながら、行つたりきたり、上つたり下つたりした。そのバネの音と、歯車の咬み合ふ音とは、耳が聾になる程激しかつた。分銅が落ちると家が震へた。』
『しかしそんな機械を何んに使ふのでせうか。』とクレエルが訊きました。『雲雀を火の前で廻はして焼くのにでも使ふのでせうか。』
『何あに、ごく簡単なものなんだ。雲雀の前で火を廻はす機械だつたのさ。薪も炉も煙突も皆な此の素晴らしい機械の中にあつて、それが一つになつて雲雀の周りをグル/\廻るんだ。』
『それは驚いた!』とジユウルがびつくりしたやうに云ひました。
『お前は此の妙な思ひつきを笑ふ。が、お前も此の変人と同じやうにやはり薪や炉や家を、串に差した小鳥の周りに廻してゐるんだ。地球は小鳥だ、家は無数の星のあるあの大空だ。』
『太陽はさう大きくありませんね。――せいぜい砥石の車位のものでせう。星なんて火花のやうなものですね。が、地球は大きくてそして重いんですね。』とジユウルが云ひました。
『みんな馬鹿な事を云つちやいけない。太陽が砥石の車位で、星が火花のやうだつて。どうして、どうして。が、先づ地球から話して行かう。』

五〇 世界のはてへの旅


『ジユウルと同じ年の、同じやうによく物を知りたがる小さな男の子が、或る朝その旅行の準備をしてゐた。遠い海を越えて行く船乗りも、これ程までに熱心ではなかつた。長途の旅行に一番必要な食糧品は忘れられなかつた。朝飯はいつもの二倍もたべた。バスケツトには胡桃が六つと、バタ附きサンドウイツチと、林檎が二つ入つてゐた。これだけのものがあれば、何処へ行けないと云ふ事があらう。家の者は誰れも知らなかつた。長い旅路の危険な事を話して、大胆な此の旅行家の企てを、家のものは止めるに違ひないのだ。で、彼れは母さんの涙で止められる事を心配して、わざと黙つてゐたのだ。そして手にバスケツトを持つて、誰にも別れを告げずに、一人で出立した。やがて田舎に来た。右に行つても左に行つても、彼れに取つては大した事ではない。何の路でも彼れの行きたいと思ふ方へ行けるのだ。』
『その子は何処へ行くつもりなのでせう。』エミルが尋ねました。
『世界の果へ行くのだ。彼れは右手の路を行つた。その道には山櫨さんざしの垣が縁になつてゐて、金青色の甲虫がぶん/\云ひながら輝いてゐた。しかしこの美しい虫も、小川に泳いでゐる小さな赤腹の魚も彼れの足を止めはしなかつた。日は短く旅路は遠い。彼れはたゞ真直に歩み続けて、時々畑を横切つては近路をした。そして一時間程すると、この賢い旅人は倹約をしいしい食べてはゐたのだが、その主要食糧のサンドウイツチを食つて了つた。それから十五分程すると、林檎を一つと、胡桃を二つ食べた。疲れると早く食慾が出る。そして路の曲り角の、大きな柳の木蔭で急に食慾がきざして来て、次ぎの林檎と残りの三つの胡桃がバスケツトから取り出された。これで食糧はもうお終ひになつたのだ。それに足はもう一歩も進まなくなつて了つた。さあ、もう二時間と云ふもの其の旅行は続いて、それでまだその目的はちつとも果されてゐないのだ。そこで子供は、もつと足を達者にして、もつと沢山食糧を持つて来たら、こんどはもつとその目的を果せようと思つて、もと来た道へ引返した。』
『その目的といふのは何ですか。』とジユウルが訊きました。
『さつきも云つた通り、此の大胆な子供は世界の果まで行きたいと思つてゐたのだ。その考へによると、空は青い円天井で、だん/\低くなつて行つて、終ひには地の果てで止まつてゐる。だから、若し其処まで行き着けば、青空へ頭を打ちつけないやうに曲つて歩かなければいけない。彼れはその手で空に触れて見ようと思つて出発したのだつた。が、その進むに従つて、青い円天井はいつもそれだけ引きさがつて行つて、いつも同じ高さでゐるのだ。そして疲れとひもじさとで、彼れはこの上その旅をつゞける事をよして了つたのだ。』
『若し僕がその子を知つてゐたら、僕そんな旅は止めさせて了ふんでしたのに。』とエミルが云ひました。『どんなに遠くまで行つたつて、手で空に届くなんていふのは、どんなに高い梯子に上つたつて出来ない事ですよ。』
『エミルも前にはそんな風に考へてゐたのぢやなかつたかね。』と叔父さんが云ひました。
『さうですよ、叔父さん。今のお話しの子供のやうに、僕も空は地の上にかぶさつてゐる大きな青い蓋だと思つてゐましたよ。そして、いつまでも/\歩いて行くと、此の蓋の端、即ち世界の果てに着くものだと思つてゐました。そして又、太陽はあの山の向ふから出て来て、その反対の方に沈んで其処には太陽が夜中入つて隠れてゐる深い井戸があるんだと思つてゐました。いつでしたか、叔父さんは僕を連れて、青い蓋の端が止つてゐるやうな山に行つた事がありますね。随分遠い処で、僕に歩き好いやうに杖を貸して下さいましたね、よく覚えてゐますよ。しかしそこには、太陽の落ち込むやうな井戸は何にもなくて、やはりこゝと同じやうなところでしたよ。只遙か向ふの方で、空の端はやはり地面の上に止つてゐました。その時叔父さんは、今眼に見える処の果まで行つても、もつと/\遠くまで行つても、どこまで行つてもやはり同じ事で、青天井の端まで行けるものぢやない、そんなものは実際にはないんだからと教へて下さいましたね。』
『さうだ、何処まで行つたつて、空は地面の直ぐ上になんかない。又、何処まで行つたつて、青空に頭を打突けるやうな危険はないのだ。何処まで行つても、やはり此処と同じ様な青天井があるのだ。そして何処までも一直線に進んで行けば、野や山や谷や川や海には始終出逢ふが、世界の果てだと云ふ区切りのあるところは何処にもないのだ。
『今空中に大きな毬を糸で吊して、その毬に蚊が一疋止まつてゐるものと想像して御覧! 若し此蚊が毬の表面を這ひ廻らうとしたとすれば、何んの邪魔物にも遭はず、又其の行手を遮る区切りにもぶつからずに、毬の上を上や下や横と行つたり来たりする事が出来よう。又、若しこの蚊がいつも同じ方向に進んで行くとすれば、その毬の上を一週して、又もとの出発点に帰つて来るだらう。地球の表面にゐる我々もその通りだ。どんなに小さな蚊がどんなに大きな毬の上にとまつてゐるとしても、それに較べれば、地球の上に止まつてゐる、我々は何んでもないものだ。我々がどこへどう行つても、どんなに遠くまで旅しても、青空の果てとか区切りとかへは決して行きつかずに、地球を一とまはりして、又もとの処に帰つて来る。つまり、地球は丸いもので、何んの支へもなしに、空中に泳いでゐる大きな毬なのだ。そして我々の頭の上に弓形に這つて見える青空は、実に地球を四方から取り巻いてゐる空気の、青い色に過ぎないのだ。』
『叔父さんが譬へに引いた蚊の止つてゐる毬は糸で吊してあつたんですね。でも、地球といふ大きな毬は何んな鎖で吊してあるんでしようか。』とジユウルがきゝました。
『地球は鎖で空中に吊り下げてあるのでもなければ、地球儀のやうに台の上に載せてあるものでもない。尤も印度の昔噺によると、地球は四本の銅の柱の上にあるのださうだがね。』
『では、その四本の柱は何の上に載つてゐるんですか。』
『四匹の白い象の背中に載つてゐるんだよ。』
『では、その白い象は?』
『大きな四匹の亀の上に載つてゐるんだ。』
『では、その亀は?』
『それは乳の海の中を泳いでゐる。』
『では、其の乳の海は?』
『昔噺にはその事は書いてない。そしてそれは黙つてゐる方がいゝのだ。そして又、地球を支へるいろんな台の事なぞは何も考へない方が猶いゝのだ。地球の台があるとするね。するとその台を支へてゐる二番目の台、その二番目を支へる三番目の台、四番目と云つた順序に千度も繰り返しても、それはちつともその答へにならない。どんな台を想像して見たところで、その又台がいる事になる。多分お前達は空の天井が立派に地球を支へてゐると考へるだらうが、此青天井は実際は何にもないので只空気がさう見えるだけの事なのだ。又、幾千幾万の旅人が地球上のあらゆる方向へ旅して行つても何処にも地球を吊つてゐる鎖や又はそれを支へてゐる台を見る事は出来ない。何処に行つても、此処と同じ物を見るだけなのだ。地球は空中に漂つて、月や太陽と同じやうに、何の支へもなしに空中を泳いでゐるのだ。』
『では、何故落つこちないのでせう。』とジユウルが何処までも云ひ募ります。
『落つこちるといふのはね、手で石を持ち上げてそれを放した時のやうに、地面に飛んで行く事を云ふのだよ。此の地球と云ふ地面が、どうして自分の上に落つこちるものかね。自分で自分の上へ飛んで行くと云ふ事は出来ないからね。』
『それや出来ません。』
『さうか、よろしい、では、かう云ふ事を考へてごらん。地球のまはりはどこでも同じ事で、どこが上、どこが下、どこが右、どこが左といふ事はないものだ。が、先づ空のある方を上と云つて置かう。ところで、この地球の反対の側にもやはり空はあるんだ。そして其処もこゝと同じやうで、地球上はどこへ行つても同じ事なのだ。そこでだね。我々の頭の上の空へ地球が飛んで行くものでないと考へたら、どうしてそれが反対の側の空へ飛んで行くと考へられるのだ。反対の空へ落ちると云ふ事も、雲雀が此処から上へ飛んで行くのと同じやうに、やはり上へ上つて行く事なのだ。』

五一 地球


『地球は丸いものだ。それは次ぎの事が証明する。町に向つて行く旅人が、何も眼を遮ぎるものもない平原を越えると、遙か彼方に町で一番高い塔や、教会の尖塔の頂上が最初に見えて来る。だんだん近づくに従つて鐘楼が見え、次ぎには家の屋根が見え、やがていろんなものが見えて来る。高い物から始つて、距離が近づくに従つて、だん/\低い物が眼に入るやうになる。それは地面が曲つてゐるからなのだ。』
 ポオル叔父さんは鉛筆を取つて、こゝにあるやうな図を紙に描いて、又話し続けました。
『Aにゐる人には、地面の曲りが塔を隠して了ふから、塔は少しも見えない。Bにゐる人には塔の上半部は見えるが、下の半分はまだ見えない。最後に、Cの処に来ると、塔がすつかり見えて来る。若し地面が平なものだつたら、こんな事はない筈だ。何んなに遠くからでも塔はすつかり見えなければならない。勿論、あまり離れてゐると、距離の関係で、近い処にゐるよりは、いくらかぼんやり見えるだらうが、かく頂上から一番下までよく見えなければならない。』
 ポオル叔父さんはもう一つ図を描きました。それによると、AとBの二人の人は全く違つた距離の処にゐるのですが、それでも平地の上にゐるものですから、二人とも塔の頂から台まで見えるのです。叔父さんは話しつゞけました。
『陸地では、今お話した観察に適するやうな、広いなだらかな場所が得にくい。大抵の場合、岡や、谷や、草木の繁みなどが邪魔をして、近づくに従つて塔の頂からだん/\台まで見せて行くと云ふ事をさせない。が、海にはそんな邪魔物はない。水は凸になつてゐるが、それは地球の面の凸なので、そこで、此の海では、地球の丸い形から起るいろんな現象を研究するのに非常に都合がいゝ。
『舟が海から海岸へ向つて来る時に、舟に乗つてゐる人に最初に見えるものは、山の頂上といふやうな、一番高い処で、それから高い塔の頂が眼に入り、やがて海岸が見えて来る。同様に、海岸で舟の入つて来るのを眺めてゐる人には、帆柱の頂が最初に見えて、次に一番上の帆が見え、それから下の帆が見えるやうになつて、遂に舟全体が見えて来るのだ。若し又舟が出帆して行く所だつたら、今のとは反対に、舟はだん/\に見えなくなり、水の中へ入つて行く、先づ船体が隠れ、下の帆からだん/\に上の帆が隠れ、最後に帆柱の頂きが見えなくなつて了ふ。』
『地球は何の位大きいのですか。』と又もやジユウルが尋ねました。
『地球は周囲が四千万メートルある。四キロメートルが一里に当るから一万里になるわけだ。丸テーブルを取り巻くには、三人か、四人か、五人位の人が手をつなげばいゝ。が、同じやうにして地球を取り巻かうとすれば、フランス中の人が手をつながなければなるまい。こんな事は誰にも出来ない事だが、かりに一日十里の割合で歩くとして、海が無くて陸だけだとしても、地球を一周りするには三年かゝる。』
『今までに僕の歩いたので一番遠かつたのは、あの雷雨のあつた日、行列虫を取りに松林に行つた時ですよ。あの時は何里位歩いたんでせう。』
『行きが二里、帰りが二里で、都合四里位だつたね。』
『たつた四里! まるで遊びに行つたやうなものですね。帰りには僕やつとの事で歩いて来ましたよ。では、僕だつたら世界一周をするには、力一杯歩いたところで、七八年はかゝりますね。』
『さう。その通りだ。』
『では、地球は大きな毬なんですか。』
『さうだ、随分大きな毬だ。もう一つの例を話したらよく分るやうになるだらう。仮りに地球を人間の高さ程の直径の毬だとしやう。直径六尺程の毬だとするんだよ。それに釣り合つた大きさで、此の毬の表面に有名な山を浮き出させる。世界で一番高い山は、中央アジアにあるヒマラヤ山脈のガウリサンカア山だ。此の山の高さは八千八百四十メートル(二万五千五百尺)ある。この山頂に届く程の雲はめつたにない。そしてその山麓は一つの国程の広さだ。さあ、この大きな山に較べたら、人間はどんなものになるだらう。さて、地球の代りのこの毬の上にこの大きな山を乗せて見よう。それがどんな大きさになるか分るかい。それはお前の指の間から落ちるやうな小さな砂粒だ。一ミリメートル三分の一(四厘)程の大きさの砂粒だ。我々を圧しつけるやうなこの大きな山も、地球の大きさに比べると何でもない。高さ四千五百十メートル(一万四千四百尺)あるヨオロツパ第一の高山モンブランは、その半分位の砂粒しかない。』
『叔父さんが地球の丸い事を話して下さつた時ね』とクレエルが口をさし挿みました。
『私、大きな山や深い谷の事を考へてそんないろんなものがあつても、地球はまだ丸いものだらうかと疑つてゐましたの、今やつと、そんなものは、地球の大きさとは比べものにならない事が分りましたわ。』
『蜜柑は皮に皺があるけれども丸いだらう。地球もそれと同じで、表面にいろんな処があつても、やはり丸いのだ。地球は大きな毬で、その大きさに比べると塵や砂粒が撒き散らされたやうに見えるのが即ち山なのだ。』
『随分大きな毬ですね。』とエミルが云ひました。
『地球のまはりを測る事は容易な事ではない。ところが、それどころか、それを秤皿にのせて秤にかける事が出来るものゝやうに、目方まで量つてみたのだ。科学と云ふものは、人間の知力の偉大さを見せるいろんな方法を持つてゐる。この大きな地球の目方までも量つたんだ。何うして量つたかは今日お前達に話す事は出来ない。それは秤を使ふのぢやない。神様が人間にこの宇宙の謎を解くやうにと恵んで下さつた理知の力で量り出したのだ。その目方は六に二十一の零を添へたキログラムになる。』
『そんな数字はあんまり大きくて、僕には何んの事だかまるで分りませんね。』とジユウルが云ひました。
『大きな数と云ふものは何んでも厄介なものだよ。が、もつと厄介な事がある。若しこの地球を車に乗せて、道を曳いて行つたら何んなものだらう。どれ程の馬をつけたらいゝだらう。先づ正面の第一列に百万頭の馬をつけて、その前の第二列にもう百万頭、其の次にも又百万頭、そしてそれを百も千も繰り返して、かうして世界中の秣ではとても養ひ切れない千億の馬をつけるとする。そこで鞭を当てゝ出発する。が、少しも動かない。未だ力が足りないのだ。こんな大きな地球を動かすには千億の馬を一億倍も合せた力がなくてはならない。』
『私には分りませんね。』とジユウルが云ひました。
『叔父さんにも分らないね。地球はそれ程までに大きいのだよ。』と叔父さんが答へました。
『訳の分らなくなる程大きいんですね。』とクレエルが云ひました。
『本当にさうなんだよ。お前達にはそれだけの事が分れば、それでいゝんだ。』とポオル叔父さんは話を結びました。

五二 空気


『顔の前で急に手をひろげると、頬に息がかゝるやうな気がする。この息は空気だ。この空気は動かずにゐると何も感じないが、手で動かすと軽い震動を起して涼しい気持ちをさせる。だが、空気の震動はいつでもこんなに柔らかなものではない。どうかすると随分荒くなる。時々木を根こぎにしたり、家を引つくりへすやうな大風もやはりそれで、川のやうに、或る所から或る他の所へ流れて行く空気だ。空気は透明で殆んど色が無いから眼に見えない。しかし、ごく厚い層になつてゐるとその淡い色が眼に見えるやうになる。水でも、その量が少い時には色が無いやうだが、海や池や河などの深いところでは青か緑色に見える。空気も水と同じで、少い時は色がついてゐないけれども、五六里も厚くなると青くなる。遠い処の景色は、青味を帯びて見えるが、それはその間の空気の厚い層がさう見せるのだ。
『空気は地球の囲りを十五里の厚さで掩ふてゐる。それを雲の泳ぎ廻る空気の海、即ち雰囲気と云つてゐる。空の色は此の空気の青い色から来るのだ。そしてこの雰囲気が空の円天井のやうに見えるのだ。
『お前達は魚が水の中に住んでゐるやうに、我々がその底に住んでゐるこの空気の海が、我々にどんな功用があるのか知つてゐるか。』
『よくは存じません。』とジユウルが答へました。
『此の空気の海が無かつたら植物も動物も生きてゐる事は出来ないのだ。よくお聞き。我々に無くてならない一番大事なものは飲む事と食ふ事と眠る事とだ。腹がればどんなまづいものでも美味しくなる。又咽喉が渇けば一杯の冷水でも非常にうまい。そして又、疲れゝばちよつとした居眠りでもいい気持になる。そんなほんのちよつとした餓ゑやかつえや疲れであれば、激しい苦痛と云ふよりも寧ろいゝ気持で其の満足を求める。が、その満足があまりに長い間得られないと、もう堪らない程になつて非常な苦痛になる。この飢ゑや渇きを恐ろしく思はないものが何処にあらう。飢え! そんな事はお前達は知つてゐない。が、若しお前達に少しでもその苦しさが分るやうだと、この辛い目に逢ふ哀れな人の上を思つて胸が潰れる位だらう。飢ゑてゐる人をお前達は何時でも助けてやらなければならない。世にこれ程勝れた事は又とない。貧しいものに与へるのは神様に貸すのも同じ事だ。』
 クレエルは感動して目に手を当てゝ涙を隠しました。彼女は心の奥から語り出す叔父さんの顔に光を見たのでした。叔父さんは暫く黙つてゐて又話しつゞけました。
『が、此の飢ゑや渇きの欲望がどんなに激しいと云つても、まだ/\それよりももつと強い欲望がある。それは夜でも昼でも、寝てゐても起きてゐても、絶えず休みなく起つて来る欲望だ。それは空気の欲望だ。この空気は食ふ事や飲む事のやうに時をきめてその欲望を満たすと云ふ事の出来ないもので、一寸の間忘れても生命に関る程の大事なものだ。そして、云はゞまあ、我々が空気を吸はうと思つても思はないでも、絶へず空気は我々の身体の中に入つて来てその霊妙な役目を果すのだ。我々は何よりも真先きに空気のお蔭で生きてゐるので、食物は第二番目のものだ。食物の欲望は可なり長い間を隔てゝ感ずるが、空気の欲望は絶へ間なしに感ずる。』
『僕今まで空気で生きてゐたとは思ひませんでしたよ。今初めて空気が僕達にそんなに必要だと云ふ事を知りました。』とジユウルが云ひました。
『自分は何んとも思はないで、始終やつてゐる事だから考へなかつたのさ。が、一寸の間、空気が身体に入るのを止めて御覧! 空気のはいつて来る道の、鼻と口とを閉ぢて御覧。』
 ジユウルは叔父さんの云ふ通り、口を閉ぢて指で鼻を抑へました。間もなく顔が赤くなつて熱くなつて来ましたので、仕方なしに此の実験を止めて了ひました。
『叔父さん、そんな事はして居れませんよ。息がつまつて、も少しやつてゐたらきつと死にさうになりますよ。』
『さうだらう。生きるためには空気が必要だと云ふ事が分ればそれでいゝのだ。総ての動物は、ごく小さいだにから、大きな獣に至るまで、お前達と同じやうに、何よりも先づ空気によつて生きてゐるのだ。魚やその外の水中に住んでゐるものでさへも、矢張り同じ事だ。魚は空気がまじつて融けてゐる水の中にだけ住む事が出来るのだ。お前達はもつと大きくなつたら、空気がどんなに生物に必要だかと云ふ事を証明する実験をする事が出来るだらう。鳥をガラスの籃に入れて、何処もかも閉めきつて、ポンプのやうなものでその中の空気を吸ひ出す。かうして、空気が籃の中から抜かれるに従つて、鳥はひよろ/\して来て、暫くは見る眼もいたましい位に騒ぐが、やがて倒れて死んで了ふ。』
『世界中の人や動物に要る空気は、随分沢山なくちやならないんでせうね。そんなに沢山あるんですか。』とエミルが云ひました。
『それや随分沢山要る。一人の人間が一時間に約六千リツトル(一リツトルは五合五勺)要る。だが、空気は総ての人に十分な程沢山あるのだ。それをお前達に分るやうにして上げやう。
『空気はごく稀薄なもので、一リツトルの目方が一グラム(一グラムは十五分の四匁)しかない。これと同じ量の水だと千グラム即ち七百六十九倍ある。が、空気は非常に沢山あるので、その全体の重さはお前達の想像の外だらうと思ふ。若し空中の空気を総て大きな秤皿にのせる事が出来るとしたら、別な方の皿には何れだけの重さを載せたら釣り合ふと思ふかね。いくらでも沢山云つて御覧。千キログラムを千倍してもいゝよ。』
『五六百万キログラム?』とクレエルが云ひました。
『そんなこつちやない。』
『ぢや、その十倍? 百倍?』
『それでも未だ足りない。そんなこつちや皿は上らないよ。とても普通の目方では数へる事が出来ないから、私が代りに返事して上げやう。こんな重さを量るには、普通の分銅は役に立たない。新しい分銅を発明しなくちや駄目だ。で、仮りに一キロメートル立方の分銅があるとする。そして此の四半里四方の分銅を目方の単位にする。此の分銅の重さは九億万キログラムだ。そこで空気の目方を量るには、此の分銅を別な秤皿の方に五十八万五千も積み上げなければならないのだ。』
『そんな事が出来ますの。』とクレエルが云ひました。
『前にもさう云ふ話しをしたが、神様が地球の周りを掩ふた襟巻のやうな此の空気の層の恐ろしく大きな事は、想像にも及ばない。が、お前達はこの空気――四半里立方の分銅を五十万も合せた重さのある此の空気の海――が地球その物と較べたらどんなものになるか知つてゐるかね。それは桃の実と、その上に生えてゐるちよつと目に見えないやうな毛とのやうなものだ。それなら、此の空気の海の底に動いてゐる我々人間はどんなものだらう。しかし我々人間は、からだは小さいが頭の力は大きい。此の空気や地球の重さを遊び半分で量る事が出来るのだ。』

五三 太陽


 朝早くポオル叔父さんと甥達とは、朝日を眺めに近所の岡に登りました。まだ薄暗がりでした。田舎道を通る時出逢つたのは、町へバタと牛乳を運んで行く牛乳屋の女と、炉の火が暗い路を照らしてゐる所で真赤に焼けた鉄を鉄床で叩いてゐる鍛冶屋さんとだけでした。
 杜松ねずの木の下に坐つて、ポオル叔父さんと三人の子供とは岡の上にす光の見えるのを待つてゐました。東の空が明るくなりかけて来ますと、星は色が青ざめて一つ一つ消えて行きます。柔かな光りが見え初める頃から、紅い雲の片が美しい光線の中を漂ふてゐました。やがて、空の上の方に日が輝いて透き通るやうな、昼の青空が現はれました。太陽が上る前の此の薄あかりをオーロラ即ち曙と云ふのです。そのうちに雲雀が花火のやうに空高く上つて、一番に朝の挨拶をいたしました。雲雀は囀りながら高く/\、太陽に届く程高く登つて、一心に歌を歌つては太陽を褒め称へてゐます。耳をすまして御覧なさい。木の枝葉には風が吹いて揺り動かしてゐます。小鳥は起き出て囀つてゐます。野仕事に引出された牛は、物思ひをするやうに立ち止つて、穏やかな大きな眼を開いて咆えます。万物が生き返つて、口々に力強い手で我々に太陽をもたらした神様にお礼を云つてゐます。
 御覧なさい。激しい光線が跳び出して来て、山の頂が急に明るくなりました。太陽の端が上りはじめて来たのです。大地は今此の眩しい光に逢つて喜び震へてゐます。輝く太陽はだん/\と上つて来ます。もう大ぶ上りました。赤熱した砥臼のやうになつて、すつかり上りました。朝霧はその光を柔げて、まともにそれを眺める事を出来るやうにします。が、間もなく此の眩しい太陽を見つめる事は出来なくなります。そしてその光は野に満ち溢れて、冷い夜が温かい朝になります。霧は谷底から上へ昇つて消えて了ひ、葉末に結んだ露は温まつて蒸発します。何処を見ても、生々として、夜ぢう止つてゐた活力が生き返ります。かうして太陽は一日東から西へ動いて、地球に光と熱を注いで、穀物を実らせ、花に香を放たせ、果物には味をつけ、有らゆる生物に活気をつけます。
 その時ポオル叔父さんは杜松の蔭で話し始めました。
『此の太陽と云ふのはどんなものだらう。大きなものだらうか。ごく遠い処にあるものだらうか。それを今私は、お前達に教へて上げやうと思ふのだ。
『或る一点から他の一点までの距離を測るには、お前達は只一つの方法しか知らない。それは長さの単位であるメートルを、今測らうとする距離の一方の端から他の一方の端まで、幾度でも並べて行く事だ。しかし科学には人間が行く事の出来ない距離のところを測る特別の方法がある。たとへば塔や山の高さを、その頂きにも昇つて見ず、又その麓にも行つて見ないで、測る方法がある。太陽と吾々との距離を測るにも、やはりその方法を取るのだ。かうして天文学者が計算したところによると、太陽と吾々との間の距離は四千メートル(一里)の三千八百万倍ある。この長さは地球の周りの三千八百倍に当る。私は前に、地球を一周するのに、一日十里歩く足の達者な人で三年かゝると云つた。だからその同じ人が地球から太陽まで行くには、若し行けるものだとしても、一万二千年かゝる訳になる。一人でこんな長い旅をするには人間の一生は比較にならぬ程短か過ぎる。そして又、百年づつ生きる人が百代続けて、同じ旅路をつゞけて行くとしても、まだ足りないのだ。』
『では、機関車は此の距離を行くのに何れ程かゝりませうか。』とジユウルが尋ねました。
『機関車の早い事を思ひ出したと見えるね。』
『この間叔父さんと一緒に汽車に乗つて行つた日に見ましたもの。そとを見てゐると、恐しい程の早さで道が後ろの方へ飛んで行くやうに思ひましたよ。』
『私達を引いて行つた機関車は一時間に十里走つたのだ。仮りにちつとも止らないで一時間に十五里の速さで走る機関車があるとしやう。その速力で走ると、一日たらずでフランスを横断して了ふ。そして太陽と地球の間を走るには三百年程かゝる。こんな旅をするには人間の手で出来た一番早い機関車も、世界一週をしようと云ふ非常な野心を持つたのろ/\した蝸牛かたつむりのやうなものだ。』
『僕、前にね、屋根に上つて長い葦につかまつて行つたら太陽に届くと思つてゐましたよ。』とエミルが云ひました。
『誰れでもほんのうはべに見えるだけしか知らない人は、太陽を只のお盆程の大きさの眩しい円盤だ位に思つてゐるよ。』
『僕も昨日さう云ひましたね。』とジユウルが云ひました。『だけど、そんなに離れてゐるとすれば、きつと水車の輪位の大きさはあるんでせうね。』
『第一に太陽はお盆のやうな、そんな平たい物ではない。地球のやうな球になつてゐるのだ。そしてお盆や水車よりはずつと大きいものだ。
『何でも距離に比例して小さく見えるものだが、あんまり遠くなると遂には何んにも見えなくなつて了ふ。高い山も遠くからは小高い岡としか見えないし、教会の塔の上に立つた十字架も、実は随分大きいものなのだが、下から見れば大変小さく見える。太陽もそれと同じだ。あまり遠くに離れてゐるから小さく見えるが、距離が非常に遠いだけそれだけ、その大きさも非常に大きいのだ。もしさうでなかつたら、眩しいお盆程に見えるどころか、何んにも見えないに違ひない。
『お前達は地球の大きな事が分つた。が、私がいろ/\と比較して話して見せたが、お前達の想像では、きつとその大きさを描き出す事が出来なかつたらう。ところで、太陽は此の地球の大きさの百四十万倍もあるのだ。若し太陽が円い箱のやうな空虚なものだとしたら、その空虚を埋めるには百四十万の地球が入つて了ふのだ。
『も一つ別な例を挙げやう。一リツトルといふますには、小麦が一万粒はいる。十リツトル、即ち一デカリツトルを満たすには百四十万粒要る勘定になる。そこで小麦十四デカリツトルの山を、その隣りに只一粒の小麦とがあるとして御覧。その大きさに比例して、一粒の方が地球だとすると、十四デカリツトルの方は太陽なのだ。』
『まあ私達は大変間違つてゐたんですわね。太陽を大きく見積つても水車位のものだと思つてゐたのに、そんなに大きなものだとしますと、地球なんかは何んでもないものになつてしまひますわ。』とクレエルが云ひました。
『驚いたものだな。』とジユウルも云ひました。
『さうとも、お前達が此の想像もつかぬやうな大きさを考へる時には、「驚いたな」と云はずには居られまいよ。だから、かう云ふんだよ。驚きましたよ神様、貴方は偉いお方です。ほかの者には太陽や地球を造る事も、それを手に支へてゐる事も出来ません、とね。
『私の話はこれで済んだのぢやない。先日電光と雷の話をした時、光線は非常に早く伝はるものだと云ふ事を教へて上げただらう。実際、機関車ならば全速力で三百年もかゝつて着く距離を、光線は僅か十五分か八分間かゝればいゝのだ。も少しお聞き。天文学によると、此処からはごく小さく見えるどの星も、皆な吾々の太陽程の大きさのやはり太陽なのだ。それらの太陽は、吾々の目に見えるのはほんの一小部分に過ぎないので、実は数へ切れない程沢山あるのだ。そしてその距離も随分遠くて一番近い星からその光が地球に来るのにも、今話した通りの速さで約四年かゝる。一番と云ふ程でもないが、とにかくごく遠くにある或る星からだと幾百年もかゝる。そこで、若しお前達が出来るならかうした遠くにある星と此の地球との距離を計算して、その数と大きさとを想像して御覧! だが、そんな事はやつてくれない方がいい。神様の仕事の広大無辺な事はとても人間の智慧なぞの及ぶところではない。そんな事は無駄な事だ。そして只だ神様の力をほめたゝへるがいゝ。』

五四 昼と夜


『いつかの雲雀のまはりで廻つてゐた薪の燃えてゐる炉のお話が何処かへ行つちやつたやうですね。』とクレエルが云ひました。
『さうぢやない。これで漸くその話のところまで来たんだ。吾々とは三千八百万里離れてゐる太陽が若し毎日地球を一周するものとしたら、一分間にどれ程走るか知つてゐるかい。十万里以上だ。しかし此の非常な早さもまだ何でもないのだ。今も云つたやうに、星は皆な吾々の太陽と同じ大きさの、そして又同じやうに光つてゐる太陽だ。たゞ、あまり離れてゐるので、ごく小さく見えるだけの事だ。その一番近いのでも、地球から太陽までの距離の三万倍もある。これが廿四時間で地球を一廻りするものとすると、一分間に十万里の三万倍だけ走らなければならない。では、その百倍も千倍も百万倍も遠くにあるほかの星が、皆なきつちり廿四時間で地球を一周するものとすると、どうなるだらう? それに又、太陽の非常に大きな事も考へなければならない。お前達は又、此の大きな太陽が、それに較べればほんの粘土の塊りに過ぎない地球のまはりを廻つて、非常な速さで空間を駈けながら、地球に光と熱を与へてゐるものと思へるだらうか。そして又、もつと遠くにある非常に大きな数千の他の太陽、即ち星が、皆なその距離に応じて速力を早めつゝ、毎日、此の小さな地球の周りを廻つてゐるものと思へるだらうか。そんな馬鹿な事はない。そんな事は串に差した鳥のまはりで、薪や、炉や、家を廻さうとするのと同じやうに理窟に合はない。』
『では、地球が廻つてゐるので、私たちも地球と一緒に廻つてゐるのですね。』とクレエルが又口を入れました。『そして此の運動のために、太陽や星は、ちやうど汽車で見た木や家と同じやうに、反対の方向に動くやうに見えるのですね。廿四時間で太陽が地球の東から西へ廻るやうに見えるのは、地球が廿四時間で西から東へ、自分で廻つてゐる証拠ですわね。』
『地球は太陽の前で、ちやうど独楽こまのやうに廻つて、次ぎ/\にその違つた処を太陽の光線にさらしてゐるのだ。その上、地球は廿四時間で自分が一廻転する傍ら、一ヶ年かゝつて太陽のまはりを廻るのだ。独楽が廻つてゐる時、ちやうどこれと同じ廻り方をする事がある。独楽が或る一点に立つた儘廻る時には、只ぐる/\自分が廻つてゐるだけだ。が、それを或る方法で投げ飛ばすと、これは私よりもお前達の方がよく知つてゐる事だが、独楽は自分も廻りながら地の上を円く歩き廻る。この場合には、此の独楽は地球の二重の運動をたゞ小さくやつてゐるだけの事だ。独楽がその軸で廻るのは地球が自分で廻つてゐるのと同じで、そしてそれが地の上を歩き廻るのは地球が太陽のまはりを廻るのと同じ事だ。
『お前達は地球の此の二重の運動に就いては、また次ぎのやうな方法でよく分る事が出来る。室の真ん中に一つの丸テーブルを置いて、そのテーブルの上に火のついた蝋燭を立てゝ、それを太陽だとする。それから、爪先きでぐる/\廻りながら、テーブルのまはりを廻るのだ。かうしてお前たちがテーブルのまはりを廻つて見れば、それが即ち地球の二重の運動になる。そして爪先きでぐる/\廻りながら、顔の方と頭の後ろの方とが次ぎ/\に蝋燭の光りに当るのを注意して御覧。一廻りする度に、一方の方は明るく別の方は陰になる。地球もこれと同じく、自分でぐる/\廻りながらその違つた表面を代る代る太陽に向けるのだ。その太陽に向いた方が昼で、その反対の側が夜だ。昼と夜とはかうして実に簡単に起る。廿四時間に一回地球は自分で廻る。此の二十四時間の間に昼と夜とが出来るのだ。』
『昼と夜と代る代るに来る理由がよく分りました。』とジユウルが云ひました。『太陽に向つてゐる地球の半分が昼で、その反対の側の半分が夜なんですね。しかし地球は自分で廻つてゐるのだから、いろんな国は代る代る太陽の方に向いたり、その陰になつたりするんでせう。すると、炉の前で廻つてゐた雲雀はそれと同じやうにそのからだの前と後とを代る/″\熱い方に向けるやうになる訳ですね。』
『誰でも火の方に向いてゐる雲雀の半分は昼で、残りの半分は夜だと云ふでせう。』とエミルが云ひました。
『けども、も一つ僕には分らない事があります。』とジユウルが云ひました。『若し地球が廿四時間毎に自分で一と廻りするんだとしたら、私達はその半分の時間の間地球と一緒に廻つて、そして逆さになつてゐなければならない筈でせう。今はかうして頭を上にして足を下にしてゐますが、もう十二時間経つと、こんどはその反対になつて、頭を下にして足を上にしてゐなければならぬのでせう。今は真直に立つてゐますが、その時には逆さになる筈でせう。そんな事になつても、どうして私達は妙な気持にならないのでせう。どうして落つこちないのでせう。』
『お前の云ふ事は本当だ。』とポオル叔父さんは答へました。『しかしそれはほんの少しだ。今から十二時間すれば、吾々は今とは逆さになる。今吾々が之を向けてゐる方へ頭を向ける事になる。だが、そんな風に逆さになつても、落つこちる心配もなく、又妙な気持になる事もちつともない。頭はいつでも上にあつて、空の方に向いてゐる。そして足はいつも下の方に、即ち地の方に向いてゐる。落ちると云ふ事は地面に跳び下りると云ふ事で、空中に跳び出す事ではない。で、地球がどんなに廻つても吾々はいつも地の上にゐて、足は地上に、頭は空を向いてゐて、何んの不快な事もなく、又落ちる心配もなしに、真直に立つてゐるのだ。』
『地球は早く廻りますか。』とエミルが尋ねました。
『二十四時間に一と回転する。そして一番長い旅をするのは真ん中の部分だが、そこは一時間に四千万メートル、即ち地球の周囲と同じ距離を走る。一秒間に四百六十二メートルだ。これは砲門を出た砲弾と殆んど同じ速さで、一番早い機関車の速度のほぼ三十倍に当る。山も野も海も、皆な一秒に十分の一里以上の素晴らしい速さで、絶えずぐる/\廻つてゐるのだ。』
『それでも私達には何にも動かないやうに見えますね。』とエミルが云ひました。
『吾々の乗つた汽車が非常な大速力で走つてゐる時、それが揺れさへしなければ、吾々はじつとしてゐるのだと思ふのだ。地球のそんなに速い運動も、ごく穏やかなのだ。星の動くのが見えなければ気がつくものでない。』
『では、軽気球に乗つて、うんと高く登つたら、地球の廻るのが下の方に見えるでせうね。』とジユウルが云ひました。『海も島も、大陸も国も、森も山も、その軽気球の上の人の眼の下に代る/″\一つづつ現れて来て、二十四時間のうちには地球をすつかり見る事が出来るでせうね。そしたら随分すてきな景色でせうね。ちつとも疲れない、随分面白い旅行でせうね。そして地球が一廻りしてもとの国に帰つたら、軽気球から降りて、旅が済むのです。廿四時間で場所を変へずに、世界中の見物が出来ますね。』
『さう、その通りだ。それは実にいゝ世界見物の方法だらうね。今吾々が居る此の場所に地球が廻るに従つてほかの人々が来るだらう。海や、遠い処の国や、雪を頂いた山が此処に来るだらう。そして明日は又、同じ時刻になると、我々が此処に帰つて来るだらう。今吾々が話ししてゐる此の杜松の木蔭の処には、まづ第一に、大西洋と云ふ海が来て吾々の話声の代りに波の大きな音が聞えるだらう。一時間も経たない中に此処は大海になつて了ふ。三段に大砲を並べた大きな軍艦が帆を上げて走つて来る。海がもう通り過ぎた。すると、こんどは北アメリカが来る。カナダの大湖水が来る。皮膚の赤いインヂアンが水牛を狩つてゐる涯しない大草原が来る。すると又海だ。大西洋よりは遙かに大きくて、それが通つて了ふには七時間もかゝる。毛皮を着た漁師が鯨を乾してゐる群島は何処だらう。カムチヤツカの南にある千島列島だ。が、それもやつと一目見たか見ない中に、もう過ぎ去つて了ふ。今度は顔の黄色い眼の斜めについた蒙古人や支那人が来る。それや随分珍らしいいろんなものが見える。しかし地球はどん/\廻つて行つて、もう支那も遠くへ行つて了つた。その次には中央アジアの沙漠と雲よりも高い山だ。韃靼人だったんじんの牧場には馬の群がいなないてゐる。鼻の平つたいコザツク人の住む、カスピアの草原が来る。南ロシア、オオストリア、ドイツ、スイスが来る。そして最後に又フランスが来る。さあ、早く降りやう。これで地球はもう一とまはり済んだのだ。
『いゝかい、砲弾のやうな速さで走る地球の此の目まぐるしい光景は、心の眼でだけ見る事が出来るんだよ。軽気球に乗つて空に昇ると、ジユウルが云つたやうに、地球が廻つて、陸も海も足下に通り過ぎるのが見えるだらうと思はれる。しかしそんな事は決してない。空気は地球と一緒に廻つて、軽気球も其の空気も一緒に廻るのだ。』

五五 一年と四季


『地球は自分で廻りながら、太陽のまはりを廻つて行くんだと云ひましたね。』とジユウルが云ひました。
『さうだ。其の一とまはりするのに三百六十五日かゝる。だから太陽のまはりを廻る間に、地球は自分で三百六十五回廻るのだ。そしてこの一まはりする間に過す月日が丁度一年になるんだ。』
『地球は自分が廻るには二十四時間の一日かゝつて、太陽のまはりを廻るには一年かゝるんですね。』とジユウルが云ひました。
『さうだ。お前が地球になつたとして、太陽の代りにランプを置いた丸テーブルのまはりを廻ると思つて御覧。お前がテーブルを一廻りするのが一年だ。そしてそれをもつと正確にやれば、テーブルを一と廻りする間に、三百六十五回きびすでグル/\廻らなければならないのだ。』
『まるで地球が太陽のまはりで踊つてゐるやうなものですね。』とエミルが云ひました。
『あんまりいゝ比較ではないが、まあその通りだ。エミルはまだほんの子供だがよく分るね。一年は十二ヶ月に分れてゐる、それは一月、二月、三月、四月、五月、六月、七月、八月、九月、十月、十一月、十二月だ。月の長さのいろいろと違つてゐるのはちよつと厄介だ。或る月は三十一日づつあるが、他の月は三十日で、二月は年によつて二十八日と二十九日とある。』
『私はどの月が三十一日で、どの月が三十日か、随分迷つて了ひますわ。どうしたらそれが分るんでせうか。』とクレエルが云ひました。
『吾々の手に彫つた自然の暦はごく簡単にそれを教へてくれる。左の手で握拳にぎりこぶしを造つてごらん。すると、指のもとのところで拇指を除いたほかの四本の指は、一つづつ高いところと低いところと出来る。右手の人さし指で此の高いところと低いところとを代る/″\順番に先づ小指から始めて、指して見る。そして順々に一月、二月、三月と読んで行く。四本の指が済んだなら、又小指に帰つて、十二月まで読みつゞける。いゝかい。かうして読んで行つて、その高いところに当つた月は三十一日で、低いところに当つた月は三十日だ。尤も第一番目の低いところに当る二月は例外で、これは年によつて二十八日の事もあり、二十九日の事もある。』
『私やつてみるわ。五月は幾日あるか知ら。』とクレエルが云ひ出しました。『一月、二月、三月、四月、五月、あ、五月は節のところだから三十一日だわ。』
『それ御覧、わけないだらう』と叔父さんが云ひました。
『今度は僕だ。九月は幾日あるか知ら。』とこんどはジユウルがやつて見ました。『一月、二月、三月、四月、五月、六月、七月。さあ、今度はどうするんでしたつけねえ。もうこれで指がおしまひですよ。』
『又もとへ帰つて月の名をよみつづけるんだ。』とポオル叔父さんが教へてやりました。
『さつき始めた指からやり直すんですか。』
『さうだ。』
『八月すると節が二つ重なつて、七月と八月とは両方とも三十一日になるんですか。』
『さうだ。』
『もう一遍やり直しますよ。八月、九月、九月は三十日です。』
『何故二月は二十八日あつたり、二十九日あつたりしますの。』とクレエルが尋ねました。
『それはね、地球は太陽のまはりを廻るのに、きつちり三百六十五日かゝるのではないのだ。もう六時間ばかり余計かゝるのだ。で先づ此の六時間を一年の日数の中に加へずに置いて、そして四年目毎にそれを勘定して、その一日を二月の中に加へて、二十八日を二十九日とするんだ。』
『では三年の間は二月は二十八日づつあつて、四年目に二十九日あるのですね。』
『さうだ、二月に二十九日あつた年は、閨年うるうどしといふのだから覚えてお置き。』
『では四季といふのは?』とジユウルが尋ねました。
『お前達には少し難しいから分りにくいだらうがね、毎年地球が太陽のまはりを廻るのが、四季の原因にもなれば、夜と昼の長さの違ふ原因にもなるのだ。
『季節は三月づつ四季ある。春、夏、秋、冬がそれだ。大体、春は三月の二十日から六月の二十一日まで、夏は六月二十一日から九月二十二日まで、秋は九月二十二日から十二月二十一日頃まで、そして冬は十二月二十一日から三月二十日までだ。
『三月二十日と九月二十二日には、太陽は地球の端から端まで十二時間見えて、十二時間隠れる。六月二十一日は昼が一番長く夜が一番短いので、太陽は十六時間見えて、八時間隠れる。ごく北の方では、昼の長さが長くなつて、夜が短くなる。其処には此処よりも早く、朝の二時に日が上つて、夜の十時に日が沈む国がある。又、日の出と日の入りが全く一緒になつて今空の向うに日が没したと思つてゐるうちに、忽ち又上つて来る所がある。又、車の軸のやうに、ほかの所は廻つてゐるのに、そこだけは動かないでゐる、極地のところでは、太陽が沈まないで、六ヶ月の間夜中にも日中にも同じやうに太陽が見えると云ふ、不思議な光景を見られる。
『十二月の二十一日には、六月に起つた事の正反対な事が起る。太陽は朝八時に上つて、午後四時にはもう沈んで了ふ。八時間が昼で十六時間が夜なのだ。ずツと先の方に行くと十八時間、二十時間、二十二時間の夜がある所があつて、昼は六時間、四時間、二時間となつてゐる。極地の近所では、太陽はまるで姿も見せないで、昼明りは少しもなく、六ヶ月の間は日中の時間でも真夜中のやうに真暗になつてゐる。』
『昼が六ヶ月、夜が六ヶ月もある、そんな極地の国に住んでゐる人があるのですか。』とジユウルが聞きました。
『いや、あんまり寒さがひどいので、今日迄まだ誰れも極地まで行つたものはない。しかし多少極地に近い処には、人間の住んでゐる国がある。冬になると、葡萄酒や麦酒ビールやその他のいろんな飲み物が樽の中で凍つて了ふ。コツプの水を空中に投ると、それが雪になつて落ちて来るし、息をするとその水分が鼻の下で針のやうな霜になつて了ふ。海は深く凍つて、雪や氷の山のやうになつて、陸との見境がつかなくなる。幾月も幾月も太陽の姿は見えず、昼と夜との区別がない。と云ふよりも寧ろ、日中も夜中と同じ長い夜なんだ。しかし、天気のいい日にはその暗さはあまりひどくない。月と星の光が雪に映つて、物を見分ける位の薄明るさになる。そこの人達は此薄明るい中で、ごた/\と犬に引かせた橇に乗つて獲物を狩つて歩く。魚がその一番多い食べものになる。半分腐つた乾した魚や、鯨の腐つた脂肪などがその常食になつてゐる。火に焚く薪も矢張り魚で、それには鯨の骨だのいろんな脂肪だのを使ふ。そこには木と云ふものが無いのだ。どんなに丈夫な木でも、こんな寒いところには育たない。柳や樺は、地にはつてゐるいぢけた小さな灌木のやうになつて、ラプランドの南の端までしか生えてゐない。此のラプランドでは、穀物の中の一番丈夫な麦ももう生えないのだ。そしてそこから北にはもう木質の植物は何にも育たない。そして夏の間だけ、ほんの少しの草や苔が岩穴の中に大急ぎで生える。もつと北へ行くと、夏になつても雪や氷が溶けないで、土はいつも埋れてゐて、植物はまるで生える事が出来ない。』
『まあ、随分陰気な処ですね。』とエミルが云ひました。『もう一つお尋ねしますがね、叔父さん、太陽を廻るのに地球は速く走るのですか。』
『すつかり廻つて了ふのに一年かゝる。けれども太陽から三千八百万里も離れた長い道を廻るには、お前達の想像も出来ないやうな速力で走らなければならない。その速力は一時間に二万七千里だ。一番速い機関車でも一時間に十五里しか走れないのだ。』
『まあ、僕達が考へても分らないやうな重さの此の大きな地球が、そんなに速く此の空を走るのですか。』とジユウルが云ひました。
『さうだ。地球は心棒も台もないが、その自然に出来た立派な道を通つて、一時間に二万七千里の速さで空中を走つてゐるのだ。』

五六 ベラドンナの実


 悲しい話しが、家から家へ、村中広まりました。その話しと云ふのはかうです。
 その日ルイは始めて半ヅボンを穿かして貰ひました。それにはポケツトとピカピカ光るボタンがついてゐました。新しい着物を着たルイはちよつと恥かしがりましたが、しかし大喜びでした。彼れは日に輝くボタンが大好きでした。そしてポケツトを幾度もひつくり返して、玩具が皆んな入るかどうか見てゐました。殊にその大得意なのは、いつも同じ時間を指してゐるブリキの時計でした。彼れよりも二つ年上の、兄のジヨセフもやはり大喜びでした。ルイはもう兄さんと同じ着物を着たので、兄さんは鳥の巣や苺のある森の中にルイを連れて行つてもいゝのでした。二人は、頸にかはいらしい小さな鈴をつけた、雪よりも白い一疋の小羊を持つてゐました。そして二人はそれを牧場へ連れて行くのでした。お弁当はバスケツトに詰めました。兄弟とも、遠くへ行つてはいけないと云つてくれるお母さんに、キツスしました。『よく弟に気をつけてね。』とお母さんはジヨセフに云ひました。『手を引いて行くんだよ。そして早く帰つて来るんですよ。』二人は出かけました。ジヨセフはバスケツトを持ち、ルイは小羊を曳いて行きました。お母さんも喜んで、いそ/\しながら、二人を戸口まで見送りました。子供等はお母さんを振り返つてはにつこりしながら、道の角を曲つて見えなくなりました。
 二人は牧場に着きました。小羊は草の上で遊んでゐました。ジヨセフとルイとは蝶を追つかけて、高い木の生えた森の中に入つて行きました。
『ヤア、大きなさくらんぼがあるよ。大きくて黒くなつてらあ。さくらんぼだよ。さくらんぼだよ。取つてたべようよ。』と突然ルイが叫びました。
 全く、暗い葉の低い木に、紫がかつた黒い大きな実がなつてゐました。
『此の桜の木は随分低いね。僕今までこんなのを見た事がないよ。木に登る世話もいらなければ、お前も新しいヅボンを破る心配もないね。』とジヨセフが答へました。
 ルイはそれを一つちぎつて口に入れました。それは気のぬけたやうな、ちよつと甘味のあるものでした。
『このさくらんぼはまだ熟してゐないんだよ。』と、ルイは吐き出しながら云ひました。
『これを食べて御覧。これはいゝよ。』ジヨセフはさう云つて、柔かいのを一つくれました。
 ルイはそれを食べて見て、又唾を出してそれを吐き出しました。
『駄目だよ。ちつともうまくないや。』
『まづいつて。そんな事があるもんか。』ジヨセフはさう云つて、一つ食べて、又一つ、又一つと、五つ食べました。そして六つ目になつて、たうとう止しました。やつぱりうまくないのでした。
『さうだね。まだ熟してゐないんだよ。もう少し取らう。そしてバスケツトに入れてれさしてやらう。』
 二人は此の黒い実を二た掬ひほど取つて、また蝶を追つかけ始めました。そしてもうさくらんぼの事は忘れて了ひました。
 それから一時間ばかり経つてからの事です。シモンが驢馬を引つ張つて水車場から帰る途中、生垣の下に二人の子供が坐つて抱き合つたまゝ、大きな声で泣いてゐるのを見つけました。その傍には小羊が横になつて、悲しさうに鳴いてゐました。小さい方が、もう一人の方にかう云つてゐました。『兄さん。お起きよ、そしてもう家へ帰らうよ。』兄の方は立ち上らうとしましたが、足が激しく震へて立つ事が出来ません。弟は、『兄さん、兄さん、口を利いておくれよ、口を利いておくれよ。』と云ひますが、兄は目を大きく大きく見張つて、歯をガタ/\云はせてゐるだけです。『籃の中にもう一つ林檎があるよ。あれ欲しいかい。皆んな兄さんにあげるよ。』と弟は頬に涙を流しながら云ひました。が、兄は震へて、痙攣を起して硬くなつて、益々眼を大きく見据ゑるのでした。
 丁度その時シモンがそこへ来合はせました。シモンは二人の子供を驢馬に乗せて、バスケツトを持ち、小羊を引いて、大急ぎで村へ帰りました。
 二三時間前までは元気で、弟を連れていそ/\として出駈けて行つた可愛いジヨセフが、人事不省になつて死にかけてゐるのを見て、可哀さうにお母さんは胸が潰れさうでした。『まあ神様、此の子を助けて、私を殺して下さい。ジヨセフや。ジヨセフや。』お母さんは悲しさに狂はんばかりになつて、ジヨセフに抱きついてキツスしながら、堪えきれなくなつて泣き出しました。
 医者が参りました。バスケツトに残つてゐるさくらんぼと間違ひた黒い実が、此の事件の原因だと云ふ事が、直ぐ分りました。
『あゝ、ベラドンナ(西洋はしりどころ)だ。もう遅すぎるな。』と医者はひそかに思ひながら、もう毒が大ぶめぐつてゐるので、とても効き目はあるまいと思ひましたが、とにかく薬をくれました。そして、実際、それから一時間ばかり経つてから、お母さんはベツドの傍にひざまずいてお祈りをして泣いてゐました。子供の小さな手は、布団の中から引き出されて、冷くなつてお母さんの手に握られてゐました。それは最後のお別れでした。ジヨセフはもう死んだのです。
 翌日、此の子供の葬式があつて、村中の人がそれへ行きました。エミルとジユウルとは悲しさうにして墓場から帰つて来ました。そして五六日といふもの、此の哀れな事件の起つた理由を、叔父さんに聞かうともしませんでした。
 それ以来、ルイは美しいブリキの時計があつても、時々遊ぶのを止して、泣き出しました。ルイは、ジヨセフは遠い遠い処に行つて了つたので、今に帰つて来るだらうと教へられてゐました。で、時々尋ねます。『お母さん。兄さんは何時帰つて来るの。僕、一人で遊ぶのはもういやになつてよ。』お母さんはルイにキツスして、エプロンの端で顔を掩つては熱い涙を流します。『お母さんはジヨセフが大好きなんでせう、それに何故僕がジヨセフのことを聞くたんびに泣くの。』とルイは聞きます。お母さんはびつくりして、つとめて泣くまいとはしますが、やはり涙が流れて来ます。

五七 有毒植物


 可哀さうなジヨセフの死は村中をびつくりさせました。子供等が家を出で、野原にでも行くと、その帰つて来るまでは絶えず皆な心配しました。それは、子供の欲しがりさうな花や実をもつた、有毒植物があるからです。そして皆んなは、こんな恐ろしい出来事がないやうにするには、その危険な植物を知つて、それに気をつけるように、子供等に教へるのが一番好い方法だと思ひました。そして皆んながふだん尊敬してゐる物知りのポオル叔父さんのところへ行つて、近所にある有毒植物の話をして貰ふように頼みました。そこで、日曜の晩に、大勢の人がポオル叔父さんの家に集まりました。その中には、叔父さんの二人の甥と一人の姪と、ジヤツクお爺さんアムブロアジヌお婆あさんの外に、水車場からの帰り途で二人の哀れな子供を連れて戻つたシモンと、水車屋のジヤンと、百姓のアンドレーと、葡萄作りのフイリツプと、アントワヌだのマテエだの其他沢山の人がゐました。前の日に、ポオル叔父さんは村中歩き廻つて、その話さうと思ふ植物を集めて来てゐました。花や実のついた、いろんな有毒植物の大きな束が、テーブルの上の水入れに差してありました。
『皆さん。』と叔父さんは始めました。『あぶない事を見ないやうに目を閉ぢて、それで安全だと思つてゐる人があります。又、人間に害になる物のある事が分つて、それがどんなものだかを知らうとする人があります。あなた方は此のあとの方の人です。そして私はそれを嬉しく思ふのです。いろんな悪い事が我々を待ち設けてゐます。我々はそれをよく注意して、その害悪の数を少なくしなければなりません。さて、今吾々は、毎年その犠牲をつくる此の恐ろしい植物を知つて、それを避けると云ふ、此の大事な事が分らなかつたために、恐ろしい不幸な目に逢つて了ひました。若し此の知識がもつと広まつてゐたら吾々が今その死をくやんでゐるあの子供は、死なずに済んで、今猶そのお母さんのいとし子でゐる事が出来てゐたらうと思ひます。実にあの子供は可哀さうでした。』
 雷が鳴つてさへ眉一つ動かさないポオル叔父さんの眼には、涙が溜つて、声は慄へてゐました。垣根の下で二人の子供が抱き合つてゐるのを見たシモンは、それを思ひ出して人一倍に深く感じました。彼れは日に焼けた痩せた頬に落ちてくる涙を隠さうとして、大きな帽子の縁を下ろしました。叔父さんはちよつと黙つて又話し出しました。
『あの子供はベラドンナで死んだのです。それは赤い鈴形の花を咲かせる可なり大きな草で、実は丸くて赤黒いさくらんぼに似たものです。葉は卵形で縁がギザ/\になつてゐます。草全体が胸を悪くするやうないやな臭ひを放つて、毒を持つてゐるぞと云はんばかりの薄黒い色をしてゐます。其の実はちよつと甘い味を持つてゐてさくらんぼに似てゐるので、殊に危険です。眼を大きくして、どこかを見詰めてゐるやうになつて、ぼんやりとなる、これがベラドンナの毒の特性です。』
 ポオル叔父さんは水入れの中から、ベラドンナの小枝を取り出して、聴きに来た人々に廻してやりました。で、一人一人、手近にその草を見る事が出来ました。
『その名前は何と云ふのですつて。』とジヤンが訊きました。
『ベラドンナ。』
『ベラドンナ。なるほど。私はその草を知つてゐますよ。よく私は水車場の近所の日蔭にそれを見ました。その綺麗なさくらんぼのやうな実に、そんな恐ろしい毒があらうとは思ひませんでしたよ。』
『ベラドンナつてどう云ふ意味ですか。』とアンドレイが尋ねました。
『それは美しい女といふイタリイ語です。昔し、女達はその肌を白くするのに此の草の汁を使つたものなんです。』
『そんな事は私なんぞの赤黒い肌には用のない事ですが、しかし子供の好きさうなその実は困つたものですね。』とアンドレイは顔をしかめました。
『これが牧場に生えたら、牛に危ない事はありませんか。』とこんどはアントニイが尋ねました。
『獣物は滅多に毒のある草木を食ひません。その臭ひで、殊に又本能のお蔭で、毒になるものはたべないです。
『もう一本の、此の大きな葉をした、そして外側が赤で、内側に白と紫のむらのある花の咲く、人の高さ程の大きな叢になる此の草はヂギタリス(狐尾草)と云ひます。花は長い鈴か、手袋の指先のやうな形をしてゐます。で、この特長に因んだ別な名があります。』
『それぢや、此の辺できつねのてぶくろと云ふのでせう。それなら森の廻りによく生えてゐますよ。』とジヤンが云ひました。
『花が手袋の指に似てゐるから、きつねのてぶくろと云ふのです。同じ理由から、この花は、ほかの所では、ノオトルダムの手袋だとか、マリアのてぶくろだとか、又指袋だとか云はれてゐます。ヂギタリスという名はラテン語で、指の形をした花と云ふ事です。』
『こんな綺麗な花に毒があると云ふのは可哀さうですね。庭にでも植ゑたらさぞいゝでせうに。』とシモンが云ひました。
『さうです。装飾植物として植ゑてもゐます。が、それはほかの庭とは厳重に区別してあります。ですが、皆さん、吾々には花の番をすると云ふやうなひまはないのですから、そんなものは植ゑない方がいゝのです。此の草はどこもかも毒です。心臓の動悸を緩めさせて、遂にはそれを止めると云ふ特性を持つてゐるのです。一体何時心臓が動悸を打たなくなるかと云ふ事は云ふ必要もないでせう。
どくぜりはもつと/\危険です。その細かく裂けた葉は山にんじんや、オランダぜりの葉とそつくりです。あまり好く似てゐるので、折々それに生命をとられる事があります。何故なら此の恐しい草は垣根や畑の中にまでも生えてゐます。しかし此の毒草とせりにんじんのやうな野菜とを見分けるにはごく簡単に、その匂ひで分ります。手でどくぜりの根を擦つて、それを嗅いでみるんです。』
『あゝ、それやいやな匂ひがします。やまにんじんオランダぜりにはそんないやな匂ひはありません。それさへ知つてゐたら間違ひつこはありませんよ。』とシモンが口を入れました。
『さうです。それを知つてゐれば間違ひはありません。が、さう云ふ事を知らない人には匂ひの事は分りませんね。しかし今晩あなた方は私の話をきいてそれが分つた筈です。』
『ポオルさん、あなたのお蔭で有毒植物の事がよく分りました。やまにんじんの代りに、毒にんじんを入れたサラダを造らないやうに、家に帰つたら、よくあなたに聞いた通り教へてやります。』とジヤンが云ひました。
『此のどくぜりには二通りあります。一つはおほどくぜりと云つて、湿つた処や、まだ耕やさない土地に生えるのです。これはやまにんじんそつくりで、茎に黒か赤の斑があります。もう一つはこどくぜりと云つてオランダぜりそのまゝです。これは耕した土地や、庭や垣根に生えます。両方ともきたくなるやうないやな匂ひを持つてゐます。
『まだここにごく見分け易い毒草があります。それはオランダかいうです。大抵は垣根に生えてゐます。葉は大変広くて槍の形をしてゐます。花は驢馬の耳のやうな恰好をしてゐます。そしてその花の底から、バタで作つた小指のやうなものが出てゐます。此の変な花に、やがてすばらしく赤い豆ほどの大きさの実がなります。此の草は何処もかも舌を焼くやうな堪らない味を持つてゐます。』
『ポオルさん。此の間家のリユシエンがそれでひどい目に逢ひましたよ。リユシエンが学校の帰りに、垣根の処で、今あなたが云つたやうな驢馬の耳のやうな花を見たんださうです。そしてその中の小指のやうなのがおいしさうに見えたんで、何んにも知らないもんだから先生食ひたくなつて、たうとうそれを食べたんですよ。すると、忽ち真赤に焼けた石炭を噛んだやうに舌が焼け出して、リユシエンは唾を吐き/\顔をしかめて帰つて来ましたよ。しかしもう今度はこりて食べないでせうよ。いゝ事に嚥み込んでゐなかつたものだから、翌くる朝は癒りましたがね。』とマテイユが云ひました。
『又、それに似た焼きつくやうな味は、たかとうだいを切つた時に出る乳のやうな白い汁にもあります。たかとうだいは何処にでもよくある草で、見かけのみすぼらしい草です。花は小さくてちよつと黄色で、此の草の頭の方に咲きます。この草は茎を切ると乳のやうな白い汁が沢山出るから直ぐ見分けがつきます。この汁は皮膚についても、皮膚が弱いと危いので、毒々しい焼けるやうな味がその特徴なのです。
『又、ヂギタリスに似たとりかぶとは激しい毒を持つてゐるのですが、その花が美しいのでよく庭に植えます。此の草は丘陵地にあるのです。花は青か黄色のヘルメツト形で、見事に間を離れて咲きます。葉は光沢つややかな緑色で四方に切れてゐます。此のとりかぶとは大変な毒を持つてゐて、あまりその毒が強いので、犬の毒だとか、狼の毒だとか云はれてゐる程です。歴史を見ると、昔は矢だとか槍の先だとかにとりかぶとの汁を塗つて、敵を殺したものださうです。
『往々又、冬になつても落ちない大きな光沢のある葉をした、黒い卵形の団栗どんぐり位の大きさの実のなる木を、庭に植えてあります。これはチエリイベイ(一種の月桂樹)です。その葉も花も実も杏や桃の核のやうな苦い匂ひを持つてゐます。このチエリイベイの葉はクリイムや牛乳に香ひをつけるために使ふ事があります。しかしこれは充分注意してやらないといけません。チエリイベイには酷い毒があるのです。ちよつとその木の陰に坐つてゐても、その苦い匂ひで気持が悪くなると云はれてゐる程です。
『又、秋になると、湿地に、薔薇色やライラツク色の大きな美しい花が、茎も葉もないまゝで沢山生えます。これは犬さふらんと云ひます。寒い頃の夕方咲きます。地面を少し掘り下げると、此の花は樺色の皮をきた大きな球根が出てゐる事が分ります。これは毒草ですから、牛は決して食べません。球根にはもつと酷い毒があるのです。
『今日は余り沢山毒草の話しをしました。今日はもうこれで止しませう。そして次の日曜にはきのこの話をしませう。』

五八 花


 前の日ポオル叔父さんが毒草の話をした時、皆んなはごく熱心に聞いてゐました。花の話をする時に、誰れがそれを聞かない人がありませう。が、ジユウルとクレエルとはもつと詳しくそれを聞きたいと思ひました。昨日叔父さんが見せてくれた花はどんな風に出来てゐるのか。その中にはどんなものがあるのか。又その花は植物にどんな用をするのか。庭の大きなたづのきの下で叔父さんは次の話をし始めました。
『昨日お話したヂギタリスの花から始めやう。さあ、此処にその花が一つある。御覧の通り、ちやうど手袋の指先か、尖つた帽子のやうな形をしてゐる。エミルの小指位はその中に入つて了ふ。此の花は赤がかつた紫色をしてゐる。内側の方には白い縁のついた晴紅とき色の斑がある。そして此の花は五枚の小さな葉が輪になつたものへ真中から出てゐる。此の小さな葉もやはり花の一部分だ。これが集つてがくといふものを造つてゐるのだ。残りの赤い部分は花冠と云ふものだ。此の名は初耳だらうがよく覚えておくがいゝ。』
『花冠といふのは花の色のついた部分の事で、萼と云ふのは花冠の台になつてゐる小さな葉の輪の事です。』とジユウルが云ひました。
『大概の花は同じやうな袋を二つもつてゐて、その一つはもう一つの方の中に入つてゐる。此の外側の袋、即ち萼は殆どいつも緑色で、内側の袋即ち花冠は吾々を喜ばせる美しい色で飾られてゐる。
『此処にあるぜにあふひの萼は、やはり五枚の小さな葉で出来てゐて、五枚の大きな花冠は薔薇色をしてゐる。この花冠の一つ一つを花弁と云ふのだ。花弁が集つて花冠になるのだ。』
『ヂギタリスの花冠は一つの花弁もなくつて、ぜにあふひには五枚ありますね。』とクレエルが云ひました。
『ちよつと見るとさうだが、気をつけて見ると両方とも五枚あるのだ。どの花でも殆ど皆な、蕾の中で花弁が一つにかたまつて了つて、一枚の花弁としか見えない花冠になるものだ。しかし、大てい、そのかたまつた花弁が花の端の方でちよつと割れてゐて、そのギザ/\で何枚の花弁が一つになつたのか分る。
『此の煙草の花を見てごらん。この花冠はちよつと見ると一枚の花弁で出来た樽形の煙出しのやうな形をしてゐるだらう。しかし、花の端の方が五つの同じやうな部分に分れてゐる。で、煙草の花にもぜにあふひと同じやうに五枚の花弁があるのだ。たゞその五枚の花弁が、一つ一つはつきりと分れてゐないで、煙出しのやうな形に一つにかたまつて了つたのだ。
『花弁が一つ一つはつきりと分れた花冠は複弁花冠と云はれてゐる。』
ぜにあふひのやうなのがさうなんですね。』とクレエルが尋ねるやうに云ひました。
『梨や、杏や、苺もさうだよ。』とジユウルが附け足して云ひました。
『ジユウルはまだあの綺麗な三色すみれや普通の菫の事を忘れてゐますね。』とエミルが云ひました。
『花弁が一つにかたまつてゐる花は単弁花冠といふのだ。』とポオル叔父さんが云ひました。
『例へばヂギタリスやたばこがさうですね。』とジユウルが云ひました。
『垣根に生えてゐる、綺麗な風鈴草もさうですね。』とエミルが云ひました。
『こゝにあるきんぎよさうの花も、やはり五つの花弁が一つになつてゐる。』
『どうしてこれをきんぎよさうなぞと云ふのでせう。』とエミルが聞きました。
『その花をすとちやうど金魚のやうに口をぱく/\開けるからだ。』
 ポオル叔父さんは此の花の口を開けてみせました。指で圧すと、噛みつくやうに口を開けたり閉ぢたりします。エミルはじつとそれを見つめてゐました。
『此の口には上と下と二枚の唇がある。よく見ると上唇は二つに割れてゐる。それが二枚の花弁だと云ふ事が分り、下唇は三つに分れてゐて、三枚の花弁だと云ふ事が分る。だから、きんぎよさうの花冠は一枚のやうに見えるが、実際は五枚の花弁がくつついてゐるのだ。』
『すると、ぜにあふひや梨や杏の花弁は一つ一つ離れてゐて、ヂギタリスやきんぎよさうたばこの花弁は一つになつてゐると云ふ違ひがあるだけで、ぜにあふひも、梨も、杏も、ヂギタリスも、たばこも、きんぎよさうも皆んな花弁は五つあるんですね。』とクレエルが云ひました。
『くつついてゐやうが、離れてゐやうが、とにかく花弁が五枚の花はほかにも沢山ある。』とポオル叔父さんは話しつづけました。
『また萼の話に戻らう。萼を造つてゐる五枚の緑の葉は萼片と云ふのだ。今見た花はどれも五枚の萼片を持つてゐる。ぜにあふひにも五つ、たばこにも五つ、ヂギタリスにも五つ、きんぎよさうにも五つある。花弁と同じやうに、萼の各部分即ち萼片も、別々になつたまゝのものと、一つにくつついたものとあるが、どれもその数がちやんと分るやうになつてゐる。
『萼片がはつきり分れてゐるものは複状萼と云ふ。ヂギタリスやきんぎよさうはさうだ。
『萼片のくつついて一つになつた萼は単状萼と云ふので、たばこの花の萼がそれだ。五つのギザ/\があるから、誰れでもこれは五枚の萼片が一つにくつついたんだと云ふ事が分る。』
『どれにもこれにも五といふ数があるんですわね。』とクレエルが云ひました。
『花は云ふまでもなく実に美しいものだが、又不思議な構造に出来てゐる。どの花もちやんとした規則で作つたやうに、数がきまつてゐる。そして五の数で出来てゐるのが一番普通なんだ。だから今朝調べた花にはどれも五つの花弁と五つの萼片とがあるのだ。
『その次ぎに普通なのはその数だ。それはチユウリツプや、百合や、谷間の姫百合のやうな膨らんだ花がさうだ。これらの花には緑色の萼はなくて、内側に三枚外側に三枚、都合六枚の花弁で出来た花冠があるのだ。
『萼と花弁とは花の着物で、寒さを防ぐのと、人の眼を喜ばせるのと、二重の用をする。外側の着物の萼は、粗末な色をした丈夫なもので、悪い気候に堪えるやうに出来てゐる。そして蕾を保護して、それを暑さや寒さや雨に当てないやうにする。薔薇やぜにあふひの蕾を見て御覧、五枚の萼片が一つになつて、しつかりと蕾を包んでゐる。雫一つ中に浸みこませない程確りとくつついてゐる。花の中には、夜の寒さに当てないやうにするために、夕方になると萼がつぼんで了ふのもある。
『内側の着物、即ち花冠は綺麗な色をした地で美しい形になつてゐる。花は吾々の婚礼服のやうなものだ。これが一番吾々の眼を引きつけるものだから、吾々は花冠が花の一番大事な部分だと思ふが、実は附けたりのお飾りに過ぎないのだ。
『此の二つの着物の中では、萼の方が大事なものだ。花冠のない花は沢山あるが、萼のない花はない。花冠のない花は目にとまらないので、吾々はそれを花の咲かない木だと思ふ。が、それは間違ひだ。どんな草木にも花は咲くのだ。
『柳や、樫や、白楊や、松や、ぶなや、小麦や、其他のいろんな植物には花がないやうですね。僕見た事がありませんよ。』とジユウルが尋ねました。
『柳や樫やその他の木にも花は咲くのだ。たゞ、花が小さくて花冠が無く、あまりその花が目立たないので、吾々が気づかないだけの事だ。これには例外といふものは無い。どんな植物にも花は咲く。』

五九 果実


『あの人はこんなに着て居るとか、あんなに着てゐるとか、云ふだけでは、その人を知つてゐるとは云へない。花は萼と花冠の着物を着てゐると云ふ事が分つたところで、まだ花を知つてゐるとは云へない。此の着物の下に何にがあるのか。
『こんどはにほひあらせいとう丁子ちょうじの一種)の花を調べてみやう。此の花には四枚の萼片で出来た萼と、四枚の黄色い花弁で出来た花冠とがある。此の八つのものを取り捨てゝ了ふ。すると、その後に残つたものが大事な部分で、花には出来ぬ役目をするもので、これが無くては花はもうその花として、役目を果す事の出来ない、何んの用もないものになる。それで此の残つた物をよく調べやう。
『第一に、黄色い粉が一杯はいつた袋を持つた、六本の小さな白い棒がある。此の六本の棒は雄蕋ゆうずいと云ふのだ。雄蕋はどの花にも必ずいくつかある。にほひあらせいとうにはそれが六本あつて、長い方の四本は対になつてゐて二本は短い。
『雄蕋の頭についてゐる二つ重なつたやうな袋はやくと云ふのだ。そしてその袋の中にはいつてゐる粉は花粉と云ふのだ。丁子や百合や、其他大抵の植物の花粉は黄色だが、美人草ひなげしのは灰色をしてゐる。』
『叔父さんは此の間、森の風で吹き上げられた花粉の雲が、硫黄の雨のやうに見えると話して聞かせましたね。』とジユウルが云ひました。
『此の六本の雄蕋も取つて了ふ。こんど残つたのは、底が脹れて、上の方が小さくなつて、頭の上は粘々したもので湿れてゐる。これは雌蕋しずいと云つて、底の脹れたところを子房と云ひ、頭の粘々した処は柱頭といふのだ。』
『こんな小さな物にいろんな名があるんですね。』とジユウルが云ひました。
『なる程小さいが、仲々大事なものなんだ。此の小さいものが、吾々の毎日のパンになるのだ。此の小さなものが、不思議な仕事をしてくれなかつたら、吾々は飢死をして了ふかも知れない。』
『では、その名を忘れないやうにしませう。』とジユウルが云ひました。
『僕だつて忘れませんよ。が、もう一遍話して下さい。随分難しいものです。』とエミルが云ひました。
 ポオル叔父さんはもう一度話してやりました。ジユウルとエミルとは叔父さんについて、雄蕋、花粉、雌蕋、子房、柱頭を繰返して云ひました。
『ナイフで花を二つに割つて見やう。さうすると子房の中の方が分るからね。』
『小さな種子が二つの室に行儀よく並んでゐますよ。』とジユウルが云ひました。
『この小さな種子は何だか知つてゐるかね。』
『いゝえ。』
『これが今に、此の草の種子になるのだ。子房は種子が出来る所なんだ。時期が来ると花は枯れて了ふ。花弁が萎んで落ちて、萼も落ちる。或は、萼たちは暫くの間生き残つて、保護者の役目を果してから落ちる。雄蕋は乾いて離れて了つて、後にはたゞ子房だけが残る。そして子房はだん/\大きくなつて、熟して、最後に実となるのだ。
『梨も、林檎も、杏も、桃も、胡桃も、さくらんぼも、瓜も、苺も、はたんきやうも、栗も、皆んな雌蕋の底の膨れた所が大きくなつたものだ。そして、吾々のたべ物になるやうに木が造つてくれるものは皆初めは此の子房だつたのだ。』
『梨は初めは梨の花の子房だつたのですか。』
『さうだ。梨も、林檎も、さくらんぼも、杏も、皆んな綺麗な花の子房が大きくなつたのだ。では、杏の花を見せてあげやう。』
 ポオル叔父さんは杏の花を持つて来て、ナイフで割つて子供等にその中を見せました。
『花の中央に、雄蕋に取り巻かれた雌蕋があるだらう。その頭の方にあるのが柱頭で、底の方に膨れたのは、今に杏になる子房なんだ。』
『あの小さな緑色のが、僕の大好な、おいしい汁の出る杏になるんですか。』とエミルが訊きました。
『さうだ。あの緑色のが、エミルの大好な杏になるのさ。お前達はパンになる子房を見たいと思ふかね。』
『えゝ、何もかも珍しいもの許りですよ。』とジユウルが答へました。
『珍らしいどころか、大事な事だよ。』
 クレエルは叔父さんに云ひつけられて針を持つて来ました。非常に念を入れて、叔父さんは花の一ぱいに咲いた麦の穂から、その一つだけ取り離しました。
『パンになる此の尊い草はお化粧をする事を考へるひまがないんだ。世界中の人間を養ふと云ふ大事な仕事があるんだからね。で、こんな粗末な着物を着てゐるんだ。萼と花冠の代りに、ごく粗末な皿のやうなものが二枚あるだけだ。二つに重なつたやうな袋を持つた三本の雄蕋が下に垂れてゐるだらう。此の花の大事な所は樽形の子房で、これが熟したら一粒の小麦になるのだ。その柱頭の上にはごく細い二つの羽がついてゐる。お前達は、吾々を生かしてくれる此の飾気のない小さい花をよく見てお置き。』

六〇 花粉


 幾日かすると、又どうかすると二三時間のうちに、花は萎んで了ふ。雄蕋も雌蕋も萼も枯れて了ふ。そしてたゞ一つ後に残るのは、実になる子房だけだ。
『さて、花のほかの部分が枯れ落ちる時にも、後まで生き残つて、茎にくつついてゐる此の子房は、花の一番勢ひのいゝ時に、新しい生命とも云ふべき力をつけられるのだ。そして花冠は、その美しい色と匂ひとで、子房が此の新しい力をつけられる大事な時をお祝ひする。それが済んで了ふと、花はもうその役目を終つたのだ。
『ところで、この力をつけてやるものは、雄蕋の黄色い粉、即ち花粉で、これがなかつたら、種子は子房の中で死んで了はなければならない。花粉はいつも粘々した柱頭に落ちる。そして此の柱頭から子房の奥の深くの方にまではいつて行く。かうして、新しい力をつけられて勢ひづいた種子は急に発育して、子房はそれに応じて膨れてゆく。此の不思議な仕事の最後の結果が、やがて新しい芽を出す種子を持つた実になるのだ。
『こんどは、花粉が柱頭に落ちると云ふ事が、何故子房を実にする一番大事な事か、と云ふ事を話して上げやう。
『大抵の花には雄蕋と雌蕋の両方がある。今まで見た花は皆さうだつた。だが、中には、或る花には、雄蕋だけあつて、別な花には雌蕋だけあるのがある。又中には、同じ木に、雄蕋だけの花と、雌蕋だけの花とあるものがある。また中には、雄蕋を持つた花も、雌蕋を持つた花も、別々な木に咲くのがある。
『余りいろ/\と教へ過ぎたかも知れないが、私は、同じ木に、雄蕋だけを持つた花と、雌蕋だけを持つた花とが咲くのは、雌雄同株の植物と云ふのだと云ふ事を教へてあげたいのだ。此の言葉は「同じ家に住んでゐる」と云ふ事だ。つまり、雄蕋だけの花と、雌蕋だけの花とが、同じ木に咲くところから、一つ家に住んでゐると云ふわけだ。南瓜、胡瓜、瓜などは雌雄同株の植物だ。
『雄蕋を持つた花と、雌蕋を持つた花とが別々な木に咲く植物は雌雄異株の植物、即ち、別々な家に住む植物と云ふのだ。こんな木には、子房と花粉とは同じ木にはないのだ。いなごまめなつめしゆろ海棗うみなつめ)、あさなどは雌雄異株植物だ。
いなごまめはフランスのごく南の方に出来る。実は豆と同じやうな莢に入つてゐるが、樺色で長くて肥つてゐる。そして実は大変に甘い。若し、気候がよくて、いなごまめが此辺の畑にも生えるものだとしたら、吾々はどのいなごまめを植えたらいゝだらう。勿論それは雌蕋のある方だ。何故なら、それには実になる子房があるのだ。しかしそれだけでは足りない。それだけを植ゑたのでは、雌蕋のあるいなごまめは年々花は開くが少しも実を結ばない。といふのは、枝に子房一つ残さずに花が散つて了ふからだ。では、何にが必要なのか? それには花粉の仕事が必要なのだ。雌蕋のあるいなごまめの傍に、雄蕋のあるいなごまめを植えてみる。こんどは望み通り実を結ぶ。風と昆虫とが雄蕋から柱頭へ花粉を運ぶ。すると、眠つてゐた子房が生き上がつて、莢はだん/\大きくなつて熟して行く。花粉があつて実が出来、花粉がなければ実は出来ないのだ。ジユウル、分つたかい。』
『よく分りましたよ、叔父さん。が、残念な事に私はいなごまめを知りません。此の辺にあるものを何にか教へて下さいよ。』
『それも教へてあげよう。だがその前に、もう一つほかの例を話さう。
なつめしゆろは、いなごまめと同じやうに、やはり雌雄異株植物だ。アラビア人はその実を取らうと思つてなつめしゆろを栽培する。――アラビア人には此のなつめしゆろが主なたべ物なのだ。』
なつめしゆろといふのは乾かして箱詰めにしてある大変おいしい長い果物ですね。この間の縁日でトルコ人がそれを売つてゐましたつけ。核は長くつて、縦に裂けてゐますね。』とジユウルが云ひました。
『それだよ。日に焼けた砂原だらけの、なつめしゆろの生える国では、水のある肥えた土地は少い。そして此の水のある肥えた所はオアシスと云ふのだ。アラビア人は出来るだけよく此のオアシスを利用しなければならない。で、アラビア人は実の出来る雌蕋のあるなつめしゆろだけをそこに植える。そして花の咲く頃になると、雄蕋を持つた野生のなつめしゆろの林を探しに遠くまで出かけて行つて、その花粉を畑に撒く。かうしなければ、実は出来ないのだ。』
『子房も大事だが、花粉もやはり大事なんですね。叔父さん。花粉がなければ、なつめしゆろを食べる事も出来ず、杏も桃も食べられないのですね』とエミルが云ひました。
『畑にある長い南瓜の蔓が、もう花を咲きかけてゐるだらう。あれで次のやうな実験をしてごらん。
『南瓜は雌雄同株の植物だ。即ち、雄蕋の花と、雌蕋の花とが同じ一本の木にある。花がまだ十分開かない中に、その区別はよく分る。雌蕋のある花は、その花冠の下に、胡桃位の大きさの膨らみを持つてゐる。これが南瓜になる子房なのだ。雄蕋のある花には此の膨らみはない。
『まだ花がよく開かない中に、雄蕋のある花を皆な切り捨てゝ、雌蕋の花だけを残して置く。そして猶念のために、それを小さなガアゼの片で包んで置く。その包みの大きさは花が十分開ける位にしておくのだ。さうすると、どうなるか分るかい。雄蕋のある花は切り捨てゝある上に、包んだガアゼの袋が近所の庭から来る昆虫を近寄らせないので、花粉を受ける事が出来なくなつて、雌蕋のある花は暫く咲いただけで萎んで了ふ。そして南瓜は一つもならない。
『その反対に、ガアゼの袋をかぶせて雄蕋の花と遠ざけた、そのどの花にでも、南瓜をならせやうとするにはどうしたらいゝか。それは、指の先に花粉を取つて来て、それを雌蕋の花の柱頭に塗りつけてやるのだ。それだけの事で、南瓜は立派に実のる。』
『その面白い実験をやつてみてもいゝんですか。』とジユウルが訊きました。
『あゝいゝとも。』
『私、ちやうどそのガアゼを持つてゝよ。』とクレエルが叫びました。
『僕それを結える紐を持つてらあ。』とエミルが云ひました。
『さあ、行かうよ。』とジユウルは急き立てました。
 そして雲雀のやうに騒いで、三人の子供は実験の用意をしに庭の方へ駈け出しました。

六一 土蜂


 花粉のある花は切り落されて、子房のついた花はガアゼで別々に包まれました。毎朝子供等は花の咲くのを見に行きました。そして切り落した花の花粉を、雌蕋のある四つ五つの花の柱頭にふりかけました。すると、果して叔父さんの云つた通りになりました。柱頭に花粉をつけられた子房は南瓜になつて、つけられない花は膨れずに萎んで了つたのです。此の真面目な研究であり、且つ面白い楽しみになつた実験の間ぢう、叔父さんは花の話をつづけて居りました。
『花粉はいろんな方法で柱頭につく。或は高い雄蕋の上から低い雌蕋に、自分の重さで落ちる。又、風が花を動かし、雄蕋の粉を柱頭につけてやつたり、ほかの子房のところへ遠方まで運んでやる事がある。
『又、或る花では、雄蕋が自分で動いてその役目を果すのがある。雄蕋が代りばんこに曲つて、その粉袋を柱頭に擦りつける。それが済むと、緩々ゆるゆると起き上つて、こんどはほかの雄蕋がそれをやる。ちやうど王様の足許にいろんな家来が捧げ物を供へるやうな恰好だ。それが済んで了ふと、雄蕋の仕事はもう終つた事になる。花が散ても、子房は種子を育て始めるのだ。
せきしようもは水の底に生える草だ。これはフランスの南の方の川に沢山生えてゐて、葉は細い緑色のリボンに似てゐる。此の草は雌雄異株、即ち雄蕋のある花と、雌蕋のある花とが、別々の木に咲く。雌蕋のある花は長いそしてしつかりと螺線状に巻いた茎のさきに咲いてゐて、雄蕋のある花はごく短い茎についてゐる。水の中では、流れが花粉を流して了つて柱頭につくのを邪魔するので、花粉が子房のところへ行く事が出来ない。そこで、せきしようもは、水面に出して空中でその花を開かうとする。それは雌蕋の花には直ぐに出来る。その縮んだ茎を伸して水の表面に出さへすればいゝ。が、短い茎を持つて底の方に咲いてゐる雄蕋の花はどうするのだらう。』
『さあ、分りませんね。』とジユウルが答へました。
『他の助けを借らないで、自分の力で、その花は茎から放れて、雌蕋の花に逢ひに水面へ上つて行くのだ。そしてその小さな白い花冠を開いて、その花粉を風や昆虫に柱頭のところへ持つて行つて貰ふのだ。それが済むと、その花は枯れて流れに流されて了ふ。雌蕋の花は、かうして花粉をつけられると、再び縮んで底の方へ沈んで行つて、そこでゆつくりとその子房を熟させる。』
『奇体ですねえ、叔父さん。その小さな花は自分で分つてそんな事をしてゐるやうですね。』
『自分のやつてゐる事は分らないのだ。たゞ、機械的に、さうしてゐるだけの事だ。まだ、もつと面白い事があるよ。それはきんぎよさうだ。
『昆虫は花の媒介者なこうどだ。蠅も、胡蜂も、蜜蜂も、土蜂も、甲虫も、蟻も、皆雄蕋の花粉を柱頭に運んでやる助太刀をする。虫は皆な、花冠の底にある蜜に誘はれて、花の中に潜り込む。そして蜜を取らうとして、雄蕋をゆすると、そのからだに花粉がくつつく。虫はそれを運んで花から花へと飛ぶのだ。土蜂が花粉だらけになつて花から出て来るのは誰れでも見る事だ。此の花粉のついた毛だらけの腹は、かうして花から花へと飛んでゐる間に雌蕋の花の柱頭に触つて、そこへ新しい生命を伝へるのだ。春になると花の咲き盛つた桃の木に、蠅や蜂や蝶の群が、ぶん/\唸りながら忙しさうに飛び廻つてゐる。あれは三重の用をしてゐるのだ。昆虫は花の底から蜜を持つて来る。木はそのおかげで子房が活き出す。そして人間も亦、そのおかげで、沢山の実をとる事が出来る。かうして昆虫は一番よく花粉を配り廻つてくれる。』
『叔父さんがガアゼで南瓜の花を包ませたのは、近所の庭から、昆虫が花粉を持つて来るのを防ぐためだつたんですね。』とエミルが尋ねました。
『さうだ。あゝ云ふ設備をしておかないと、遠くの方から昆虫が飛んで来て、ほかの南瓜にあつた花粉をぬりつけて、此の南瓜の実験が駄目になつて了ふからね。それもほんの少しの花粉でいゝんだ。僅か一粒でも二粒でも、それで子房は十分活きて来るのだから。
『昆虫を引きつけるために、あらゆる花はその花冠の底に、蜜と云ふ甘い汁が入つてゐる。此の汁で蜂は蜂蜜を作るのだ。深い煙突のやうな形をした花冠の中から此の蜜を吸ひ出すのに、蝶は長い喇叭ラッパのやうな管を持つてゐる。休んでゐる時には、蝶はそれを螺線のやうに巻いてゐるが、甘い汁を吸ひたくなると、それを伸して錐のやうに花の中に差し込む。昆虫には此の蜜は見えないのだが、そのありかはよく知つて直ぐ探し出す。が、花によつては非常に厄介なのがあつて、どこもかも堅く閉されてゐるのがある。そんな時には、どうしてその蜜に届く入口を探し出すのだらう。そんな花には、此処から入れといふ或るしるしがあるのだ。』
『そんな事があるものですか。』とクレエルが云ひました。
『あるかないかお前たちに見せてあげよう。此のきんぎよさうを見てごらん。此の花は堅く閉ぢて、二枚の唇の間が塞つてゐる。色は紫がかつた赤だが、下唇の中頃に明い黄色の大きなほしがある。これが今云つたしるしで、よく目につくやうになつてゐる。此のしるしが、此処は鍵穴だよと云つてゐるのだ。
『此の斑を小指で押してごらん。そら、直ぐ花が口を開けるだらう。こゝが秘密の鍵のある所なのだ。お前たちは、土蜂はそれを知らないと思ふだらう。ところが、庭で見てゐると、蜂が此の花の秘密をよく知つてゐる事が分る。蜂がきんぎよさうのところに来ると、必ず此の黄色い斑に止つて、決してほかの所には止らない。そして戸が開くと入つて行く。蜂は花冠の中へ潜り込んで花粉をからだにつける。そして此花粉を柱頭につけるのだ。かうして汁を吸ふと又飛び出して、他の花へ飛んで行く。』

六二 きのこ


 かうして昆虫や花の話をしてゐる間に、時が経つて、ポオル叔父さんがきのこの話をする筈になつてゐた次ぎの日曜が来ました。集りは第一回の時よりも大勢でした。有毒植物の話は村中にひろがつたのでした。愚かな或る人達は、『そんな話が何んの役に立つのだ。』と云ひました。『役に立つとも。』と村の人々は答へました。『毒草を知つて、ジヨセフのやうに無残な死にかたをしないやうにするのだよ。』しかし愚かな人々は只平気で頭を振つてゐました。馬鹿ほど恐ろしいものはありません。かうして、気の向いた人だけがポオル叔父さんの処に聞きに参りました。
『あらゆる毒草の中で、きのこが一番恐ろしいものです。』と叔父さんは話し始めました。『それでも、どんな人でも引きつけるやうな、非常においしいたべものになるのがあります。』
きのこの味は一々違ふやうですね。』とシモンが云ひました。
『今私が云つた通り、きのこはどんな人にでも好かれるから、あなただけが味をよく知つてゐるとは云はれません。私はきのこが役に立たないものだとは思はない。きのこは我がフランスの財源の一つです。たゞ私はその毒のあるものを注意するやうにお話したいのです。』
『良いのと悪いのとの見分け方を教へやうとなさるのでせう。』とマシウが尋ねました。
『いゝえ、それは吾々の出来ない事です。』
『何故出来ませんか。いろんな木の下に生えてゐるきのこを、誰だつて安心して食べてゐるではありませんか。』
『その点に就いてお話しする前に、私は皆さんにお尋ねしたい事があります。あなた方は私の云ふ事を信用なさるのですか。こんな物事の研究に一生を捧げてゐる人の云ふ事は、それに関係してゐない人々のほんの聞きかぢりの言葉よりも為めになるものだと思はないのですか。』
『ポオルさん、どうぞ話して下さい。皆なあなたの御研究を十分信じてゐるのですから。』と一同に代つてシモンが答へました。
『よろしい。それでは十分念を入れて御話しませう。きのこには、これは食べられる、これは食べられないと云ふしるしが附いてゐませんから、食用きのこと、有毒蕈とを見分ける事は専門家でない人には出来ない事です。そればかりではなく、地上に生えてゐる草や木は、その根や、形や、色や、味や、匂ひなどで、無害か有毒か、一と目で見分けられるものは一つもありません。精密な科学的注意を払つてきのこの研究に幾年も費してゐる人は、そのきのこの有毒か無害かを可なりよく見分ける事が出来ます。が、吾々にそんな研究が出来る事でせうか。そんな時間が有りますか。吾々は僅か十二三種の野生のきのこの事を知つてゐるだけで、非常に似通つた無数のきのこを見分けやうとしたところで、とても駄目な事です。
『尤も、どこの国にでも、人間が食べても安全な数種のきのこの事は、昔から経験で分つてゐます。此の経験に従ふのはごくいゝ事です。が、それだけではまだ危険を避けるのに十分ではありません。違ふ国へ行つて、自分の国にある食べられるきのこと全く同じやうなきのこを見つけるとします。それは非常に危険な事です。で、私はどんなきのこでもすべて信用しない事にして、十分の用心をするのが一番いゝと思ひます。』
『あなたの仰しやる通り、食べられるきのこと毒のあるきのことを一と目で見分ける事は出来ません。けれどもそれが分る方法があります。』とシモンが云ひました。
『何うするんですか。』
『秋きのこを小さく切つて日に乾します。それを冬になつて食べるとおいしいものです。毒のあるきのこは乾かないで腐つて了ひます。そこでいゝのだけをしまつておくのです。』
『それはいけません。良いきのこも悪いきのこも、その成長の如何により、又それを乾す時の天気によつて、或は腐つたり或は腐らなかつたりするのです。そんな見分け方は役に立ちません。』
『しかし、いゝきのこには虫がたかりますが、悪いきのこには虫がたかりません。それは毒で虫が死ぬるからです。』とこんどはアントニイが口を出しました。
『それは先のよりももつと間違つてゐます。虫は、古いきのこには、その良し悪しに構はずに集ります。吾々なら死ぬやうな毒でも虫には利かないのです。虫の腹は毒を食べても差支へのないやうに出来てゐます。或虫はとりかぶとや、ヂギタリスや、ベラドンナのやうな、吾々を殺すやうな草を食べてゐます。』
きのこ※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)る時、鍋の中に銀貨を落すと、毒があれば銀貨が黒くなり、毒が無ければ白いまゝでゐるさうですね。』とジヤンが云ひました。
『それは馬鹿げた話です。そんな事をしたら馬鹿になつて了ひます。いゝきのこに入れても悪いきのこに入れても銀貨の色は変りません。』
『ぢや、きのこは食べないでゐるより外に仕方はないぢやありませんか。困つたものだなあ。』とシモンが云ひました。
『どうして/\。その反対に、今まで以上に食べられます。その只だ一つの方法は、よく/\気をつけると云ふ事です。
きのこで毒なのは肉ではなくて、その中にある汁です。汁を抜き出して了ふと、毒になる所は直ぐ失くなつて了ひます。さうするには、きのこを小さく刻んで料理し、乾すなり生のまゝなりで、一握りの塩を入れた水で※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)ればいゝのです。そして、それを水の中へ入れて、二三度水で洗ひます。それだけの事できのこは食べられるやうになります。
『それと反対に、最初水で※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)て置かないと、毒汁のために酷い目に逢はなければなりません。
『塩を混ぜた水で※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)ると云ふ事は、毒を溶かすためで、或る人達は私の今云つた通りに料理した、酷い毒のあるきのこを幾ヶ月も食べてみました。』
『その人達はどうなりましたか。』シモンが尋ねました。
『無事でした。だが、此の人達は、十分行き届いた用心をして毒のあるきのこを料理したのです。』
『なるほど尤もな事です。が、あなたのおっしゃる通りだとすると、どんなきのこでも皆な食べていゝんですね。』
『さうです。しかし、やはり危い事があります。それは不完全な料理をする恐れがあるからです。で、私は、此辺でいゝきのこだと云はれてゐるものでも、やはり湯で※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)てから食べるやうにお勧めしたいのです。若し偶然に毒のあるきのこが混つてゐても、毒は此の方法で消されて無事にたべられます。』
『ポオルさん。これからきつとあなたが今教へて下すつた通りにしますよ。取つて来た中に毒のあるのが決してないとは云へませんからね。』
 そして別れを告げる前に、シモンはアムブロアジヌお婆あさんと、しきりにきのこの料理の話をしてゐました。それ程シモンはきのこが大好きなのでした。

六三 森の中


 恐ろしい危険を避ける料理法の話になつてしまつた、きのこの話は、これを聞きに来たシモンや、マシユウや、ジヤンや、その他の人々にはもう十分でしたが、エミルやジユウルやクレエルにはまだ足りませんでした。彼等は珍らしい植物の事を沢山知りたがつてゐるのです。或日、叔父さんは子供等を連れて、村近くのぶなの木の森に出かけました。
 高く枝を交へた、五六百年も経た樹木は、葉の緑門アーチを造つて、その隙間から此処彼処に日光を漏らしてゐました。白い皮をつけた、滑らかな幹は、影と静けさとの満ち/\た、重い大きな建物を支へてゐる大柱のやうに思はれました。高い梢では烏が羽を撫でながらカア/\鳴いてゐました。時々赤い頭をした緑色の啄木鳥きつつきが、嘴で虫の食つた木をつついて、昆虫を出してたべる仕事の最中に、驚いて叫びながら矢のやうに飛んで行つて了ひました。土を掩ふた苔の中からは、あちこちにきのこが沢山出てゐました。丸いのもあります。平つたいのもあります、白いのもあります。ジユウルは切りにそれを賞めそやして、苔の凹みのところを歩いてゐた牝鶏が卵を産んで行つたものと想像してみたりしました。又、朱のやうに真赤なのもあれば、明るい鹿毛色のや、美しい黄色をしたのもあります。地の下から出かけて来て、まだ袋のやうなものに包まれてゐるのもあります。これはそのきのこの大きくなるにつれて破れて了ふのです。又もつと大きくなつて、開いた蝙蝠傘こうもりがさのやうになるのもあります。そして又、もう腐れて、倒れてゐるのも沢山ありました。その臭い腐つたきのこには、やがて昆虫になる蛆が沢山湧いてゐました。かうして、皆んなは主なきのこの種類を集めた後で、ぶなの木の下の柔かな苔の上に坐つて、ポオル叔父さんは次のやうに話してきかせました。
きのこは地の中にある植物の花で、学者はその植物の事を菌糸と云つてゐる。此の地下植物は白くて細い、脆い糸から出来てゐる、大きな蜘蛛の巣のやうなものだ。若しそつときのこを引き抜いて見ると、その軸の下から地面にくつゝいた、菌糸の糸を沢山見出す事が出来る。今仮りに地面一杯を薔薇で掩ふやうに薔薇を植えたとしてみやう。埋めた根は菌糸で、空中に咲いた薔薇は菌糸の花、即ちきのこに当るわけだ。』
『薔薇の木には葉の繁つた強い枝がありますが、きのこには、僕の見たところでは、何もそんなものがありませんね。白い脈になつて地中に枝を出したかびのやうなものなんですね。』とジユウルは云ひました。
『その地下植物の白い脈はあまり細くて、さわれば直ぐ切れて了ふ程のもので、葉もなければ根もない。地の中で少しづつ大きくなつて、可なりの遠方まで伸びて行く。そして適当な時が来ると、地の中で小さな瘤を作る。それが後にきのことなつて、地面を破つて上に伸びて行くのだ。それできのこは群がつて生えて来るのだ。そして、その一群は、そのきのこの出来る菌糸と、同じ一本の植物なのだ。』
『私ね、きのこが輪のやうに群つて生えてゐるのを見た事がありますわ。』とクレエルが云ひました。
『若しあたりの地の質が同じで、四方へ地下植物の拡がるのを妨げなければ、菌糸は四方に一様に拡つて、田舎の人達が魔物の輪と云つてゐるやうなきのこの大きな輪を造るやうになる。』
『何故魔物の輪なんて云ふんですか。』とジユウルが尋ねました。
『何んにも知らない迷信深い田舎の人達は、その珍らしい輪のやうな拡がりかたを見て、魔術の力だと思ふのだ。』
『ぢや、魔物なんて居ないんですね。』とエミルが云ひました。
『あゝ、ゐないとも。たゞ、世の中には他人の軽々しく信ずるのを利用する悪者や、その云ふ事を聞く馬鹿者がゐるだけだ。誰れも不思議な事をする力なんぞ持つてやしないのだ。』
『叔父さんの仰る通り、きのこは菌糸といふ地下植物の花だとしますと、それは雄蕋や雌蕋や子房を持つてゐる筈ですね。』とジユウルが尋ねました。
きのこは花ではあるが、その構造は普通の花とは違つてゐる。それは特別な構造になつてゐて、複雑な、非常に面白いものなのだが、叔父さんはお前達に教へ過ぎないやうにと思つて、今まで黙つてゐたのだ。
『花の大事な役目は種子を作ると云ふ事だつたね。きのこもやはり種子を作るのだが、それはごく小さくて、ほかの種子とは非常に違つたもので、胞子と云ふ別な名をつけられてゐる。胞子と云ふのは、樫の実が樫の木の種子であると同じやうに、きのこの種子なのだ。が、これはもつと詳しく話さなければ分るまい。
『吾々の一番見慣れたきのこは、軸に支へられた丸屋根のやうなもので出来てゐる。此の円屋根を笠と云ふのだ。笠の下の方はいろいろな風になつてゐるが、その主なものはかうだ。或るものは真中から縁の方へ放射状になつた皺になつてゐる。或ものは、又無数の小さな孔になつてゐる。その孔は皆な管なので、その沢山の管が或る一ヶ所に集まるやうになつてゐる。或るものは、又猫の舌のやうな細かい突起で一ぱいになつてゐる。
『笠の下の方が放射形の皺になつてゐるきのこはらたけ、小さな孔のあいたのはいぐち、突起のあるのはかうたけといふのだ。はらたけいぐちは一番普通のものだ。』
 そしてポオル叔父さんはその集めたきのこを一つ一つ手に取り上げて、甥達にはらたけの皺と、いぐちの孔と、かうたけの突起とを見せてやりました。

六四 大紅茸おおべにたけ


きのこの種子、即ち胞子は、此の皺や、突起や、管孔の壁のところにあるのだ。ジユウルや、次の実験をやつてごらん。まだ十分に拡がつてゐない笠のきのこを取つて、今晩白い紙の上に載せておくんだ。すると、夜中に花が咲いて、熟した種子がはらたけの皺や、いぐちの管から落ちて来る。そして、明日の朝になると、そのきのこの種類によつて赤や、橙や、薔薇色の粉が紙一面に落ちてゐるのを見るだらう。
『此の粉は種子即ち胞子の塊りで、顕微鏡がなければ一つ一つ見えない位細かいもので、数へ切れぬ程沢山あるのだ。何千万といふほどあるのだ。』
『顕微鏡!』とエミルが口を入れました。『それは肉眼では見えないやうな小さな物を見るのに、時々叔父さんが使つてゐるあの機械の事ですか。』
『さうだ。顕微鏡は物を大きくして見せて、あまり細かくて肉眼では見えないものでも、ごく細かな構造まで一々見さしてくれる。』
『僕が紙の上にきのこの胞子を集めたら、それを顕微鏡で見せて下さいね。』とジユウルが頼みました。
『見せて上げやう。熱と湿気とが適度にあれば、たつた一の胞子でも芽を出して、白い糸即ち菌糸になつて、それから時期が来ると沢山のきのこを出すやうになる。若しはらたけの皺から無数に落ちる胞子が、皆な芽を出すとしたら、何れ程のきのこが生える事だらう。それは鱈や木虱などの、無数の卵を生むのと同じ事だ。』
『それぢや、きのこを作るには、たゞ此の胞子を播きさへすればいゝのですか。』と又ジユウルが尋ねました。
『それは駄目だ。今日までのところ、まだきのこの栽培は出来ないのだ。と云ふのは、此の小さな種子の手入が吾々には分らないし、又とても吾々の手には合はないのだ。たゞ、或る食用蕈は栽培されてゐるが、それを育てるには胞子は使はないで菌糸を使つてゐる。
『それを温床蕈といふのだ。それは、上の方が艶々した白い色で、下の方が薄薔薇色をした、はらたけだ。パリの近所の古い馬場では、馬の糞と柔かい土とで、その温床を造る。この床に、植木屋がきのこの卵と云つてゐる、菌糸を少し入れるのだ。此の卵から枝が出て、沢山の糸になり、遂にきのこを出すやうになるのだ。』
『それは食べられるのですか。』
『おいしいとも、今吾々が集めたきのこの中に、お前たちに話して置きたいのが三つある。
『まづこれを御覧、これははらたけの一種だ。笠の上の方は美しい橙紅色とうこうしょくをして、裏の皺は黄色い、軸は、端の裂けた白い袋のやうな物の底から出てゐる。此の袋は外皮と云ふもので、初めきのこを全部包んでゐたものだ。きのこが大きくなりながら地面を押してゐる間に、その笠に破られて了ふのだ。此のきのこは一番うまいと云ふので評判がいゝ。これは大紅茸と云ふのだ。
『次ぎのもやはり、はらたけの一種で、同じやうに橙紅色をしてゐて、軸の底の方にやはり、同じやうに外皮即ち袋をつけてゐる。これはにせ大紅茸(毒紅茸)と云ふのだ。だが、お前たちは同じ物だと思ひはしないか。』
『大して違ひませんわ。』とクレエルが云ひました。
『違ひません。』とエミルも云ひました。
『ほんの少し違つてゐます。にせ物の方には白い葉のやうなものがありますが、本物の方ではそれが黄です。』
『ジユウルはいゝ眼を持つてゐるね。猶私がそれにつけ加へて云ふと、にせ紅茸の笠の上には、裂けた外皮の崩れが、処々白く入つてゐる。が、本物の紅茸にはこんなぼろのやうなものはないし、あつてもごく少い。
『若し此のほんの少しの違ひに気をつけなかつたら、生命を取られるやうな事になつて了ふ。本物の紅茸は甘味おいしいものだが、もう一つの、にせ物の紅茸は大毒だ。』
『叔父さんが、長い研究を積まなくては良いのと悪いのとを区別する事は出来ないと、シモンさんにお教へになつた時には、僕随分びつくりしましたよ。ほんとうに雫の水のやうに好く似た二つのきのこがあつて、その一方は人を殺し、一方は甘味しいたべ物になるんですね。』とジユウルが云ひました。
『これを間違ふと、とんでもない事が起るんだ。よく両方の特性を覚えてお置き。』
『僕、気をつけて忘れないやうにします。』とジユウルが約束して云ひました。『両方とも橙紅色で、白い袋を持つてゐます。が、食用の紅茸には黄色い葉のやうなものがあつて、毒のある方には白いのがあります。』
『そして、毒紅茸には、白い皮のぼろのやうなものが沢山あります。』とエミルが云ひました。
『こんどは木の幹から引き抜いた此のきのこを御覧。これは暗赤色の大きないぐちだ。これには軸がない。古い木の幹にしつかりとくつついてゐる。是は火打ちいぐちと云ふのだ。と云ふのは、此の肉を小さく刻んで日に乾して、それを火打ち石で叩くと火が出るからだ。』
『火がきのこから出やうとは、僕夢にも思ひませんでしたよ。』とジユウルが云ひました。
『又、松露しょうろは食用蕈の中で一番大事なものだ。これは菌糸のやうに、やはり地中に生えるのだ。が、その匂ひでそのあり場所が分る。鼻の強い動物の豚は、森に連れて行かれると、しようろの匂ひに誘はれて、その埋れてゐる場所を鼻先で掘る。すると、人間は豚を追つ払つて、かはりに栗を投げてやるのだ。しようろの形はほかのきのこ類とは違つて、大きな丸いからだをして、皺が寄つて、白いまだらの入つた黒い肉をしてゐる。』

六五 地震


 朝早く近所の人達は皆な、家毎に同じ事を話してゐました。ジヤツクは二時ごろ、牛が二三度繰り返してえる声で目を覚まされたと云つてゐました。いつもその小屋の中でぢつとしてゐる飼犬のアゾルまでも悲しさうに吼えたのださうです。で、ジヤツクは起き上つて提灯ちょうちんに火をつけてみましたが、何故獣物けものが騒ぎ出したのか分りませんでした。
 いつも半分しか眠つてゐないアムブロアジヌお婆あさんはもつと詳しい話をしました。お婆あさんは瓶が台所の台の上で揺れる音や、皿が転がり落ちて破れたりする音を聞いたさうです。アムブロアジヌお婆あさんは、これは多分猫のいたづらで其巖丈な両手で寝台をつかまへて、頭の方から足の方へと、足の方から頭の方へと二度それを揺すつたのだと思つてゐました。が、それもほんのちよつとの間の事でした。さすがのお婆あさんもすつかりおびへて、布団を頭から被つて神様にお祈りを始めました。
 マシユウとその子は、その時ちやうどそとにゐました。二人は市場から帰らうとして、夜道をしてゐたのです。好いお天気で、風はなく、月は明るく光つてゐました。二人がいろ/\話し合つてゐると、地の下から鈍い深みのある音が聞えました。それは水閘みずせきの唸り声のやうでした。そして同時に地の中へ追ひやられるやうによろ/\しました。が、それだけで何事もありませんでした。月はやはり輝いて居り、夜は穏やかに晴れてゐました。そしてマシユウもその子も、今のは夢ではなかつたらうかと思つた程、直ぐに止んで了つたのでした。
 そんな風ないろんな話がありました。そして皆んなの口から口へ、或者は疑はしさうに笑つたり、或者はまじめに考へたりしながらも、とにかく『地震』と云ふ恐ろしい言葉が伝はつて来ました。
 夕方になると、ポオル叔父さんはその日の大事件に就いての説明を望む熱心な聴き手に取り囲まれました。
『ねえ、叔父さん、地面が時々震へると云ふのは本当ですか。』とジユウルがきゝました。
『本当だとも。突然地面が動く事があるのだ。此の目出度い国では、地面が動くと云ふやうな恐ろしい事は殆んど考へられない。たまにちよつとした動きでも感じると、珍らしがつて数日の話しぐさにはなるが、直ぐに何もかも忘れられて了ふ。大がいの人は、昨夜の出来事を何んの大した事でもないやうに、今日になつて話してゐる。そして地面の此のちよつとした動きが、もつとひどくなると、恐ろしい災難を起すものだと云ふ事を知らない。ジヤツクが牛の咆えたのと、アゾルの鳴き声の事を話したらう。又アムブロアジヌお婆あさんも寝台が二度揺れた時の恐ろしかつた事を話したらう。そんな事なら何にもさう恐ろしい事はない。しかし地震はいつもそんな穏かなものではないのだ。』
『ぢや、地震と云ふのはそんなに酷い事もあるんですか。』と又ジユウルが尋ねました。『僕はね、皿が毀れたり、何にかの建具ががた/\する位のものだと思つてゐましたよ。』
『若し地震が余程ひどいと、家なんか倒れて了ふんでせう。叔父さん、大地震の話をして下さいよね。』とクレエルが云ひました。
『地震の前には、よく地の下で、唸り声がするものだ。それはちやうど地の底で暴風雨でも起つてゐるやうに、高くなつたり、低くなつたり又高くなつたりする、鈍い唸り声だ。此の不思議な恐ろしい音が聞えると、人は皆んな恐ろしさに声も出なくなつて、真蒼になつて了ふ。獣類でもやはり、その本能に促がされて、ぼんやりして了ふ。そして突然地面が震へて、脹れたり縮んだり、ぐる/\廻つたり、穴が開いたり、淵が出来たりする。』
『まあ、大変ですわね。そして人間はどうなるのでせう。』とクレエルが叫びました。
『こんな恐ろしい地震の時に、人間がどうなるかは、今話しする。ヨオロツパに起つた地震の中で、一番ひどかつたのは、千七百七十五年の万聖節の日、リスボンであつた地震だ。此の平和なお祭りの日に、急に遠い雷のやうな音が地の下から轟き出した。そして地面が五六度激しく揺れて、上つたり下つたりした。そして此のポルトガルの首府は、瞬く間に毀れ家と死骸の山になつて了つた。生き残つた人々は、家の倒れる下から逃げやうとして、海岸の大きな波止場に出た。すると、忽ち波止場は水に呑み込まれて群がつてゐた人々も、繋いであつた船も皆んな沈んで了つた。そして人一人、板子一枚、水面へ浮び出ては来なかつた。深い淵が出来て、水も波止場も、舟も人も、皆なそこへ呑み込まれて了つたのだ。かうして六分間の間に、六千の人間が死んだ。
『こんな騒ぎがリスボンに起つて、ポルトガルの高い山々が揺れてゐた間に、モロツコ、スエズ、メキネズなどといふアフリカのいろんな都市が顛覆されて了つた。一万人ばかりの人が住んでゐた或る村は、突然開いて突然閉ぢて了つた谷底の中へ、人間もろともにそつくり呑み込まれて了つた。』
『叔父さん、僕今迄そんな恐ろしい事を聞いた事はありませんでした。』とジユウルが云ひました。
『アムブロアジヌお婆あさんが、恐ろしかつたと云つた時に僕は笑ひましたよ。けれども笑ひ事ぢやありませんね。此の村だつて昨夜、アフリカのその村のやうに、みんな地の中に呑みこまれたかも分りませんものね。』とエミルが云ひました。
『又こんな事もあつた。千七百八十三年二月に南イタリイで四年間も続いた地震が起つた。初めの一ヶ年だけでも九百四十九度も地震があつた。地面は荒海の水面のやうに震動で皺になつて了つた。そして此の動く地上に住んでゐる人々は、船に乗つてゐる時のやうに、胸が悪くなつて嘔きたくなつた。陸の上で船酔ひをしたのだ。そしてその震動の度毎に、実際は動かないでゐる雲が、烈しく動いてゐるやうに見える。木は地の波で曲つて、その梢が地を掃いてゐた。
『第一番目の地震は一二分間で、南イタリイとシシリイ島との大部分の都会や村を引つくり返して了つた。国中の地面が引つくり返つたのだ。あちこちで地面は裂け目が出来て、丁度、破れガラスの穴を大きくしたやうなものが出来た。広い地面がその耕した畑や家や葡萄や橄欖の木と一緒に、山腹から滑り落ちて、随分遠方のほかの地面へ持つて行かれた。岡が二つに裂ける。又、それが今まであつた場所から抜き取られて、ほかの地面へ移された。或るところでは、地上には何んにも残されないで、家も、木も、動物も、口を開けた谷底へ呑みこまれて再び見えなくなつて了つた。又、或る所では、砂が一ぱいつまつて動いてゐる深い漏斗のやうな窪地が出来て、やがてそこへ地下水が溢れて湖水になつて了つた。かうして二百あまりの湖や沼が急に出来た。
『或る所では又、裂穴の中や川から溢れ出た水で、地面が融けて、野も谷も皆な泥海になつて了つた。そして木の梢や、毀れた農家の屋根だけが、此の泥海の上に見えてゐた。
『そしてその間に、時々突然地が震ひ出して地面を下から上に揺り上げる。その震動は、道の舗石が飛んで空中に跳び散つた位ひどかつた。石の井戸は小さい塔のやうに、下から飛びあがつた。地が裂けながら持ちあがると、家も人も動物も忽ちそこに呑み込まれた。そしてその地が又落ちると、裂穴は再び閉ぢて、何にもかも皆な跡形もなく消えて了ふ。其後から、此の災難のあとで、埋れた貴重な品物を取り出さうとして掘つて見ると、家やその中にあるものが皆んなたゞ一つの塊りになつてゐた。それ程までに、裂穴の両側が閉ぢる圧力がひどかつたのだ。
『此の恐ろしい出来事に逢つて潰されて了つた人間の数は八万人ばかりだつた。
『此の中の大部分は家の潰れてる下に生埋にされて了つたのだ。或者は又地の震ふたびに毀れる家の中に起つた火事で焼け死んで了つた。又或者は、野原へ逃げ出さうとして、足下に出来た裂穴へ呑み込まれて了つた。
『こんな不幸な光景は、どんな野蛮な人間にもきつと憐れみの心を起させる筈のものなのだ。然るに、こんなのはごく稀れで、その国の人達のやつた事は実に無茶なものだつた。カラブリアの百姓が町に駈け込んで来たが、それは助けに来たのではなくて泥棒に来たのだつた。危い事なぞには構はずに、燃える壁や雲のやうな埃の間を町中駈け廻つて、死人を足蹴にしたり、まだ生きてゐる人達の物を盗つたりした。』
『ひどい奴等だ。何といふ奴等だらう。若し僕が其処にゐたら……。』とジユウルが叫びました。
『お前が若し其処にゐたら何うしたらうねえ。お前よりももつと良い心と強い腕を持つた人は沢山ゐたんだが、その人達は何もする事が出来なかつたのだ。』
『カラブリアの人間はそんなに悪いのですか。』とエミルが訊きました。
『教育が行き渡つてゐない所には、何か災難が起ると、どこからともなく跳び出して来て、乱暴な事をして世の中を脅かす野蛮な人間が何処にもゐるものだよ。』

六六 寒暖計


『しかし叔父さんはまだ、その恐ろしい地震の起る理由を話して下さいませんね。』とジユウルが云ひました。
『それが聞きたければ、少し話して上げやう。』と叔父さんは答へました。『先づ、地の底へ底へと下りて行くと、だんだん暖くなつて来るものだ。いろんな金属を取るために、人間が地の底に穴を掘つて見て、此の大切な事が分つたのだ。深く掘つて行けば行くだけ、だん/\暖くなつて行く。三十メートル毎に、温度が一度づつ殖えて行くのだ。』
『一度つて何の事ですか。』とジユウルが尋ねました。
『僕も知りませんよ。』とエミルも云ひました。
『では、その話からしやう。さうでないと、私の話がよく分らないからね。私の部屋に、小さな木の板に、細い溝のある、底の方が小さく脹れたガラス棒が嵌めてあるのがあるだらう。脹れた所には赤い液が入つてゐて、温くなつたり冷えたりする度に、それが管の溝の中を上つたり下つたりする。あれを寒暖計と云ふのだ。凍つた水の中では、赤い液は管の零と云ふ所まで降りて、沸き立つた湯の中では、百と云ふ所まで昇る。この二つの点の間を百等分して、その一つ一つを一度と云ふのだ。
『液が零の所に下りた時に、水が凍るので、水が※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)え立つてゐる時の熱では、液は百の所まで上る。その中途の度は、熱のいろんな高さを示すので、熱が高い時には度が高くなるのだ。
『そして此の寒暖計で物の熱を計つた度を温度と云ふのだ。で、凍つた水の温度は零度で、※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)え湯の温度は百度だ。』
『ある朝、叔父さんが何だつたか取りに僕を叔父さんの部屋へ行かした時にね、僕寒暖計の脹らんだ所に手を当てゝみたんですよ。赤い液は少しづつ上へ上へと昇つて行きましたよ。』とエミルが云ひました。
『お前の手の温かさで、それが昇つたんだ。』
『液がどこまで昇るか見てゐたかつたんですけれど、僕終りまで待ち切れませんでした。』
『さうしてゐれば、寒暖計はおしまひに一番高くて三十八度の所まで行くよ。それが人間の身体の温度なのだ。』
『夏の非常に暑い日には、寒暖計は何度になるのでせう。』とジユウルが訊きました。
『フランスでは、夏の一番暑い時が二十五度から三十五度位のものだ。』
『では、世界で一番暑い所はどれ位ですの。』とクレエルが尋ねました。
『例へばアフリカのセネガルのやうな、一番暑い国で、温度は四十五度から五十度に上るのだ。此の辺の二倍も暑い事になるんだね。』

六七 地の下の炉


『さて前の話に戻らう。鉱山の底では、一年中変りのない高い温度のところがある。其処では夏も冬も同じ暑さだ。坑夫が掘つた一番深い穴はボヘミアにある。尤も、今ではもう其処へははいれない。地辷りでいくらか埋まつてしまつたので。千五百五十一メートルの深さの処では、寒暖計はいつでも四十度、即ち世界で一番暑い処と殆ど同じ位の度になつてゐる。しかもそれは冬でも夏でも同じ事なのだ。山国のボヘミアが雪と氷とで掩はれてゐる時でも、その冬の烈しい寒さを避け、セネガルの酷暑のところへ行かうと思へば、たゞその鉱山の底へ降りて行けばいゝのだ。入口にゐる人は寒さに震へてゐるのだ。底の方にゐる人は暑さに息もまりさうになる。
『これと同じ事がどこにでもあるのだ。地中を深く降りて行けば行く程、温度はだん/\高くなつて来る。そして深い鉱山の穴の中では、熱は高くて、馴れない坑夫はその暑さにびつくりして、近所に大きな炉でもあるんぢやないかと思ふ程だ。』
『では、地球の内側は、本当にストーヴになつてゐるのですか。』とジユウルが尋ねました。
『ストーヴと云ふぢやない。強い鉄の棒で地面へ穴をあけて、それを近所の川や池から滲み出て来た地下水の溜つてゐるところまで掘つたのを、掘井戸と云つてゐる。此の井戸の地の下から汲み出される水は、その深さの土と同じ温度を持つてゐる。斯うして地中の熱の分布と云ふ事が分る。かうした井戸でごく有名なものの一つは、パリのグルネルにある。それは五百四十七メートルの深さで、そこの水は何時も二十八度、即ち夏の一番暑い日と同じ温度だ。フランスとルクセンブルグとの境にある、モンドルフの掘抜井戸の水は、もつと深い七百メートルの所から汲み出される。その温度は三十五度だ。掘抜井戸は、今では非常に沢山あるのだが、鉱山の穴と同じやうに、やはり三十メートル毎に一度づつ熱が殖えて行く。』
『では、非常に深く井戸を掘つて行くと、しまひには熱湯が出て来るでせうね。』とジユウルが尋ねました。
『さうだ。が、そんなに深くまで届くのは難かしい。熱湯の温度に着くまでには、一里の四分の三位の所から汲み出さなければならないが、それは出来ない事だ。しかし、地中から湧き出る無数の自然の泉があつて、その水はどうかすると沸騰点に達する程の高い温度を持つてゐる。即ち温泉の事だ。すると、その水が湧いて来る深い処には、水を温めたり沸したりするだけの強い熱があるわけだ。フランスで一番名高い温泉は、カンタルにあるシヨオド・エグとヴイクとで、そのお湯は何れも殆ど沸騰してゐる。』
『そんな泉は随分妙な川になる事でせうね。』とジユウルが又尋ねました。
『それは湯気の出る川で、その中にちよつと卵を入れると直ぐ※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)える。』
『では、其処には魚や蟹はゐないでせうね。』とエミルが云ひました。
『あゝ、ゐないとも。若し一匹でも魚が居つて御覧、※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)えてくた/\になつて了ふだらうよ。
『が、フランスのオーヴエルニスの湯の小川なぞは、アイスランドと云ふ、殆ど一年中雪に埋もれてゐる、ヨーロツパの北の端の大きな島にある湯の川とはまるで比べ物にならない。其処には熱湯を噴き出す、此の国ではゲエゼル(間歇かんけつ噴出温泉)と云つてゐる、温泉がある。水の泡が溜つて滑かな白い結晶になつた岡の上の大きな谷から噴き出してゐる。此の谷の内側は漏斗形になつてゐて、その底はどれ程の深さがあるか分らないよじれた管になつてゐる。
『毎度、湯の噴き出す前には、地面が揺れて、地の下で大砲を撃つてゐるやうな鈍い爆音が微かに聞える。だんだん爆音が強くなつて来る、地が震へる。そして孔口の底から湯が非常な早さで跳び出して来て谷に溜る。そして其処で、暫くの間、眼に見えない炉で熱した汽鑵のやうな光景が現はれる。湯気の渦巻きの中に湯が噴き上つて来る。そして突然、間歇温泉はその力を集中して、高い音を立てゝ爆発する。そして六メートルの直径のある水柱が、六十メートルも高さに噴き上げられて、白い水蒸気に包まれた大きな束のやうな形になつて降つて来る。此の盛んな噴出はほんの少しの間しか続かない。直ぐにその水の束が沈んで行つて、谷の中の水が孔の奥の方へはいつて了ふ。そしてその代りに、湯気の柱が、凄まじくうなりながら、雷のやうな音を立てゝ上の方に噴き出る。そしてその恐ろしい力で、孔の口へ落ち込んだ岩を投げ飛ばす。近所はすつかり此の濃い湯気の湯に包まれて了ふ。それが済むと、何にもかも平穏になつて、荒れ狂ふた間歇温泉は静まるが、やがて又噴き出して、前と同じ事を繰り返す。』
『それは怖ろしいそして綺麗なものでせうね。勿論、湯の雨に打たれないやうに、遠くに離れてゐて、そのすさまじい噴水を眺めるのでせうかね。』とエミルが云ひました。
『今叔父さんが話して下すつた事は、地の中には強い熱があると云ふ事を、分り易く説いて下さつたのですね。』とジユウルが云ひました。
『此のいろんな観察で、地下の温度は六十メートル毎に一度増し、三キロメートル即ち一里の四分の三の深さの所では、※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)湯と同じ温度、即ち百度になると云ふ事が分つた。五里も下に行くと、熱湯は赤く焼けた鉄程になつて、十二里下では、どんなものでも熔かして了ふ程になる。もつと深くなれば、その温度は益々高くなる。そこで、地球は火に熔けた、水のやうになつた玉と、堅い薄皮とで出来たものだと見る事が出来る。』
『叔父さんは、堅い薄皮だと云ひましたが、今の計算で行くと、その堅い皮の厚さは十二里もあるのですわね。十二里と云ふと随分厚いのですから、地の下にある火なんかちつとも恐ろしい事はないと思ひますわ。』とクレエルが云ひました。
『十二里と云つたつて、地球の大きさの割りには、誠に小さなものだ。地球の表面から中心までの距離は千六百里ある。そしてその中の十二里が堅い皮の厚さで、あとは皆な熔けた玉なのだ。直径二メートルのボールでは、地球の堅い皮は、指の先の半分位の厚さに見積ればいゝ。もつと簡単に云へば、地球を卵だとするのだ、すると卵の殻は地球の堅い皮で、中味の液体は真中の熔けた部分に当るのだ。』
『では、僕達は、その薄い殻だけで地の下の炉と距てられてゐるのですね。これは心配だなあ。』とジユウルが叫びました。
『地球の構造に就いての話しを聞かされると、初めての人は誰れでもびつくりしないものはないのだ。吾々の足下数里の所で、熔けた金属の波を動かしてゐる地の底の火を、恐ろしがらないものは一人もゐない。そんなに薄い殻が、どうして、中の液体の塊りの流れに堪へ得られよう。地球の殻の此のもろい皮は、熔けたり、破れたり、皺になつたり、又少なくとも動いたりするやうな事はないのだらうか。地殻が少し動くと、陸は震へて、地は恐ろしい口のやうに裂けて了ふのだ。』
『あゝ、それが地震の起る原因なんですねえ。内側にある液体が動いて、殻が動くんですわね。』とクレエルが云ひました。
『すると、此の薄い殻は、始終動いてゐなければならないのでせう。』とジユウルが云ひました。
『堅い地球の皮が、同一場所でなり、違つた場所でなり、海底でなり、陸上でなりで、動かないでゐる日は一日もあるまい。だが、危険な地震はごく少い。それは噴火山がゆるめてくれるのだ。
『噴火口は、地球の内部を外部と通じてくれる、大事な安全弁だ。地下の水蒸気は、此の穴によつて、地球の外へ出で、地震の数を少くし、災難を減らす。火山国では、強い地震で地が揺れて、その地震が止むと火山は煙と熔岩とを噴き出し初めるのだ。』
『僕はエトナ山の噴火と、カタニアの災難のお話をよく覚えてゐますよ。』とジユウルが云ひました。
『初め僕は火山は近所を荒し廻る恐ろしい山だとばかり思つてゐましたが、今その仲々為めになる事が分りました。噴火口がなかつたら、地球は滅多にじっとしてゐないに違ひありませんね。』

六八 貝殻


 ポオル叔父さんの部屋には、種々な貝殻が一杯はいつた引出しがあります。それは、叔父さんの或るお友達が、その旅行中に集めて来たものです。それを眺めてゐると随分面白いものです。その美しい色や、綺麗な又は可笑しな形は眼を引きつけます。或る貝殻は、まわり階段のやうになつて居り、或るものは大きな角を張り出して居り、又他の貝殻は嗅ぎ煙草入れのやうに開いたり閉ぢたりしてゐます。或るものは四方に出た枝やゴツ/\した皺で飾られ、又は屋根の瓦のやうに皿が重り合つてゐるのがあつたり、又一面に刺だの、ザラ/\した鱗だののついたのがあります。中には卵のやうに滑らかで、或ひは白く、或ひは赤いほしが入つたりしてゐます。又中には薔薇色をした口の傍に、拡げた指のやうな、長いギザ/\を持つたものがあります。それ等の貝殻は世界のいろ/\の所から来たものです。これは黒人のゐる国から来たもので、あれは紅海から、と云ふ風に又支那や印度や日本から来たのもあります。若しポオル叔父さんが此の貝殻の話しをしてくれたら、それを一つ一つ調べて見て行くのに、幾時間か全く愉快に過されるに違ひありません。
 或日ポオル叔父さんは、皆の前に引出しの貝殻を拡げて甥達にその話しをしました。ジユウルとクレエルとは、眼をみはつて眺めましたし、エミルはいつまでも大きな貝殻を耳に当てゝは、奥から聞えて来る、フーフーフーといふ音を聞いて、海の音のやうだと思つてゐました。
『此の赤いぎざ/\になつた口の貝は印度から来たのだ。これはかぶと貝と云ふのだ。中には非常に大きなのがあつて、二つあつたらエミルには運び切れない位だ。或る島に行くと、石の代りに釜の中で焼いて石灰いしばいを造る程沢山ある。』
『若し僕がこんな綺麗な貝殻を見つけたら、僕は石灰を造るために焼くやうな事はしません。なんて此の口は赤いんでせう、そして端の方は美しいひだになつてゐるではありませんか。』とジユウルが云ひました。
『そして何と云ふ大きな音をたてるのでせうね。これは海の音が貝殻に響く音ですか、叔父さん。』とエミルが云ひました。
 遠くから波の音を聞いてゐるのと、いくらかは似てゐるやうだが、貝殻の中に波の音が蔵はれてゐるものぢやない。それは只だ空気がその曲つた孔の中に出入りする音なのだ。
『又、此の貝はフランスのだ。これは地中海の海岸に沢山あるので、カシス属の貝だ。』
『これもかぶと貝のやうにフー/\云ひますよ。』とエミルが云ひました。
『大きな貝が、まがつた孔のあるものは、皆んなそんな音がするよ。
『これは又、やはり前のと同じやうに地中海にゐるもので、悪鬼貝あくきがいと云ふのだ。此の中に住む動物は紫色の粘液を出す。昔の人はこれから、高い値段のする、紫と云ふ美しい色を取つたのだ。』
『貝殻は誰れが作つたのですか。』とクレエルが訊きました。
『貝殻は軟体動物と云ふ動物の住家なのだ。ちようどかたつむりの螺旋形の貝殻が、若い植物をたべる、あの角の生えた小さな動物の家であると同じやうにね。』
『では、かたつむりの家も、今叔父さんが見せて下さつた美しい貝殻と同じように貝殻なんですね。』とジユウルが云ひました。
『さうだ。そして、一番数が多くて、一番大きくて、そして一番美しい貝殻は、海の中にあるのだ。それを海産貝と云ふのだ。かぶと貝も、カシス貝も、悪鬼貝もそれだ。が、小河や川や、池の湖水などのやうな、淡水の中にもある。フランスでは、ごく小さな溝の中にでも、形は綺麗だが薄黒い土のやうな色をした貝がある。そんなのは淡水貝と云ふのだ。』
『僕ね、大きな斑点のある、かたつむりに似たのを水の中で見つけた事がありますよ。口を閉ぢる蓋のやうなものがありますね。』とジユウルが云ひました。
『それはたにしと云ふのだ。』
『もう一つ別な溝の貝がありますわ。丸くて平たい、十銭か二十銭の銀貨程の大きさのですわ。』とクレエルが云ひました。
『それは平巻貝だ。最後に陸上にばかりゐる貝がある。だからこれは陸生貝と云ふのだ。例へばかたつむりのやうなものである。』
『僕は、引出しの中にある貝殻のやうに、大変に美しいかたつむりを見た事がありますよ。森の中にゐて幾筋もの黒い帯を巻いてゐて黄色いのがさうです。』とジユウルが云ひました。
かたつむりと云ふのは、空の貝殻をみつけて来て、その中に這入つてゐるなめくぢぢやないのですか。』とエミルが聞きました。
『いや違ふ。なめくぢは何時までもなめくぢで、かたつむりになる事はないのだ。つまり、貝殻に這入る事はないのだ。反対にかたつむりは、其の大きくなるに従つて大きくなる、小さな貝殻を背負つて生れて来るんだ。お前達が空つぽの貝殻を見る事があるのは、前にはかたつむりが這入つてゐたのだが、それが死んで了つてごみになつたので、その家だけが残つてゐるものなんだ。』
『でも、なめくぢかたつむりとは随分よく似てゐますね。』
『両方共軟体動物だ。これにはなめくぢのやうに貝殻を持たないのと、かたつむりたにしやカシス貝のやうに貝殻を持つてゐるのとがあるのだ。』
かたつむりは何でその家を造るのでせうか。』とエミルが聞きました。
『それは自分の身体の中のもので作るのだ。自分の家をつくるものを自分のからだの中から滲み出させるのだ。』
『僕には分りませんね。』
『お前達だつて、自分の白い、光つた、ちやんと並んだ歯を造るぢやないか。だん/\に新しいのが、お前たちの指図を待たずに押し出て来るだらう。歯がひとりでにそうするのだ。此の美しい歯は極く堅い石で出来てゐる。何処からその石は来るのだらう。勿論それはお前達の身体から出て来るのだ、ね、歯齦はぐきが歯になるものを滲み出さすのだ。かたつむりの家もさうして出来るのだ、小さな動物が、ひとりでに立派な貝殻になる石を滲み出すのだ。』
『草花をどし/\たべるかたつむりが、僕、何んだか好きになりました。』とジユウルが云ひました。
『好きになる事は構はないよ。かたつむりが、庭を荒し廻る時は懲してやるがいゝよ。それが当り前なんだから。だが、かたつむりは吾々にいろんな事を教へてくれる。今日はその眼と鼻の事をお話ししやう。』

六九 蝸牛かたつむり


『蝸牛が這ふ時は、お前達が知つてゐるやうに、四本の角を高く持ちあげるのだ。』
『その角はおもひのまゝに、出たり引込んだりします。』とジユウルが附加へました。
『その角は何方へでも動かしますね。』とエミルが云ひました。『燃えてゐる石炭の上に殻を置くと、ビ、ビ、ビ、ジユ、ジユと歌ひ出しますよ。』
『そんな可哀想ないたづらはお止し。それは蝸牛が歌ふんぢやない。焼かれる苦しみを泣いて訴へてゐるんだ。熱で固まらせた蝸牛の粘ついた液は、初めに膨れて、それから縮む。そしてプツプツと少しづつ出て行く空気が、その悲しい泣声になるのだ。』
『動物についての、いゝ事を沢山書いた、ラ・フオンテエヌのお話の中に、角のある動物に傷つけられた獅子の事を書いた処に、かう書いてある。
『牡羊も、牡牛も、山羊も、鹿も、犀も、角のはえた獣はみんな、
 その国からすつかり追ひ出されてしまひましたとさ。
 そんな獣はみんなすばやく逃げました。
 自分の耳の影を見て
 その形を知つてゐる野兎は、
 ある卑劣な探偵が、
 耳を角だと云ふ事にして
 兎を訴へようとしてゐると云ふ事を聞きつけました。
 左様なら、お隣のこほろぎさん、と野兎は云ひました。
 私はよその国へ行きます。
 私の耳は此処にゐると、
 角になるかも知れません。恐い事です。
 此の耳が、鳥の耳より短かゝつたらいゝんですけれどね。
 言葉の力は本当に恐いものです。
 こほろぎは答へました。
 それが角ですつて! どうしてです?
 神様が耳につくつて下すつたものを。
 誰が彼是云ふことが出来ませう?
 えゝ、と弱虫は返事をして云ひました。
 でもね、あの探偵達はやつぱり角にするでせうよ、その角も、多分犀の角程のね。
 私の弁解はきつと無駄でせうよ。
『此の野兎は、明かに、物事を大げさに考へすぎたのだ。兎の耳は、誰れが見ても、たしかに耳だ。だが、その時に、蝸牛もやはりおなじ事情で追払はれたかどうか私は知らないが、人間は一様に、蝸牛の後頭に載つてゐるものを、角だと云つてゐる。だが、こほろぎは『これを角だと云ふのですか?』と叫んで、『私の忠告を聞かなくちやなりませんよ』と、人間よりは余程悧巧な注意をするだらう。』
『ぢやあ、あれは角ぢやないんですか?』とジユウルが尋ねました。
『さうぢやないんだとも。それは同時に手になり、眼になり、鼻になり、又盲の杖になる触角と云ふものだ。そして長さの違つたのが二対ある。上の方にある一対は長くてよけいに目立つのだ。
『長い触角はどちらにも、先の方に小さな黒点のあるのが見えるだらう。これは眼で、こんなに小さい物ではあるが、馬や牛の眼のやうに完全なものだ。眼と云ふものがどんなに必要なものかと云ふ事は、お前達もよく知つてゐる。此の眼は、お前達に一寸話してあげる事が出来ない程に複雑なものだ。そして又やう/\見える位の此の小さな黒点が総てなのだ。それだけではなく、同時に其の眼は鼻で、云ひかへれば、特に匂ひに感じ易い道具だ。蝸牛は其の長い触角の先で、見たり嗅いだりするのだ。』
『その、蝸牛の長い角のそばに何かを持つて行くと、蝸牛はその角を引つこめますよ。』
『此の鼻と眼との結合物は、出たり、引込んだり、目的物に近づいてゐたり、四方から来る匂ひを嗅いだりするのだ。同じやうな鼻は、象にもある。象の鼻は特別に長い。が、蝸牛の鼻は、象の鼻よりもどんなに勝れてゐるか分らない。同時に眼と鼻であつて、匂ひと光線に感じ易く、手袋にはひつた指のやうに、その角の中に引込めることも出来るし、その角がまた体の中にはひつて見えなくなつたり、また皮膚の下から出て来て、ひとりで、望遠鏡のやうに長く伸びたりもするのだ。』
『僕は何度も、蝸牛が其の角をひつこめるのを見ましたよ。』とエミルが云ひました。『角は中の方へもぐり込んで、皮の下に埋つてしまふやうに見えますね。何かゞ、角をいじめると、蝸牛は自分の鼻と眼とをポケツトの中へしまつて了ふのですね。』
『全くその通りだ。吾々は強すぎる光線や、嫌な匂ひに出遇ふと、それを防ぐのに、眼を閉ぢ、鼻をまんで避けてゐる。蝸牛は、もし、光線に苦しめられたり、嫌やな臭ひに出会つたりすると、其の眼を鞘におさめ鼻を覆ひかくしてしまふのだ。つまり、エミルの云ふとほりに、蝸牛は角をポケツトに入れるのだ。』
『それは悧巧な方法ですわね。』とクレエルが云ひました。
『叔父さんは、角はめくらの杖の役もするとおつしやつたでせう?』とジユウルが遮りました。
『蝸牛は上の方の触角を一部分、又は全部引つこめた時には、盲になるのだ。だから蝸牛は二本の短かい角を持つてゐる。それは非常に触覚が鋭いから盲の杖よりも上手に目的物を探るのだ。上の方の二本の触角も、眼と鼻の働きをしてゐるばかりでなく、やはり、盲の杖の役も務め、或は指よりもうまく、物を触知する、分つたかいエミル、蝸牛を火の上に載せて泣かせるやうでは、蝸牛の事をすつかり知つてゐんぢやないね。』
『分りましたよ叔父さん。あの角は、眼であり鼻であり盲の杖であり、又、同時に指なのですね。』

七〇 青貝と真珠


『叔父さんが今見せて下すつた貝殻の中に、』とジユウルが云ひました。『此の間の市に、叔父さんに買つて頂いた綺麗なペンナイフの柄のやうに、内側の光るのがありますね! ……ほら、青貝の柄のついた、四枚刃のあのペンナイフの――』
『分り切つた事ぢやないか。その虹色に輝くきれいなものは、真珠貝と云ふ、或る貝殻の一種なのだ。その吾々が繊細な装飾品に使ふのは牡蠣かきに近い種類の、或る粘着動物の巣だつたものなのだ。事実、此の巣は本当に富の宮殿だ。此の貝殻は、虹が色をつけてやつたやうに、あらゆる色で輝いてゐる。
『それは、一番きれいな青貝をもつた貝殻で、メレアグリナ・マガリテイフエラと云ふのだ。外側は輪を巻いた黒緑色で、内側は、磨いた大理石よりも滑つこくて、虹よりも沢山の色を持つてゐる。其処に含まれた色はみんな輝いて居るが、見ようによつて、いろ/\に柔かに変り易い。
『そのきれいな貝殻は、見すぼらしい粘々ねばねばした動物の家だ。お伽話の中の妖精も、こんなにきれいなものは持つてゐない。まあ、なんてきれいなものだらう!
『此の世界では、誰れでも自分の財産を持つてゐる。粘々した動物は、自分の財産として、すばらしい青貝の御殿を持つてゐるのだ。』
『そのメレアグリナは何処にゐるのですか?』
『アラビアの海岸に面した海に居るのだ。』
『アラビアと云ふ処は大変遠い処ですか?』とエミルが尋ねました。
『随分遠いのだ。何故きくのだね。』
『僕、こんなきれいな貝殻を沢山拾ひたいからです。』
『そんな事を夢見てはいけない。アラビアは大変に遠いのだし、それに、その貝は欲しいと思つても、誰れにでも拾へるものではないのだ。それを集めるには、人が海の底へ潜らなければならないのだ。そして其の中の幾人かは、二度と上つて来られないのだよ。』
『それでも、其の貝を取りに海の底へ潜らうと云ふ人があるのですか?』とクレエルが尋ねました。
『沢山あるのだ。そして、もし吾々が行つてそれをとらうと思つても、先きに来てゐた者に取られてしまつてゐて、その人達から、悪いのを手に入れる事しか出来ない程にそれは儲かる仕事なのだ。』
『では、其の貝は貴いのですか?』
『まあお前達自身で判断してみるといゝ。第一、貝殻の内側の層は、薄くはがれて延ばされる。それは吾々が装飾に使ふ青貝なのだ。ジユウルのペンナイフの柄は、真珠貝の内側の一部を薄くはがした青貝で被せてあるのだ。だが、それは、貴重な貝殻の産み出す極くやすい部分で、その同じ貝殻の中に、真珠があるのだ。』
『ですけれど、真珠はそんなに大変に高いものぢやありませんね。四五銭も出せば、財布の装飾にするのに箱一杯の真珠が買へますよ。』
『その真珠とほんものゝ真珠とを区別して見よう。お前の云ふ真珠は、穴の穿いた色硝子の玉なんだよ。値段も大変に安い。メレアグリナの真珠は、貴い立派な珠なんだ。もし普通よりも大きな真珠があれば、数千万フランもするやうなダイアモンドと匹敵する程の高価なものになるだらう。』
『私はそんな真珠は知りませんわ。』
『真珠に興味を持ちはじめると、人間は時々常識も名誉も忘れてしまふ事がある。だから、そんな事のないやうに、神様が知らせずにお置きになるのだ。だが、真珠がどうして出来るかと云ふ事を知るのは一向かまはない。
『貝殻の二枚の間に牡蠣に似た動物が住んでゐる。それは、とても動物とは見る事の出来ないやうな、粘々した塊りだ。それはものを消化しもするし、呼吸もし、痛みを感じもする。それは、何でもない埃の一と粒でも、痛みを与へる程感じやすいのだ。その動物が、何か他のものにさらはれた時にはどうするか? 動物はその真珠貝のまはりの邪魔ものゝふれてゐる処に、ある液を滲み出させる。此の真珠貝が小さな滑つこい球を積みあげる。それが、此のねば/\した動物の病気でつくりあげられた真珠なんだ。その大きさがもし普通より大きかつたら、それは冠の入つた袋程の値うちのものになるだらう。そして、首のまはりにそれを纏ふ人はそれを非常な自慢にするのだ。
『だが、首にそれをかける前に、それをさぐらなければならない。漁夫達は船に乗り、そして彼等は、大きな石を結びつけて海の底にまつすぐに垂らした綱を伝つて順々に、海の中へ降りてゆく。その人は、水の中に潜るのに、そのおもりのついた綱を右の手と右足の爪先きとでつかんで、左手では鼻孔を被ひ、左の足には網袋を結びつける。石は海の中に投げ込まれる。その人は鉛のやうに海の中に沈んでゆく。彼は急いで網を貝で一杯にし、上る合図に綱を引つぱる。船にゐる人々は彼を引きあげるのだ。息苦しくなつた潜水夫は獲物を持つて水面に出て来る。彼が呼吸を止めてゐるのは非常な骨折りで、時によると鼻や口から血が洩れ出る程だ。潜水夫は、時とすると片足をなくして来たり、時にははひつたきりで浮いて来ない事もある。ふかが人間を呑んでしまふのだ。
『宝石店の飾窓に輝いてゐる真珠の或るものは、大変に高価なものがある。そんなのは、人間の生命の価を払ふのかも知れない。
『もしか、アラビアが此の村はづれにあるとしても、僕は真珠とりになんか行きませんよ。』とエミルが云ひました。
『其の貝殻をあけるには、中の動物が死ぬまで日にあてるのだ。それから、人々はそのひどい臭ひのする貝のうずたかい中をかきまはして、真珠を採る。その真珠はもう穴を穿けてつなぐより他にどうすることもいらないのだ。』
『いつだか、』とジユウルが云ひました。『皆んなが用水溝の掃除をしてゐた時に、僕ね内側が真珠貝のやうに光つてゐる貝殻を見つけましたよ。』
『小さい流れや溝には緑がゝつた黒い色をした二枚合はさつた貝がある。それは淡水貝と云ふのだ。その内側は青貝だ。山の中の流れを選んで棲んでゐる大きい或る淡水貝は、真珠をさへも産むのだけれども、それ等の真珠は、メレアグリナの真珠よりはずつと光沢もないし、従つて値段も安い。』

七一 海


『叔父さんが其のひきだしに持つていらつしやる綺麗な貝殻は、みんな海からとれたのですか?』とエミルが尋ねました。
『さうだ、みんな海からとれるのだ。』
『海は大変大きいんですか?』
『さうだね。或る部分では、一方の海岸から他の海岸へ行くのに船に乗つて一と月もかゝる程大きいよ、その船も、早く走る船の中でもまた特別に早い汽船だ。それは殆んど機関車と同じ位の早さで走るのだ。』
『それで、海の上では何が見えるでせうか?』
『頭の上には此処と同じに空がある、周囲はすべて、大きな青い、広々とした端のない円の中にゐるやうなものだ。他には何んにもない。或る航海をする時などは、幾ら行つても行つても、まるで少しも進まなかつたかのやうにいつも青い水の真中にゐる。地球の形は円い。そして海はその形に従つて地球の大部分を覆ふてゐる。だからさういふ風に見えるのだ。眼ではたゞ海の極く小部分が見えるだけで、その見える広さと云ふのは、空の円天井が海の上にかぶさつて休んでゐるやうに見える円い線で区切られてゐる。そしてその円い線で囲まれた水の輪は、進んでも進んでも、同じやうな状態を保つて見えるだけで少しも新しくならない。それは丁度空の青い色と海の青い色とが融け合つてゐる円の中心にぢつとしてゐるやうに見える。だが、かうして進みつゞけて行くと、終に眼界を遮る線の上に小さな灰色の煙を見つける。それは陸が見えはじめたのだ。あと半日の間進むと、その灰色の煙は、海岸の岩か、陸地の山かになる。』
『海は陸よりも大きいと云ふ事は、僕、地理で知つてゐます。』とジユウルが云ひました。
『もし御前が地球儀の表面を四等分すれば陸はその内の一つを占めるだけで、あとはみんな海が占めてしまふのだ。』
『海の底は、どんな風なのでせう?』
『海の底は、湖水や川の底とおなじやうに、やつぱり地面だ。海底の地面は、陸地が平らでないのと同じやうに、やつぱり平らではない。或る部分では、漸くに測る事が出来る程深く陥ちくぼんだ穴になつて居り、他の処では山脈が截り立つてゐてその一番高い部分が水平線の上に出て島になつてゐるのだ。又、もつと別な処では、広い平野にのびてゐたり、或は又高原のやうに持ち上つてゐたりする。もし水がなかつたら、陸地と何の違ひもないだらう。』
『では、海の深さは何処も同じではないのですねえ。』
『勿論さ。水の深さを測るには、長い糸のはしにつけたおもりを海の中に投げ込む。糸は錘で巻かれる気づかいはないから、錘が落ちて行つて水につかつた糸の長さが、その水の深さを示すのだ。
『地中海の一番深い処は、アフリカとギリシヤの間だ。其処では底にふれるには、鉛を四千メートルから五千メートルの長さまで放さなければならない。此の深さは、ヨオロツパでの高山のモン・ブラン山の高さに等しいのだ。』
『ぢやあ、もしモン・ブランをその穴に埋めたら』とクレエルが話し出しました、『その頂上が、やつとその水の表面に届く位ですわね。』
『それよりも、もつと深い処があるのだ。大西洋のニユウフアウンドランド島の南に、其処は鱈のうんととれる処だが、殆んど八千メートル近い深さを示す処がある。世界一の高山は中央アジアにあるが、その高さは八千八百四十メートルだ。』
『それ等の山は、今叔父さんがお話しになつた処の水面からずつと高くつき出しますわね。そして八百五十メートルの高さの島になりますわ。』
『最後に、南極近くの海には一万四千メートルから一万五千メートルの深さ、或は四リイグ(およそ五里)の深さを示す処がある。陸地には、何処にもそんな高さの山はない。
『こんな恐ろしい陥ち窪んだ処と、人の指の厚さよりも深くない海岸との間には、あらゆる中間の深さがある。或る時には、だん/\に違つてゆき、或る時には急激に、その水底の地形に従つて違つてゐる。或る海辺では恐ろしく急に深さを増してゆく。その海岸は急斜面の頂上で、その海の水は根を波打つてゐるのだ。また他の海岸では、ほんの少しづつ深さを増して行つて、数メートルの深さの処までゆくには、ずつと遠くの方まで行かなければならない。其処の大洋の床はなだらかで、地平に従つて、極く僅かづつ傾いてゐるのだ。
『大洋の平均した深さは、六キロメートルから七キロメートル位だ。言葉を換へて云へば、もしもすべての海底の高低をなくして、丁度人間のつくつた水盤の底のやうに平らかにならしたら、海は、その表面を現在のまゝの広さを保つてゐる間は、六千メートルから七千メートルの深さの一様な水の層になるだらう。』
『僕はキロメートルなんて云ふので面喰つてしまひましたよ。』エミルがこぼしました。『だけど、大丈夫です。僕、海の中にどんなに沢山の水があるかと云ふ事が分りかけて来ましたから。』
『お前が考へるよりももつとずつと沢山あるよ。お前はフランスで一番大きなロオヌ河を知つてゐるね。そして洪水の時にも見たね。あの時には眼の届く限り、一方の岸から向ふの岸にかけて泥水が一杯になつてゐた。あの時には一秒間に五百万リツトル(二万七千七百二十石)の水が海に注ぎ込むと見積られた。いゝかい、もし此の大変な大水をいつも続いてゐるものとしても、此の大きな河は、十年かゝつても大洋の底の千分の二も満たすことは出来ないんだよ。これで、海がどんなに大きいものかと云ふ事がよく分つて来たらう?』
『僕のこんな頭では考へただけで眩んでしまひます。海の色はどんな色でせう? やつぱしロオヌ河のやうに黄色い泥水ですか?』
『いや違ふよ。川口の処は別だがね。少しばかりの水を見ると、水には色がない。だが沢山たまつたのを見ると水の自然の色、即ち緑がかつた青い色が表はれる。で、海は、緑色がかつた青色で、沖の方ではそれが暗い色になり、海岸に近づくにつれて明るい色になる。だが此の色は空の輝き工合につれて、非常にいろ/\変化する。太陽が輝いてゐる時の凪いだ海は蒼青色だつたり、暗い藍色だ。少し荒れ模様の空の下では、殆んど黒い濃緑色だ。』

七二 波、塩、海藻


『波は何処から来るのですか?』とジユウルが尋ねました。『海が怒つた時には、大変恐いんですつてね。』
『その通りだジユウルや。大変恐ろしいのだ。泡をかぶつた、動く山の背のやうな波を私は忘れる事は出来ない。その波は重い船を胡桃の殻のやうに訳なく放りあげて、或る瞬間はその恐ろしい背中に乗せ、次の瞬間にはその水の峯と峯との間の谷底に突きおとす。おう! 船の上の人間はどんなに小さく、心細く感ずる事だらう。波の思ふまゝに、高く揺りあげられ、又谷底に突き落されるのだ! あゝ、胡桃の殻のやうな船が、暴れ狂ふ大波で裂け目が出来たら、もう吾々は運を天にまかすより仕方がないのだ。打ち砕かれた船は底の知れぬ海へ沈んでしまふに違ひないのだ。』
『叔父さんが話して下すつたあの海の底の裂け目へですか?』とクレエルが尋ねました。
『それ等の裂け目からは誰れも帰つて来たものはない。壊れた船は海の中に呑まれてしまふ。乗つてゐる人々は何んにも残さずあとかたもないやうになる。もうこの地上に残された何かの紀念物があるとしたら、その人の遺族だけだ。』
『そんなだと、海はいつでも静かでなくつちやいけませんね。』とジユウルが云ひました。
『海がいつも静かにしてゐたら、それは海にとつては可哀相な事なんだよ坊や。その静かにしてゐると云ふ事と海のためにいゝ事とは両立しないんだ。海の中の動物や植物に必要な空気を失つたり汚したりしないやうにするには、はげしくひつかきまはさなければならない。水は大洋の為めにも、大気或は空気の大洋の為めに必要なのとおなじ、健康を保つ為めの激動――大嵐でひつかきまはして水に生気を与へ、新しくする事が必要なのだ。
『風は大洋の表面をさわがす。若しそれが疾風であれば波が立つ。その波は泡立ちながら跳びあがつて、互ひちがひに高いうねりになつたり、くづれたりするのだ。もしまた、その疾風が強く間断なしに吹きつゞけると、その風に遂ひまくられる水は、大きく長くふくれた大浪になつて、広い海を平行線をつくつて前進する。そして堂々としたおなじ形で、あとからあとから追ひつくやうにして海岸に地響きをたてゝ打ちよせてゆくのだ。だが、それ等の運動は、いくら騒々しくても、たゞ海の表面だけの事だ。最も激しい大嵐の時でも、三十メートルも下の方は静かなのだ。
『此の近くの海では一番大きな波の高さが二メートルか三メートルを超える事はないのだ。しかし、南洋の或る処の波はひどい天気の時には、十メートルから十二メートル位まで高くなる事がある。それは全くの処動く丘と深い谷との広大な連脈だ。風に鞭打たれた水の峰の頂上は泡の雲を吐き、存分な力で驚くべき水を巻き上げて、その重さで大きな船をも打ち砕いてしまふ。
『波の力は、殆んど異常に近い。波が水から垂直に持ちあがつて力一杯で襲ひかゝつて行く処の海岸では、その衝動は、人間の足の下で地面が震へる程に激しい。最も堅固な堤も打ちこはされ、さらはれてしまふのだ。頑丈な木で固められたのも切りちぎられて地面をひきづられる。或は又石で築いた防波堤を壊して、それをまるでたゞのこいしのやうに、ころがしてしまふ。
『さういふ波の活動を連続して受けなければならないのは断崕だんがいになつてゐる処だ。即ち截り立てたやうに真直なあの断崕は、海の為めに海岸の堤の役目をつとめてゐるのだ。さういふ断崕は、フランスとイギリスの間のイギリス水道に沿ふた処で見る事が出来る。それ等の断崕は絶えずその下の方を海に穿うがたれてゐる。そしてその破片は砕かれて小石になつて放り出され、陸はずつと遠くの方まで海に掘つてゆかれる。歴史の上では、城砦や、建物や、村落でさへもあつたやうな処が、一様な山崩れの為めにだん/\に見棄てられて、今日では全く波の下にかくれてしまつてゐる。』
『そんなにして擾きまぜて、海の水が腐らないやうにするのですね。』とジユウルが念を押しました。
『その波の運動は、たゞ、海の水を腐らさない保証をするだけでは十分でないのだ。まだほかのものゝ健康に大事な関係がある。海の水には、無数の物質が溶け込んでゐる。それは極端にいやな味を持つてゐるが、それが、ものを腐らさぬやうに防ぐのだ。』
『ではその海の水は飲めないんですか?』とエミルが尋ねました。
『飲めない。お前がどんなにのどがかはいて苦しんでゐる時だつて飲めやしないよ。』
『一体どんな味がするんです、海の水は?』
『苦くつて辛らい。不快な味がして嘔気を呼ぶ位だ。それは水に溶け込んでゐる物の味なのだ。一番沢山に含んでゐるのは塩になるものだ。塩は、吾々の食物の味をつけるあの塩だ。』
『だけど塩は』とジユウルが不服を申立てました。『そんないやな味ぢやありませんよ。塩水をコツプへ入れて飲んだり出来はしませんけれど。』
『勿論さうさ。だが、海の水の中には、もつと他のいろんな沢山の物質が一緒になつて溶け込んでゐる。だからその味は非常に嫌やなのだ。塩を含んでゐる度合は、海によつていろ/\にちがふ。地中海の水は、一リツトル(五・五四四合)の中に四四グラムの塩分を含んでゐるし、大西洋の水一リツトルの中には三二グラムだけしか含んでゐない。
『試みに、大洋に含まれてゐる塩の総量の大凡おおよその見積りをつくつて見ると、大洋がすつかり乾いてしまつてその底に、塩の原素が残つたとすると、その塩のもとは地球の表面を一様に十メートルの厚さの層ですつかり包んでしまふに十分な程残るのだ。』
『まあ! 何んて沢山な塩だらう!』とエミルが叫び出しました。『ぢや、僕達人間がどんなに沢山食物に塩を使つても塩がなくなるなんて事はありませんねえ。それからその塩は海から取るのですか?』
『さうだ。それには、低く、平らにならされた海岸がいゝのだ。其処に、いゝ加減な広さの、浅い水溜りをいくつも掘るのだ。それを塩沢しおさわといふ。その水溜りに、海の水を導き入れる。そして其処に一杯になつた時に、海との通路を塞いでしまふ。そしてその塩沢の仕事は、夏の間にしてしまふ。夏の太陽の熱によつて、その沢の水は少しづつ蒸発する。そして塩は結晶して地面の皮のやうになつて残る。それを熊手でかき起すのだ。そしてそれを大きな山のやうに堆みあげて、乾かすのだ。』
『もし僕達が塩水を平たい器物に容れて太陽にあてたら、それでも、やはり塩沢でやるのとおなじやうな結果がとれるでせうか?』とジユウルが尋ねました。
『出来るとも。水は太陽の熱ですぐに蒸発してなくなる。そして塩はその容れものに残るよ。』
『海の中には、いろんな魚がゐますね。』とクレエルが云ひました。『小さいのだの大きいんだの、大変に恐ろしいやうなのだのゐるんですわね。鰯、鱈、ひしこ、鮪、それからもつと沢山のいろんな魚をみんな海からとるのですわね。また叔父さんが教へて下すつた軟体動物と云ふのもゐるし、また殻で自分の体を被ふてゐるのもゐるし、それから人の握りこぶしよりも大きなはさみをもつてゐる蟹もゐますね。そしてもつと私の知らない沢山の活きものが棲んでゐるんですね。それ等の活きものは、どうして生きてゐるのでせうね?』
『先づ、彼等の大部分は、お互ひに食ひ合ふのだ。弱い奴が強い奴の餌食になるのだ。順々に強い奴に見つけ出されて、その食物になるのだ。だが、海の中に棲んでゐるものが、お互ひを食べ合ふ事より他に生きて行く手段を持たなかつたら、早かれおそかれ、食物がなくなつて、みんな死に絶えてしまふだらうと云ふ事は明らかだ。
『が、それに対しては、陸の生きものにあるのとおなじやうに、海の中の生きものにも、ほかに、営養物になるものが、海の中にある。植物が、食べものになるものとして備はつてゐるのだ。或る種のものゝ食物は、植物なのだ。彼等は植物をうんと食べるのだ。そしてそれは、直接間接に、植物がそれ等の生きものゝすべてを養つてゐることになるのだ。』
『分りました。』とジユウルが云ひました。『羊は草を食べます。そして狼は羊を食べます。さうするとそれは草が狼を養ふ事にもなります。それとおんなじなんですね。それで、海の中にも草があるのですか?』
『非常に豊富にある。人間の牧場の草叢も海の底のよりも沢山にあるとは云へない。たゞ、海の中の植物は、陸のとは大変に違ふ。海の中のは決して花を持たないし、決して葉にたとへるやうなものもない。それから根もない。そのねばついたもとの方で岩にくつゝいてゐるだけで、岩から営養を取らねばならぬと云ふ事はないのだ。それ等の植物の食物は、水から取るのであつて、土地からではない。或るものはべた/\した革紐に似て居り、畳んだリボンのやうなのもあり、長いたてがみのやうなものもある。他のはまた小さな房になつた芽の形をして居たり、柔かい鳥の頭の朶毛だもうのやうなのがあり、ちぢれた羽毛に似たのがある。それからもつと他にはきれをめちや/\に引き裂いたやうなのや、螺旋状に巻かつたのや、或は木理もくめのやうな形のやねば/\した、糸のやうなのがある。その或ものの色はオリイヴ緑であり、或ものは蒼い薔薇色、または蜂蜜のやうな黄色、或は輝くやうな紅などだ。これ等の妙な植物を、海藻と云ふのだ。』

七三 流れる水


『僕に分つたのは』とエミルが云ひました。『ロオヌ河の水が、海に注ぐと云ふ事です。』
『ロオヌ河は海に流れ込んでゐる。』と叔父さんは繰り返しました。『一秒毎に五百万リツトル(二万七千七百二十石)づつの水が海へはいるのだ。』
『そんなに沢山の水をつゞけざまに受けてゐたら、海は池の水が一杯になりすぎたときのやうに、溢れ出はしませんか?』
『それはお前達に考へ切れる事ぢやないよ坊や。海へ注ぎ込んでゐるのはロオヌ河一つだけぢやないんだよ。フランスだけでも、ガロンヌ、ロアル、セエヌ、その他沢山の河がある。そして、それはただ海へ流れ込む沢山の河のうちの極く少部分なのだよ。世界中の河はみんな海につゞいてゐる。それは絶対にみんなが続いてゐる。そして、南アメリカのアマゾンと云ふ河などは、千四百リイグ(約二千二十五里以上)河口の広さが十リイグ(約十二里以上)もある。それはどんなに沢山の水を注ぎ込むことだらう!
『そんな大きな河も、これ以上小さな川はないと云ふやうな小さな谷川でも、大小にかゝはらず一様に、世界中の川が海へ注いでゐるのだと云ふ事を想像して御覧。お前達の知つてゐるあの蟹のゐる小さい流れだね、あの川の或る処はエミルにも飛び越すことが出来るだらう、そして何処だつてやつと水は膝位までしかないね。いゝかい、そんな小さな流れだつて、やつぱりアマゾンのやうな大きな河がするやうに、一秒毎に幾リツトルかの水を海に流し込むのだ。どの川もみんなさうなんだ。あの無限な海もみんなその川の水なんだ。だが、その小さな流れは自分だけで海までの長い旅行をすることは出来ないのだ。それは、途中で仲間のきれいな細い流れと出合ひ、一緒になつてもつと勢のいゝ流れになり、それがまた他のと一緒になつて大きな河になるのだ。海に流れ込む河は、いくつもの支流を合はせたもので、海はその小さな流れを飲んだ河の水を受けてゐるのだ。』
『流れる水はみんな』とジユウルが云ひました。『谷川の細い流れも、急流も、小川も大きな河も、みんな絶え間なしに、海に流れ込んでゐるのですね。そしてそれは、世界中にある河がみんなさうなのですね。さういふ風にして一秒毎に海はとても計算が出来ない程沢山の水嵩を受け入れてゐるのですね。さうすると、僕にもやつぱりエミルとおなじ疑問が起るのです。海はそんなに沢山の水を続けざまに受け容れてゐて溢れる事はないのですか?』
『若しも、貯水池に、泉から水を受けてゐても、丁度それだけの水を他へ流し出してゐるとする。そして水は何時も何時も貯水池の中にはいつて来る。貯水池はその為めに溢れるだらうか?』
『そんな事は決してありません。受けただけの水を失くしてゆくとすれば、それは何時もおなじ量でなくてはならない筈です。』
『海はそれとおんなじだ。得ただけの水を失くしてゆくのだ。そしていつもおなじ嵩だけの水が海に残つてゐる事になるのだ。谷川も小川も大河も、みんな海へ流れ込む。だが、その谷川や、小川や、大河の水はまた海から来てゐるのだ。河の水はその大きな無限の貯水池から取つたものを、また其処へ返すのだ。』
『だけど、もしあの蟹のゐる小川が海から来たものだとすると、』とエミルが云ひ出しました。『叔父さんがおつしやるとほりだと、その水は塩水でなくちやならない筈ですね。ところが、僕はよく知つてゐますが、あの水はさうぢやありません。塩なんかちつともありませんよ。』
たしかに塩水ぢやないよ。だが、あの小川は決して、貯水池から溢れ出して来た水のやうなふうに海から戻つて来るのではない、これが海から戻つて来るには、川の水になる前に、まづ、空気を通つて雲になるのだ。』
『雲ですつて?』
『雲だよ、坊や。つい此の間私がお前達に話してあげた事を思ひ出して見るんだ。
『ね、太陽の熱は水を蒸発させる。そしてその目に見えないものに変つた水は空中に散ばつてしまふ。海の表面は陸地の三倍もある。その広い海からは絶えず沢山の水が蒸発して空中に昇つてゐる。その水蒸気が雲になるのだ。その雲は四方に運ばれて、雨や雪になつて降る。その雨や溶けた雪は地面にしみ込み、されて、此度は泉になつて湧き出し、その泉はだん/\に、谷川となり、小川となり、大河となるのだ。』
『僕、どうして谷川の水が塩水でないかと云ふ事が分りましたよ、』とジユウルが云ひました。『川の水は海から来たのだと云つても、叔父さんが教へて下すつたとほりに、平たい容器の中の塩水を太陽にあてると、水だけが蒸発して行つて塩は残ります。海から昇る水蒸気でも塩を含んではゆきません。塩は水と一緒に水蒸気になつてゆくことは出来ないのですからね。で、雲から降つて来る雨や雪で水を造られてゐる小川には塩がありよう筈はないのですね。』
『今、叔父さんが私達に話して下すつたことは大変に注意すべき事ですね』とクレエルが云ひました。『谷川も、小川も、大河も、すべての水の流れは、海から来て海へ帰つてゆくのですね。』
『さうだ、海から来て海へ帰るのだ。すべての大陸をよせ集めたよりも三倍も大きな面積が水で覆はれた、尽きる事のない貯水池から来るのだ。その或る場所の落ち窪んだ深淵は、十四キロメートルも測れる程深く、そして絶え間なく世界中のすべての河の水を受け容れてゐて、それを受けきれないと云ふ事はない。広い海の表面には、常に空気と水蒸気が接してゐる。その水蒸気は雲となり、その雲は溶けて雨となり、風に逐ひ立てられて、歩きまはり、無数の如露のやうに、地面を濡らして、地上のものに生気を与へて肥やす。かうして雲から雪になり雨になつて降つて来た水は、河を産み、その水は海に駆られてゆく。かうして海から出た水は、大気の中を雲の形で旅をし、雨になつて地面に降り、河となつて大陸を横ぎつてまた海へ帰つて行くと云ふやうに、絶えず、その同じ道をめぐつて同じ事を繰り返してゐるのだ。
『海は公共の貯水池だ。河も、泉も、すべての小さな流れも、みんなその貯水池から出て、其処へ帰つてゆく。露の滴りの水も草木のうちをめぐつてゐる汁液の水も、吾々の額に滲み出す玉のやうな汗の水も、すべて、海から来てまた海へ定められたとほりの道を通つて帰つてゆく。どんなに小さな滴りも途中で失くなつてしまふ恐れはないのだ。よし渇いた砂が水を吸ひ込んでしまつても、太陽は、どうしてそれを引き出して空中の水蒸気と結びつけるかと云ふことをよく知つてゐる。そして、その水は早かれ遅かれ、再び大洋にはいるのだ。神様の目からは何物も逃れることは出来ない。何物も失はれはしない。神様はその手で大洋の深い淵を測つてゐる。そして水の滴りの数まで知つてゐるのだ。』

七四 巣分れの群


 ポオル叔父さんが話を止めた時に、みんなは庭から響いて来る、ポン、ポン、ポン、ポンと云ふ耳にこびりつくやうな音を聞きました。それはまるであの大きな接骨木の下に、鍛冶屋が鉄床でも据ゑつけたやうに思はれるのでした。みんなはそれを何かと思つて見に馳けてゆきました。ジヤツクは真面目に如露の上を鍵で叩いてゐました。アムブロアジヌお婆さんも銅のソース鍋を小石でポン、ポン、ポン、ポンと叩いてゐました。
 此の二人の善良な召使ひ達は頭を下げて、一心に身を入れて、こんな大まじめな空気の中で茶化し囃子をやつてゐるのでせうか? 二人は休みなしにその単調な仕事をしながら一言二言話し合ひました。『奴等はすぐり藪の方へ行つてゐるのかな?』とジヤツクが云ひます。『何んだか向ふの方へゆくやうに見えますよ。』とアムブロアジヌお婆あさんが答へます。そして、ポン、ポン、ポン、ポンと続けて居りました。
 丁度その時ポオル叔父さんと子供達が来ました。ポオル叔父さんにはすべての事が一目で分りました。庭中に赤い煙のやうなものがとんでゐました。それは、或時は高く昇り、或時は低く沈み、また散ばつたり、密集して塊になつたりしてゐました。そしてその赤い煙の真中からは、一本調子なブンブン云ふ翅の音がしてゐます。ジヤツクお爺さんとアムブロアジヌお婆あさんとはまだその雲のあとについて叩いてゐました。ポオル叔父さんはそれを見るのにすつかり気を取られてゐました。エミルとジユウルとクレエルとは、それぞれに、何が始まつたのかと思つて驚いて見てゐました。
 小さい雲が降りて来て、ジヤツクの先見どほりにすぐり藪に近づきます。そしてそのまはりをまはつて調べて見て、一つの枝を選びます。二人はなほもつと騒々しく、ポン、ポン、ポン、ポン、と叩きます。選ばれた枝の上には円く塊つたのが目に見えて増へてゆき、同時に雲はだん/\に密集して来てグル/\そのまはりをまはります。ジヤツクお爺さんとアムブロアジヌお婆あさんとは叩くのを止めました。直ぐにそのすぐり藪のある枝から大きな房がさがりました。それから離れてゐるのは、もうすぐに其処に帰りつく、生きた雲の最後の者だけです。すべては終りました。今は人間も其処に近づく事が出来ます。
 エミルは、それを、蜜蜂が巣に帰つて来たのではないかと思ひました。エミルはずつと前に蜂の巣箱にしたいたづらを覚えてゐました。叔父さんはエミルを安心させる為めにその手を引いてやりました。エミルは元気よくすぐりの藪に近づきました。叔父さんと一緒にゐるのに何のあぶない事がありませう? ジユウルもクレエルも一緒にくつついて来ました。それは厄介な思ひをする甲斐のあるものでした。
 すぐり藪にぶら下つてゐるのは蜜蜂の房でみんな其処に固まつてゐるのでした。後れて来た一つは彼方此方を行つたり来たりして、いゝ場所を見つけてゐます。そして、もう先きに落ちついてゐるものにくつつき合つて場所をとります。すぐりの枝はその上にのつた幾千といふ蜂の重荷で曲つてゐます。最初に来たものは、たしかに、一番強い奴です。彼等はその前肢の爪で枝をつかんで、そのあとから来るすべての重さを支へるのです。あとから来た他の者は、最初の者の後肢に自分の体をくつつけるのです。そして三列位までが、房のブラ下る根になり、それから、だんだんに、四番目六番目、ともつとずつと沢山くつついてゆきます。それからまた此度は、だん/\にその数を減じて行つて最後までしつかりとその手で、しがみついてゐます。子供達は、驚いてその蜂の房の前に立ちました。その赤い毛と光沢のある翅とは陽に輝いてゐました。けれどもみんなは少しはなれた処で用心深くしてゐました。
『あんまり近づいたら螫されるでせうか?』とエミルが尋ねました。
『今のやうな場合では、めつたに螫しはしまい。もしお前が、考へなしに側に行つて蜂をいぢめたら、その時には蜂がどうするか叔父さんにはその答へは出来ない。だが蜂をそつとしておいて、おとなしく見てゐるのならば、何も恐いことはない。蜂共は今、小さなものずきな子供を螫すことよりは、もつと他の心配をしてゐるのだ。』
『その心配といふのは何んです? 蜂共にはもうこれからみんな寝るのだと誰れでも思ふやうに何事もないやうに見えるぢやありませんか。』
『自分の住む村もなく住家をつくる処をさがしてゐる人間の真面目な心配とおなじ心配だ。』
『蜜蜂に村がありますか? それに――』
『蜂には巣があるよ。その巣は蜂の為めの住居のおなじものが沢山集つたものだ。』
『では、蜂共は、その中に住む巣を見つけてゐるのですね。』
『さうだ、巣を見つけてゐるのだ。』
『そして一体此の宿なしの蜂共は、何処から来たんでせう?』
『庭の中の古い巣から来たのだ。』
『だけど蜂共は、よそに新らしく領分をさがしに出なくても、あすこにゐてもいゝんでせうがねえ。』
『彼処にはゐられないのだ。あの巣の中の人口が殖えて、みんなのゐるのには部屋が足りなくなつたのだ。だから一匹の女王に導かれて、本国を離れ、大冒険をして自分達の為めの新しい殖民地を何処か他所で見つけるのだ。此の移住隊のことを巣分れの群れと云ふのだ。』
『その群れを導く女王は、――では其処の房の中にもゐるんですね?』
『ゐるとも。その女王が、すぐりの藪に降りて、仲間全体を其処に停めさせたのだ。』
 村とか、女王とか、移住、殖民地、などと云ふ言葉は、子供達の頭に印象を残しました。みんなはそんな、人間の政治学の条件を蜂にあてはめた言葉を聞いてびつくりしてしまひました。尋ねたい事が、あとからあとから出て来ます。が、ポオル叔父さんは耳に入れませんでした。
『巣分れの蜂が、巣箱にはいつてしまふまでお待ち。そしたら、叔父さんはお前達に、驚くやうな蜂のお話を長く続けてしてあげる。そして今はたゞ、何故ジヤツクお爺さんとアムブロアジヌお婆あさんが、如露やソース鍋を叩いてゐたのかと云ふ、クレエルの質問にだけ答へよう。
『若し、巣分れの蜂共が、その村から飛び出して行つてしまつたら、その蜜蜂を私達は失くしてしまふ事になる。其処で、それを庭の中の木に降りさせて、其処で群をかためて房のやうになるやうに導いてやる事が必要なのだ。それには古くからの考へで、何か音をさせるといゝと云ふ事になつてゐる。その音は雷を真似るので、云はゞまあ、その蜂共は、嵐が近づいたと云ふ恐れで、大急ぎで避難所をさがすのだと云ふのだ。私は蜂が、古い如露を叩く音で嵐を恐れるやうな馬鹿気たものだとは信じない。蜂は古い巣箱からあまり遠くなく蜂共に適した場処でありさへすれば丁度いゝと思つた時に丁度いゝ処に降りるのだ。』
 ジヤツクが、一方の手では金槌を下げ、一方の手をかざして見ながらポオル叔父さんを呼びました。お爺さんは新しい板で、巣分れをした蜂共の為めに家をつくつてゐるのでした。夕方になると巣箱が出来上りました。底の方には蜂の出入口になる小さな穴が三つ穿いてゐます。そして、内側には、今に出来る筈の蜜窩みつかを支へる為めの幾本かの木釘があります。一つの平たい石が、壁に立てかけて置いてあつたのが、巣箱の台石になりました。日の暮れ方になつて、みんなはすぐり藪に行きました。蜂のかたまりは枝から離すときに、少し揺れて巣箱の中にはいりました。最後にその巣箱は台石の上に置かれました。
 次ぎの朝ジユウルは、蜂がどうしてゐるか見に出かけました。その家は蜂共に丁度よく出来てゐました。蜂共は巣箱の小さな扉の外に一つづつ出て来ては、台石の上の日あたりで一寸自分の体をさすつては、庭の花の方に飛んで行きます。蜂共は働きにゆくのです。殖民地はもう見つけ出されたのです。重大な会議で、すべての事は夜の間に決定されたのです。

七五 蜜蝋


 ポオル叔父さんは、約束を忘れませんでした。叔父さんは真先きに出来た閑暇ひまを利用して、子供達に蜜蜂の話をして聞かせました。
『非常によく蜂を住はせる巣箱には、二万から三万の蜂がはいつてゐる。その人口は殆んど吾々人間のつくつた、ちよつとした町位にはなる。町では、すべてのものがおなじ商売をする訳にはゆかない。パン焼きはパンをつくる、石工や煉瓦屋は家をつくるし、大工は家具をつくり、洋服屋は着物をつくる、手短かに云へば、それ/″\の仕事によつて職人がゐる。そのやうに蜂の社会にもいろ/\な分業がある。即ち、母親があり、父親があり、労働者があるといふ風に。
『まづ第一に、母親としては、それ/″\の巣箱の中に一匹しかゐない。たゞの一匹だ。その蜂が、全人口の母親なのだ。それを女王蜂といふ。此の女王蜂は、その大きな体で労働者からは抜んでて居り、そして働く道具を持たない。その蜂の仕事は卵を産むことなのだ。それは一ぺんに千二百もの卵をその体に持つのだ。そして最初の卵を産んでしまふとすぐにまた次ぎの卵をもつのだ。何んと云ふ驚くべき女王の仕事だらう? しかしまた、他の蜂共がその共同の母親を見るのにやさしい注意をすることはどうだらう! その丁寧な気のつけ方はどうだらう! 彼等はその貴い母親に一口づつ御馳走をする、彼等は、自分で食物を集めるひまのない女王蜂の為めに、一番上等のものを食べさせる。そしてあとからあとからと卵を産むのがたつた一つの役目なのだ。
 父親の仕事をするのは、六百から八百位までの怠けもので雄蜂といふのだ。雄蜂は、労働者の蜂よりは大きく女王よりは小さい、その大きな脹れた眼は、頭の尖きにひつつき合つてついてゐる。雄蜂は螫毛を持つてゐない。毒を持つた小剣を持つてゐるのは女王と労働者だけだ。雄蜂はその武器を剥ぎ取られてゐる。その雄蜂は何をするのか? と云ふ問ひがある。それは、何時か、女王蜂が外を飛びまはつて楽しむ時に、そのお伴をするのだ。そして、もうそれ以上は何にも聞くことはない。彼等は惨めに外で死ぬか、或はもし巣に帰ると労働者から冷淡に取り扱はれる。労働者は雄蜂を穀つぶしだと云ふので虐待して仲間に入れないのだ。そして、すぐに労働者仲間には不必要な雄蜂をつつきまくる。しかし、それでもまだその虐待に平気でゐれば、此度は最後の手段がとられる。何時か、天気のいゝ朝、労働者共は、雄蜂をどれもこれも殺してしまふ。そしてその死体は巣箱から掃き出されてしまつてゐる。それが雄蜂の最後だ。
『さて、労働者だが、これは一匹の女王蜂に、二万から三万の蜂がついてゐる。此の労働者を働蜂と云ふのだ。その働蜂の或る者は、お前達が、庭の中を花から花へ飛びまはつて取り入れをしてゐるのを見るだらう? あの蜂なのだ。それからもう一つの他の働蜂は、その外へ出てゐる働蜂よりは少し年をとつてゐて、従つて経験をつんでゐる。此の蜂は巣の中に残つてゐて、巣の中での必要な仕事をする。そして、女王蜂の生むだ卵から孵つた幼虫に食物を分けてやる。此の二つの働蜂の体には区別がある。蜜の材料を集めて蜜蝋をつくる、蝋蜂は若い。家にゐて家族の面倒を見る養育係りの蜂の方は年を老つてゐる。此の二種類はお互ひに根からの相異を固持してゐるのではない。熱情に充ち、冒険的な若い時には、蜂は蜜蝋つくりの仕事に従ふ。蜂は野原に飛んで行つて、花をたづねては食料をさがし歩く。そして或時は、悪だくみを持つた侵略者に対して、螫毛の鞘を払つて、大いに自分を主張するために飛びかゝつてゆく。そしてその滲み出させる蜜蝋で、倉庫や小さな室がつくられる。その小さな室は、小さい幼虫を置く処なのだ。その働蜂が年をとつて来ると、経験を積んで来る。しかし、若い熱情を失くする。其処で、家にゐて、子供の養育係りといふ細かい面倒な仕事をするに相応するやうになるのだ。』
 此のポオル叔父さんの前置きの、蜂の仕事がちやんと三つの階級に決められてゐるといふ話は、子供達に大変な興味を起させました。みんなは、蜂が、そんな不思議な念入りな、共同の規則を持つてゐるといふ事を知つて驚きました。真先きにジユウルが叔父さんに質問しはじめました。子供は、知りたいと思ふ事は、何んでも皆んなすぐに知らなければ承知が出来ないのです。
『叔父さんは、蜜蝋蜂は蜜蝋をつくると仰云ひましたね。僕はまた、もう花の中で出来あがつてゐる蜜蝋を蜂が見つけ出すのかと思つてゐましたよ。』
『出来上つたものを見つけ出すのではない。蜂がそれをつくるのだ。それを滲み出させるのだ。別の言葉で云へば、かきが自分の殻の石を滲み出すやうに、メレアグリナが、真珠貝や真珠を滲み出すように、蜂は蜜蝋を滲み出さすのだ。
『蜂の胃をよく見ると、それが幾つもの輪がひつつき合つて出来てゐる事が分る。そしてどの昆虫の胃でも、皆なそれと同じやうに出来てゐる。かういふ風に幾つもの部分がひつつき合つて出来てゐると云ふのは、例外なしに、すべての昆虫の角でも、触角でも、肢でも、皆な同じ事なのだ。もと/\此の insect 即ち昆虫と云ふ言葉は、切れ/″\になつてゐるといふ意味で、此の幾つもの部分がひつつき合つてゐると云ふところから来たものなのだ。実際、昆虫のからだはさう云ふ風に幾つもの切れ切れがひつつき合つて出来てゐるのだ。
『其処で蜂の胃袋の話に戻る。その胃袋の中には、別々にたゝまれた輪が真中よりは下の方に見出される、それが蜜蝋をつくり出す機械なのだ。其処に皮膚をとほして汗が滲み出すように、蜜蝋の材料になるものが少しづつ滲み出るのだ。その滲み出したものは堆つて薄い層になる。蜂は肢でそれをこすつてはがすのだ。其処には八つの蜜蝋をつくる機械があつて、一つが怠けてゐる時には他のが働くといふやうにして自分の思ひどほりにいつも蜜蝋の層をつくつてゐる。』
『蜂はその蜜蝋を何にするのですか?』
『それで、蜜窩をつくるのだ。それは蜜を貯へておく倉庫で、そして幼虫の形をした蜂の子を育てる小さないくつもの室だ。』
『ぢや、その家を建てるのに』とエミルが云ひ出しました。『その胃袋のひだから取つた蜜蝋の層で建てるのですね。さうだと蜂は大変独特の工夫に富んだ処を見せる訳ですね。それは丁度僕達が家を建てるために要る石やなんかを手に入れるのに、自分の体をするやうなものですね。』
『蝸牛は』と叔父さんは結びました。『もう人間をさういふ動物の独特な理想を不思議がらせないやうにならしてしまつてゐる。蝸牛は自分の殻をつくるのに石を滲み出さすのだ。』

七六 蜜房


 蜜を貯へておくために、そして幼虫を育てる為めに、蜂はその蜜蝋で蜜房といふ一方の端は開き一方の端は塞がつてゐる小さないくつもの室をつくる。それはどれもみんな規則正しい六角形で排列されてゐる。幾何学上の言葉ではそれぞれが六角形※(「土へん+壽」、第3水準1-15-67)かくとう、或は六面角※(「土へん+壽」、第3水準1-15-67)と云ふ事が出来るだらう。
『此の形の科学、ひっくるめて云へば幾何学の奉仕者とその美しいものの附属物の言葉の紹介に驚いてはいけない。蜂は此の上はないといふやうな熟練した幾何学者だ。彼等の仕事には、一番高い知識の運用が必要なのだ。すべての人間の理論の力は、一歩一歩昆虫の科学に従つて来たのだ。其処で私もすぐに、その目的に返つて、それは大変むづかしいのだが、お前達に分りやすいやうに話して見る事にしよう。
『蜜房は背中合はせに、塞がつてゐる方の側同志が結びついて、対になつて水平におかれる。そして猶、二つの隣り合つた室の仕切り壁のやうになつたそれ/″\の平たい側面をくつつき合はせて多く少く、いろ/\に並べられてある。そしてその小室こべやの塞つてゐる方の側同志で背中合はせになつた二つの層の事を蜜窩といふのだ。此の蜜窩の一方の側には同じ層の室の入口がみんなあり、第二の層の室は反対の側に開いてゐる。最後に、その蜜窩は巣箱の中に、半面は右、半面は左を向けて垂直に吊されてゐる。その上の方の縁は、巣箱の屋根か、或はその屋根の内側を交叉してゐる棒にくつゝいてゐる。
『一つの蜜窩では、人口が多い時には十分ではないので、またはじめの通りなのを、他につくる。いろいろな蜜窩が、お互ひに並行して、その中間に隙間を残して並んでゐる。それ等の蜜窩は街で、広場や通りは、丁度吾々の家の戸口が通りに向つて右左から開いてゐるやうに、隣り合つた蜜窩の小室が向き合つた、二つの層の間に出来てゐる。蜂は其処を一つの扉口から他のへとめぐつて倉庫のやうに使つてゐる室の中へ蜜を貯へたり、或は一つ一つ他の室に行つて若い幼虫に、食物をわけてやつたりする。そして必要な時には、それ等の公の場所に集まつて、公共の問題について考へたり会議をしたりする。例へば、養育係りの蜂が、幼虫の食物の世話をして彼方此方を歩いてゐるうちにか、或は蜜蝋蜂が一生懸命に自分の体をこすつて蜜蝋を引き出して家を建てはじめてゐるうちに、雄蜂を逐ひ出す隠謀が出来てゐる。処に、その時新しい女王蜂が生れて巣箱の中に内乱が起る。するとみんな集つての相談で移民の計画が熟する。其処で――だが、さう先き走りをして話すのは止めにしよう。蜜房の話に帰らう。』
『僕は、その珍らしい蜂の話をみんな本当に知りたいんです。』とジユウルが云ひ出しました。
『お待ち! まづ何よりも蜜房がどうして出来てゐるかを見よう。蜂はその必要を感ずるとその輪のひだから蜜蝋のうすい層を引きだして蜜房の材料にする。その少しばかりの蜜蝋の層は、その歯の間、即ち二つの顎の間にくはへられる。蜂はそれをかみしめて、その仲間の間を馳け抜ける。『私を通してお呉れ』と云つてゐるやうに見える。『さあ、私は仕事をしなければならないんだから。』さうして道をかきわけてゆく。その蜂は仕事場の真中に場所をとる。蜜蝋は顎の間で揉まれてゐるし、きれてもゐる。蜂はそれをリボンのやうに平らにのばす。それからまたそれをたたく。そしてもう一度揉んで、塊にしてしまふ。同時に、それに唾を含ませる。それはその塊を柔かくするのだ。その材料が、丁度適当な程度になつた時に、蜂は少しづつ少しづつそれを貼りつける。余分な処を切りおとすには、顎が鋏のやうに使はれてゐるし、触角は絶えず動いて探り針のやうにも、またコンパスにも使はれてゐる。それは蜜蝋の壁にさはつてその厚さを調べ、窪みへつつ込んで、その深さを確かめる。此の恐ろしく丁寧で規則正しい建物を完全につくりあげさすその生きたコンパスの触れ方は何んと云ふすばらしいものだらう! その上労働者が馳け出しだと、上手な蜂が、経験をつんだ眼でそれを見張つてゐて、ほんの少しのあやまちがあつても、すぐに、それを捉へて、急いでつくりなをす。下手な労働者は、控へ目勝ちにそのそばで、仕事を覚える為めにそれを注意してゐる。細工を覚えてしまふと、また働きはじめる。数千の蜜蝋蜂が一緒に働いて、二デシメートルから三デシメートルの広さの蜜窩一つをつくるのに、屡々一日仕事の事がある。』
『叔父さんは私達に話して下さいましたわね』とクレエルが云ひました。『その蜜房は幾何学的な排列で特別に珍らしいものだつて。』
『今、丁度その立派な話題へ来た処だ。だが私は前以てお前達に、一寸云つておく事がある。お前達には蜂の建築術の勝れた美しさはまだなか/\のみ込めるもんぢやない。いゝかいジユウル、そのつまらない虫のつくつた蜜蝋の家を、本当によく知つてしまふには、本当に少数の人達しか持つてゐない、最高の知識が要るのだ。それをお前が研究して、その珍らしいものをすつかり分るには、これからのお前の長い前途を、出来るだけ十分に打ち込まなければならないのだ。だが、今はたゞ、私が話して聞かせるだけの事にしておかう。
『蜜房は、或ものは蜜を入れておく倉庫のやうに、或ものは幼虫の為めの巣のやうに使はれる。それは蜜蝋でつくられてゐる。その材料は、蜂も無制限に得る事は出来ない。蜂共は、胃が少しばかりの蜜蝋の層を滲み出させるまで待たなければならない。そしてその層をつくり出すのもゆつくりで、余程自分の体をけづつてもゐるのだ。蜂は自分の体の材料で建築をするのだ。それは自分を痩せさせて滲み出させた処のものを以て蜜房をつくつてゐるのだ。その蜜蝋が蜂にとつてどれほど貴重なものかと云ふことゝ、同時に、それを蜂共がどんなに厳重に経済的に使はねばならぬか、判断が出来るだらう。
『それにまだ、大変な数の家族を養はねばならない。倉庫にある蜜は公共の必要に応ずるやうに殖やしてゆかなければならない。その上に猶、それ等の倉庫や育児室になる小さな室を出来るだけつくつてゆかねばならないのだ。それも巣箱の妨げにならないやうに、二万も三万もの市民が自由にそこらを飛びまはつて歩くのに少しも不都合を感じないやうにしなければならないのだ。最後に、蜂にとつて最も困難な問題にぶつかるのだ。彼等は最少の空間に、出来得る限り最少の蜜蝋で、出来るだけ沢山の蜜房をつくらねばならないのだ。さあジユウル、お前は此の蜂の問題を解く事が出来さうかい?』
『叔父さん、僕その説明がよく分りません。』
『蜜蝋を節約するのに、先づ最初の仕事をはじめる前に非常に簡単な方法を考へる。それはその室と室との間の仕きりをつくるのに、大変薄くすることだ。お前だつて、此の最初の方法は、蜂と全くおなじ事をするだらう。蜂はその蜜蝋の壁を、紙のやうに薄くつくる。だが、これではまだ不十分なんだ。もつと重大な必要は、一番経済的な形をさがして、その形で室をつくると云ふ事だ。さあ、みんなで考へて見よう。どうすれば、空間と蜜蝋との経済的な条件にあてはまるやうな形の室が出来るだらう?
『先づ、その小室を円いものとして考へて見よう。紙の上に、或る同じ大きさでお互ひに触れ合ふ円をいくつか書いて見る。それ等の隣り合つた三つの室の真中には、始終すき間が出来て来る。その何にもならない無駄なすき間が沢山に出来ることは、その室をつくる為めに経済的なやり方ではない。円形では駄目だ。
『それでは此度は四角にして見よう。紙の上におなじ大きさの四角を書かう。これは側面と側面とをくつつけて間にすきまを残さずに正しく並べてゆく事が出来る。此の室の床に嵌め込んだ小さな四角な赤煉瓦を御覧。此の煉瓦は、間に少しも隙間を残さず、どの側面も触れ合つてゐる。其処で四角な形は、第一の条件、即ち、隙間を利用してゐると云ふ条件には当てはまる。
『だが、此処にまた他に困難な事が現はれて来る。四角な格好をした室では、それを建てる時に使つた蜜蝋の量のせいで、十分な蜜を支へる事が出来なくなつて来る。その量を殖やす為めには、その角の面の数を出来るだけ沢山に殖やさなければならない。此のはつきりした真理をお前達にちやんと見せてのみ込ませてやることは私には出来さうにない。それは、お前達の知識とはまだずつと隔たりのある事なんだからね。その面を殖やすといふ理屈は幾何学が確かな事だと認めてゐるのだ。でそれを事実について考へて見よう。
『出来上つた形を選んで、其処から出発して考へる事にする。側面と側面を合はせて、少しも無駄な隙間を残さずに置く事の出来る、すべての規則正しい形のものゝ中から、お前達は最もその側面の数の多いものを選ばなければならない。さうすれば同じだけの蜜蝋をつかつても沢山の蜜を支へる事が出来るだらう。
『幾何学は、隙間をつくらずに並べることの出来る正しい形はたゞ三角か、四角か、六角と教へてゐる。それだけだ。他の形ではすべての周囲が触れ合つてしかも少しも隙間を残さないやうにする事は出来ないのだ。
『さうすると、その六角形をとつて室をつくれば、最も少い空間に、最も少い蜜蝋で総ての室を集める事が出来、そして沢山の蜜を貯へる事が出来る。蜂は誰よりもよくその事を知つてゐて、他のどの種類にも決してない六角形の室をつくるのだ。』
『では蜂は、』とクレエルが聞きました。『私達のやうに、或は私達以上に、その理屈を知つてゐて、そんな問題を解いたのでせうか?』
『もしも蜂が、前以てよく考へ、計画をたてたあとでその蜜房をつくつたら、それは驚くべき事だよ、クレエルや。動物は人間の競争者になるだらう。蜂は深い幾何学者だが、それは、もつと荘厳な幾何学者、即ち神様の霊感の下に知らず識らずの間にその仕事をしただけなのだ。さあ、もう此の話は止めよう、お前達に此の話がよく分つたかどうか怪しいが、しかし、もう少ししたら、此の驚くべき世界の事に、お前達の眼をあけてやることが出来よう。』

七七 蜂蜜


『蜂は勤勉だ。朝日が昇る頃には、巣箱からずつと離れた処へ飛んで行つて一つづつ花を訪ねて働いてゐる。お前達はもう花の中の、虫を引きつけるものを知つてゐる筈だね、私はお前達に、前に花蜜の事について話しておいた。それは甘い液体で、花冠の底から滲み出して小さな翅のある虫共を誘ひ、それで柱頭の上のやくをゆするやうになつてゐる。此の花蜜が、蜂に入り用なものなのだ。これが、自分の大変な御馳走であり、猶また女王蜂にも、他のものにもやはり大変な御馳走なのだ。そして、それが蜂蜜の素なのだ。どうしてその液体を家に持つて帰つて他のもの達を喜ばせるのだらう? 蜂が持つてゐるのは、水差しでもないし、瓶でもない、壺でもない。さういふ種類のものぢやないのだ。ああさうだ、それは、それ、蟻が木虱の乳を労働者に持つて行つてやるやうに、自分の鑵といふやうな、胃袋、腹、いぶくろ[#「月+奧」、U+443F、358-19]で配つてやるのだ。
『蜂は一つの花にはいつて、花冠の底の方へ長いそして柔かな、それで甘い液汁を舐める舌のやうなものを突込む。一滴づつその花から汁を吸ひ出す。そして※[#「月+奧」、U+443F、359-1]は一杯になる。同時に蜂は花粉の粒を少しづつ噛む。猶その上に、此のいゝ荷物を巣箱に持つて帰らうと思ふのだ。此の仕事の為めに蜂は特別な器物を持つてゐる。先づ第一がむく毛だ。それから、ブラシユと、籠だ。それは肢がその役に立つのだ。むく毛とブラシユは取り入れに、籠は持ち運びに使はれるのだ。
『最初に蜂は面白がつてその花粉をかぶつた雄蕋の中を転がる。そして彼方此方転がつてゐる蜂のびろうど体の後肢の端に、内側の方に四角に、短かい粗い毛が逆立つてゐる処がある。それがブラシユのやうな役に立つのだ。虫のむく毛の上に散ばつた花粉の粒は、そのブラシユで集められて小さな球になる。それは肢の間につかまれる。それが籠といふ名で呼ばれるのは、後肢のブラシユの少し上の方の外側の毛で一つの窪みがふちどられてゐるからだ。其処にある小さな花粉の球は、粉だらけになつたむく毛の上を大急ぎで刷き集めて堆み上げたものなのだ。その荷物は決して落ちる事はない。何故なら籠の縁の毛がそれを支へてゐるからだ。そしてまた、底の方に向つて粘りついてゐるのだ。女王蜂や雄蜂はそれ等の働く道具を持つてゐない。さういふ器物は働かない雄蜂や女王蜂には用がないのだ。』
『その蜂が花を訪ねては籠の中に集め込んだ花粉の荷物の小さい球は誰にでもその後肢の間で見えますか?』
『勿論さ。蜂は花冠の底からうんとその甘い汁を舐める。花粉を幾度も幾度も掃き集める。そして最後には※[#「月+奧」、U+443F、359-12]は一杯になり籠はあふれ出る。巣箱に帰る時になつたのだ。蜂は、そんなに沢山の土産と一緒に大急ぎで飛んで行く。
『其処でその帰り途につけ込んで、その蜂蜜の原質について調べて見る事にする。蜂はその※[#「月+奧」、U+443F、359-14]の中に一杯になつた甘い液汁と籠の中の二つの花粉の球を持つてゆく。だが、それはまだみんな蜂蜜ではない。本当の蜂蜜をつくるのには、蜂はその原素を準備する。それは集めて来た花蜜と花粉の球だ。それを料理するのだ、その※[#「月+奧」、U+443F、359-16]の中でぐつぐつ煮立たすのだ。その小さな胃袋は、運んで来るのに壼として役に立つたよりも、もつといゝものになる。それは驚くやうに精巧な蒸溜器なのだ。その中で、舐めて来た液汁と咬みとつた花粉の粒とが消化作用で美味しい※(「米+羔」、第3水準1-89-86)かこうに変つてしまふ。それが蜂蜜なのだ。これで、その上手な料理はすんだのだ、その※[#「月+奧」、U+443F、359-19]一杯につまつてゐるのが蜂蜜だ。
『蜂は巣に着く。もしいゝまはりあはせで、女王蜂に出遇ふと、労働者の蜂は女王を尊敬して、その胃袋から第一の一と啜りを口から口へと捧げる。それからあき部屋をさがしてその倉庫の中に自分の首をつつ込んで、その舌をさし出して胃袋の中に詰まつてゐるのを吐き出す。そして其処に蜂が吐き出した本当の蜂蜜があるのだ。』
『みんな吐き出してしまつたのですか?』とエミルが尋ねました。
『みんなぢやない。胃袋の中につまつてゐるものは、普通三分されるのだ。一部分は巣に残つてゐて家の中の仕事をしてゐる養育係りの為めに、第二には、まだ巣の中にゐる小さいものゝ為めで、第三には自分の為めでそれは蜂蜜になるのだ。よく働く為めには食物がなくてはならないだらう?』
『ぢやあ、蜂は蜜を食べるのですか?』
『さうさ。お前は多分、蜂が人間の為めに特別に蜜をこしらへたんだとでも思つてゐたね。そんな事を考へちやいけない。蜂は自分達の為めに蜜をつくるのであつて、人間の為めにつくるのぢやあない。人間は、蜂の富を分捕るのだ。』
『花粉の小さな球は何になるんです?』とジユウルが尋ねました。
『花粉は蜜をつくる中に入れてしまふのだ。そして蜂の営養物として役に立つのだ。働蜂はその取り入れの仕事から帰つて来て、その後肢を、幼虫か蜜かどつちかの置いてある室の中に入れる。そして真中の肢の先きでその小さな球は離してそれを底の方に衝き込む。その遠足を繰り返してゐると、最後には室の中は、吐き出した蜜と、しまつておく花粉が一ぱいになる。養育係りは、それ等の食物をひき出して、室から室へと歩いて少しづつの分け前を小さい者共に分けてやるのだ。それからまた自分の食物にもするのだ。そして天気の悪い時に全人口を養ふ其処に財産を見つけ出すのだ。
『花は年中咲いてはゐない。その上にまだ休みの日がある。雨降りの日には蜂は飛び出して行く事が出来ない。其処で、花粉や蜜を貯へて、うまく供給する必要が出来て来る。で、花が沢山あつて、その収穫がすぐに入用以上を越す時に、働蜂はすこしも怠けずに蜜や花粉をあつめて室の中に蔵ひ込む。そしてその室が一杯になると直ぐに蜜蝋でそれを被ふてしまふ。
『その貯へられた食料は、いつか食物が少くなつた場合の用心に保護されるのだ。その蜜蝋の覆いは厳重に注意されてゐる。早まつてそれに手をつけたものは国事犯といふ大変な罪になるにちがひない。必要な時になると、封ははがされて、それ/″\その蜜窩から引き出す。しかし節制と謹しみはちやんと持つてゐる。その蜜窩がおしまひになると、また他の封を破るのだ。』
『若い蜂はどういふ風に育てられるのですか?』と云ふのはジユウルの第二の質問でした。
『巣として使ふやうにきめられた室が、蜜蝋蜂によつて十分に用意された時に、女王蜂は一つ一つの室にその大きなおなかを大変な努力で曳きづつて行く。養育係りの蜂は丁寧な従者の形だ。それ/″\の室の中に一つだけ卵を産む。数日のうち――三日から六日まで――に、此の卵は幼虫の形になる。それはコンマのやうに曲つた、足のない、白い小さな虫だ。それから養育係りの面倒な仕事が始まるのだ。
『養育係りは毎日、そして一日のうちの毎時間、この小さい虫に営養を分けてやらなければならない。それは蜜でもなければ花粉でもない。しかし、最初の弱い胃袋に必要な濃さにして用意したものがある。それははじめには、水のやうな糊で、殆んど味のないものだ。それから少し甘くなり、最後に純粋の蜜で、それが一杯の濃さになつた食料だ。吾々は泣いてゐる赤ん坊に※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)た肉をやるだらうか? そんな事はしない。しかしお乳をやり、それからパン粥をやる。蜂だつておんなじ事だ。蜂は蜜を持つてゐるけれども、それは強い者の為めの強い食物だ。そして弱い者の食物は弱い者の為めに味のないパン粥がある。では蜂はどうしてそれ等の食物を用意するのだらう? それを話すのは六かしい。多分蜂は蜜と花粉とをまぜ合はしちがつたものにするのだらう。六日間に幼虫は雛と云はれるまでの発育を遂げる。それから他の昆虫の幼虫のやうに、変態をする為めにその世界から隠退する。その変形の危急な瞬間の肉体の苦痛を妨ぐために、それ/″\の幼虫は室の内側に絹で線をひく。そして働蜂はその上を蜜蝋で覆ふてしまふ。絹の線の中では皮膚の外側をひきはがして、蛹への経過を遂げる。十二日後には蛹は第二の誕生の深い眠りから目ざめる。そして自分の体を震はし、その狭い纏衣まといをひきちぎると一匹の蜂が出て来る。蜜蝋の覆ひは内にとぢ込められた虫が咬み破り、同時に外からその蘇生を助ける働蜂によつて破られる。そして巣箱には新しい市民が加はるのだ。新しく生れた蜂は、翅を乾かしたり、体を磨いたりして一寸お化粧をして、それから仕事に出て行つてしまふ。その仕事は別に教はらなくても知つてゐるのだ。蜜蝋蜂には若い蜂がなり、養育係には年をとつたのがなるのだ。』

七八 女王蜂


『女王蜂に生れるやうに定められた卵は、普通の働蜂が孵へる処よりはずつと確つかりして外見もいゝ特別の室の中に産まれる。普通の働蜂の室の形は一般のものだ。が女王蜂の室はゆびぬきの形をしてゐる。それは蜜窩の縁にしつかりついてゐて王房と云ふのだ。』
『女王蜂がその室の中で卵を生む時には』とジユウルが尋ねました。『それが働蜂の卵か女王蜂の卵か知つてゐるのでせうか?』
『いや、女王蜂は知らない。知る必要もないのだ。女王蜂の卵と働蜂の卵との間には何にも違つた点はないのだ。その扱ひだけで卵から出るものが決まるのだ。或る扱ひを受けた若い幼虫が、未来の巣箱の繁昌のもとになる一匹の女王蜂になるのだ。そして他の方法で扱はれたものがブラシユや籠をもつた働蜂になるのだ。蜂が女王蜂をつくらうとする時には、その特別の王房に生れた卵をその目的で扱ふのだ。吾々人間を若い時の扱ひや教養でさういふ風に仕上げる事が出来るだらうか? 人間を扱ひや教養で王にしたり百姓にしたりする事は出来ない。けれども蜜蜂の国ではそれが一番いゝのだ。そして不埒者の間ではそんな事は一層悪い事になるのだ。
『蜂には、吾々のやうな、いろ/\異つた教育法は不必要だ。人間は、心にかけられるかぎりその注意を、心の感激をつよくし精神の向上に向けるやうにする。蜂の教育は純粋の動物の教育で、それは腹の指図によつて制禦されてゐる。食物の種類が、女王と労働者とそれ/″\につくられるのだ。女王になる幼虫の為めには、その養育係りは、特別のパン粥を用意するのだ。その王者の皿の中のものは、蜂だけが知つてゐる秘密だ。
『此の特別な営養は、普通よりはずつと目ざましい発育を齎らすのだ。だから、私が話したやうに、王様になるやうに決められた幼虫は特別な室の中で養はれるのだ。それ等の高貴な揺床ゆりどこには蜜蝋を贅沢に使つてある。それはもう六角のつましい形をしてはゐないし、薄い仕切り壁でもない。大きな、贅沢な、厚いゆびぬきだ。女王に関はる処には経済は沈黙してしまふ。』
『では、蜂は其処にゐる女王蜂の知慧は借りずに、他の女王蜂をつくるのですね?』
『さうだ。女王は非常に嫉妬深くて、巣の中の或る蜂が、自分の王としての特権を少しでも減して持つてゆくと云ふ事は我慢がならないのだ。女王の権限内にある僭望者は禍なる哉!だ。「おゝ! お前は私を押し退けて、私の部下の愛をぬすみに来たんだな!」あゝ! それは恐ろしい事になるんだ。人類の歴史の上では、王冠を頂いた頭が何かの不幸に出遇ふと、国民の上にまで困難を蒙らすと云ふ事はお前達も知つてゐるね、ところが働蜂は、女王がなかつたら、此の世の中には何でも残らないと云ふ事を知つてゐて、それに強く心を傾けてゐる。だから働蜂は、将来には他の女王が要るといふ目あてを失はずに、しかも現君主に対しては非常な尊敬を払つて待遇する。その種族継続の為めには女王がなくてはならない。どうしてもつくらなければならないだらう。此の為めに王のパン粥が大きな室の中の幼虫の役に立つのだ。
『さて、春、働蜂や雄蜂が既に孵つた時に、騒がしいバサ/\云ふ音が王房の中から聞える。それは若い女王が蜜蝋の牢屋の外に飛び出して見ようとしてゐるのだ。養育係りの蜂や、蜜蝋蜂が其処にぎつしりくつつき合つた歩兵大隊になつて、警衛に立つてゐる。彼等は女王蜂が飛び出すのを防ぐために援兵を増してその蜜蝋の室の中にゐる女王を守つてゐる。そして彼等はその覆ひを破る手伝ひをする。「今は飛び出す時ぢやありません」と彼等が云つてゐるやうに見える。「険呑です!」そして非常な尊敬をこめて激しく訴へる。若い女王はその新らしく出来た翅を動かしたくて我慢がならないのだ。
『親の女王蜂はそれを聞いてゐる。その激情を煽られる。そして激しい怒りで室の上で足ぶみをし、蜜蝋の覆ひの千切れを投げ、飛んで行つて、その僭望者共を室から引きづり出して来て、無慈悲にその若い女王達をきれ/″\になるやうに喰ひ裂く。いく匹かの女王蜂が、その狂暴の下にすくんでしまふ。しかしやがて、他の人民共が女王を取り巻いて円の中に入れてしまひ、だん/\にその殺戮の光景から引きづつて行つて遠ざけてしまふ。未来は助かつた。其処にはまだ幾匹かの女王蜂が残されてゐる。
『さうしてゐる間に、憤りはます/\激しくなり、内乱が勃発する。或るものは古い女王に加担し、或るものは若い女王に味方する。此の意見の混乱した争闘と騒ぎは、穏やかな活動に続いてゆく。巣箱は嚇しのブン/\云ふ声で一杯になり、一杯中味のつまつた倉庫は掠奪に会ふ。そして其処には明日の事などは考へない大宴会がはじまる。短刀はつき交へられた。女王蜂は巧妙な動作で、且つて自分が見出した、そして今は自分に叛く競争者が起つた恩知らずの国を見棄てる事を決定する。「私を愛する者は私にいてお出!」そしてその女王は見栄をきつて巣箱を飛び出して決して再び其処にはいつて来ない。その女王の味方のものは女王と一緒に飛んで行つてしまふ。その移民隊が巣分れの群蜂を形づくるのだ。それは出て行つて新しい植民地を何処かに見つけるのだ。
『秩序を再び整へるために、騒ぎの間何処へか行つてゐた働蜂が来て、巣箱に残つてゐる蜂を結びつける。二匹の若い女王が彼等に頂かれるのだ。どれがその君主になるのだらう? それをきめるのに一匹が死ぬまで決闘をしなくてはならない。女王蜂はめい/\室から出る。そしてお互ひに、ねらひを定めるや否や飛びかゝつてゆく。背中をまつすぐに立て、顎でお互ひの触角をくはへ、頭と頭、胸と胸とを突き合はせる。此の姿勢で、めいめいにその胃袋の端の毒を持つた螫毛を少し相手の体に突き込む。だが、それでは二匹とも死んでしまふ。そんな襲撃の方法は許されない。彼等は引き分けられて退く。しかし、他の人民共は彼等を取り巻いて、飛んで行つてしまはないやうに防ぐ。彼等の中の一匹だけは降参しなくてはならない。二匹の女王蜂はもう一度闘ひはじめる。そのうまい方の一匹が、他の一匹が防ぎ損ねた一瞬間に、相手の背中に飛び乗つて、体と翅のつがひ目の処を捉んで、その脇の方を刺す。犠牲は股をつつぱつて死ぬ。それで、すべてが終るのだ。王は唯だ一つにかへつた。そして巣箱は、その秩序も、仕事も何時もの通りに繰り返されるやうになる。』
『蜂はずいぶん乱暴ですね、女王がたつた一匹になるまで殺し合ふなんて。』とエミルが云ひました。
『さうする必要があるのだよ坊や。それが彼等昆虫の要求なのだ。さうしなければ巣箱の中は絶えず内乱が起つてゐるだらう。しかし此の不愉快な争ひの間も王の威厳に対してはらはれる尊敬を一瞬間も彼等は忘れはしない。どうして彼等にとつては余計な女王達の出て行くのを防ぐのだらう? 雄蜂を逐払ふやうな風に手軽にやらないのだらう? 蜂共は非常に注意してそれをしないやうにするのだ。どうして沢山の中の一匹でもその邪魔に対する時と同様に剣を引き抜いてその主権者に向つて挑まないのだらう? 生命を救ふ力は彼等の中にはないのだ。彼等はたゞその僭望者達に戦はせてその名誉を救ふのだ。
『その女王の上にも常にある可能性がある。それは、女王が至上の主権をふるつてゐる時にでも、不時の災難で殺されるか、老衰の為めに死ぬ事があるのだ。蜂は尊敬を表はしてその死んだ周囲を取り巻く。そして丁寧にその体を刷き、まるで生き返つて来た者にするやうに蜜を捧げる。そしてその体をころがして見、やさしく触つて見て、生きてゐた時にしたのと同じやうに気をつけて扱ふ。女王が既に全く死んでゐて、彼等のすべての注意が不用だと云ふ事を覚るまでには、幾日かかゝるのだ。そしてやがて悲しみが来る。二日か三日かの間毎夕方、葬式の挽歌の一種であらう悲しさうなブンブン云ふ音が巣箱の中で聞こえる。
『悲しみが去ると、蜂共は女王をおく事について考へる。一匹の若い幼虫が、普通の室の中から選ばれる。それは蜜蝋蜂になるやうに生れて来たのだが、事情はその幼虫に王位を与へるやうに進んでゆく。働蜂はその神聖な幼虫のゐる室に隣り合つた室々を破しはじめる。女王は満場一致で王位につくのだ。王房を建てるにはもつと広い場所が要る。此の仕事は残された室を王位につくことに決められた幼虫のはいる室のやうに、取り拡げてゆびぬきの形に出来るやうにする。幾日か幼虫はこの王の為めの食物をたべる。その甘いパン粥が女王をつくるのだ。そして奇蹟は成就された。女王は死んだ、そして若い女王が生きてゐるのだ!』
『蜜蜂の話は、叔父さんの話のうちで一寸おもしろかつた。』とジユウルが云ひました。
『私もさう思ふよ』と叔父さんは同意しました。『だから、この話を一等おしまひまでとつておいたのだ。』
『何ですつて――おしまひですつて?』ジユウルが叫びました。
『叔父さんはもう私達にお話をして下さらないですか?』クレエルが尋ねました。
『まさかさうぢやないんでせう?』とエミルも云ひました。
『いくらでも、お前達の好きなだけしてあげるよ。だがね、それはあとでだ。もう取り入れ時が来たから叔父さんはその方に時間をとられてひまがないんだ。だから今はこれでおしまひにしておかう。』
 それから後ポオル叔父さんは毎日畑に行つてゐて、夕方になつてももうお話をしませんでした。エミルはまたノアの箱船の処に行つて見ました。箱船の中でエミルはかびた象を見つけ出しました。あの蟻の話以来すつかりおもちや箱に御無沙汰をしてゐたのです。
(『科学の不思議』アルス、一九二三年八月一日)





底本:「定本 伊藤野枝全集 第四巻 翻訳」學藝書林
   2000(平成12)年12月15日初版発行
底本の親本:「科学の不思議」アルス
   1923(大正12)年8月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:トレンドイースト
2010年7月31日作成
2011年5月18日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

「月+奧」、U+443F    358-19、359-1、359-12、359-14、359-16、359-19


●図書カード